第88話 不安の価格と銀河の逃避行
期末テストという名の儀式が終わり、学園は夏休みを目前に控えた浮足立った空気に包まれていた。
だが、俺にとって、休日は単なる「ビジネスに集中できる日」でしかない。
午前10時。渋谷区桜丘町、『レオ・キャピタル』のオフィス。
「……社長。Y2K対策代行サービスの料金設定ですが、この強気な価格で本当に依頼が来るのでしょうか?」
秘書の如月舞が、資料を見ながら小首を傾げた。
今日の彼女は、涼しげなアイスブルーのブラウスにタイトスカート。知的な美貌が、オフィスの無機質な空間に映える。
「来ますよ。……人間は『得体の知れない恐怖』に対してなら、財布の紐が緩む生き物です」
俺はホワイトボードに数字を書き込んだ。
『基本出張費:50,000円。対策作業費:PC1台につき30,000円』
中小企業にとって安くはない額だ。だが、システムを入れ替える数百万円に比べれば破格に見える。
「作業内容は、BIOSのアップデートとOSの修正パッチ適用のみ。慣れれば一台30分で終わります。学生バイトを雇ってマニュアル通りに動かせば、利益率は80%を超える」
「……なるほど。『安心』をパッケージにして売るわけですね」
「その通りです。我々が売るのは技術ではない。『これで2000年になっても大丈夫です』というお墨付きだ」
マッチポンプに近いが、嘘はついていない。実際に放置すれば誤作動のリスクはあるのだから。
舞は納得したように頷き、手際よく手配を進めた。
「……そういえば、舞。最近、休日はどう過ごしている?」
ふと、業務連絡の合間に個人的な問いを投げかける。
「え? ……はい。基本的には読書や映画鑑賞を。……先日、社長にお勧めいただいた作品も拝見しました」
舞の表情がふわりと緩む。
鉄壁の秘書から、19歳の女性の素顔に戻る瞬間。
「それは良かった。……君には、美しいものを見ていてほしいからな」
「……社長。そういう台詞は、大切な方々に取っておいてください」
彼女は照れ隠しのように視線を逸らした。この距離感が心地よい。
午後。俺はオフィスを出て、渋谷の『EST渋谷東口会館』にいた。
ボウリング場だ。
「っしゃあ! ストライク! ……どうよ西園寺! 今日の俺は一味違うぜ!」
隣のレーンで、城戸隼人がガッツポーズを決めている。
テスト明けの解放感からか、今日の彼はいつにも増して気合が入っている。
「見事なフォームだ。……だが、俺に勝つにはまだ足りないな」
俺はボールを手に取り、アプローチに立った。
重さ15ポンド。指の掛かりを確認する。
(……4月の対決時よりも、レーンのオイルが薄い。曲がり幅を調整する)
助走。リリース。
ボールは美しい放物線を描き、1番ピンと3番ピンの間――ポケットに吸い込まれた。
ガシャァァン!!
全てのピンが弾け飛ぶ。物理演算通りのストライク。
「……くっそぉぉ! なんでだよ! こっそり練習したのに!」
隼人が頭を抱えて悔しがる。
以前の対決で完敗した彼は、雪辱を果たすべく密かに腕を磨いていたらしい。確かにスコアは上がっているが、俺の「演算」を超えるには至らない。
「努力は認めよう。だが、結果が全てだ」
「鬼かお前は! ……あーあ、またジュース奢りかよ」
隼人はふてくされながらも、楽しそうに笑った。
利害関係のない友人との、単純な勝ち負け。
ビジネスで張り詰めた神経をクールダウンさせるには、これ以上の薬はない。
翌、日曜日。
俺は渋谷の大型書店に併設されたブックカフェにいた。
周囲は参考書を広げている受験生や、雑誌を読む若者で混雑している。
俺はカウンター席の隅で、洋書のペーパーバックを読んでいた。
ふと、隣の席から深いため息が聞こえた。
「……はぁ。全然わかんない……」
見覚えのある横顔。
艶やかな黒髪を耳にかけ、眉間に深い皺を寄せている少女。
瀬名愛理先輩だ。
聖カトレア女学院の制服ではなく、シンプルな白のブラウスにカーディガンという私服姿。
テーブルの上には、真っ赤な表紙の『赤本』が広げられている。
「……難関私大の数学ですか。文系選択者には鬼門ですね」
俺が声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、鋭い視線を向けてきた。
「っ!? ……なによ。ナンパなら他を当たってくれる? 今、忙しいの」
刺々しい拒絶。
先日の勉強会で少し態度は軟化したはずだが、まだ警戒心は解けていないようだ。
「奇遇ですね、瀬名先輩。西園寺です」
「……え? あ、西園寺くん?」
彼女は俺の顔を認めると、少しだけバツが悪そうに視線を落とした。
「……ごめんなさい。知らない人かと思って」
「構いませんよ。……随分と難しそうな顔をしていましたから」
俺は彼女の手元にあるノートを覗き込んだ。
微積分の応用問題。グラフの概形を捉え損ねている。
「……この関数、微分して増減表を書く前に、対称性に注目した方が早いです。偶関数ですから、y軸で折り返せば計算量は半分で済みます」
「え……?」
愛理先輩は目を丸くし、改めて問題を見た。
「……本当だ。なんで気づかなかったんだろ」
彼女は急いでペンを走らせる。数行の計算の後、求めていた解が導き出された。
「……解けた」
彼女は顔を上げ、まじまじと俺を見た。
「……貴方、本当に頭の中どうなってるの? まだ1年生よね?」
「1年生ですが、数学に学年は関係ありません。論理の積み重ねですから」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
「……嫌な奴。でも、助かったわ」
彼女は苦笑し、テキストを閉じた。
「……少し、休憩しない? 煮詰まっちゃって」
「ええ。お付き合いしますよ」
彼女は語り始めた。
進学校特有の閉塞感。
「いい大学に入らなければならない」というプレッシャー。
親友であるセイラや結衣が変わり始めている中で、自分だけが取り残されているような焦り。
「……学校ってさ、なんか狭い箱庭みたいよね。そこでの評価が全てだと思い込まされて、息ができなくなる」
「システムですからね」
俺は淡々と答えた。
「学校は、均質な労働者を生産するための効率的なシステムに過ぎません。その評価軸が、貴女の価値の全てであるはずがない。……箱庭が窮屈なら、外の世界に物差しを持てばいい」
ドライな正論。
だが、愛理先輩は傷つくどころか、憑き物が落ちたような顔をした。
「……ふふ。貴方と話してると、私の悩みがちっぽけに思えてくるわ。……本当に、可愛げのない後輩」
彼女の瞳から、険しい色が消えていた。
「……ねえ、西園寺くん。この後、時間ある?」
店を出た後、愛理先輩が唐突に聞いてきた。
「特に予定はありませんが」
「じゃあ、付き合って。……お礼に、涼しいところ連れて行ってあげる」
彼女に連れられて向かったのは、渋谷駅前の東急文化会館。
その最上階にある『五島プラネタリウム』だった。
ドーム状の天井。
リクライニングシートに並んで座る。
館内が暗転し、人工の夜空が広がる。
「……綺麗」
満天の星。
渋谷の空には決して見えない、数千、数万の輝き。
「私ね、ここが好きなの」
暗闇の中で、愛理先輩の声が響く。
「ここに来ると、自分が宇宙の塵みたいにちっぽけに思えるでしょう? ……テストの点数とか、偏差値とか、どうでもよくなってくるの」
「……広大な宇宙の前では、人間の営みなど瞬きにも満たない刹那ですからね」
「そう。……だから、安心するの」
彼女の手が、シートの肘掛けの上で、ふと俺の手に触れた。
避けるでもなく、握るでもなく。
ただ、そこに体温があることを確かめるような距離感。
ナレーターの声が、夏の大三角を解説している。
デネブ、アルタイル、ベガ。
「……西園寺くんは、どこを見てるの?」
「え?」
「貴方の目は、いつもここじゃない、もっと遠くを見てる気がする。……セイラや結衣が見ている世界とも違う、もっと冷たくて、広い世界」
鋭い。
彼女は「監視者」として二人を守ってきただけあって、観察眼が優れている。
「……僕は、ただのリアリストですよ。現実という盤面を、どう攻略するか考えているだけです」
「ふーん。……まあ、いいわ。今は、隣にいてくれるだけで」
彼女は小さく笑い、天井を見上げた。
星空の下。
言葉はなくても、共有できる空気がある。
「親友の保護者」という重荷を下ろし、ただの一人の少女に戻った彼女の横顔は、星明かりを受けて儚く、そして美しかった。
プログラムが終わり、明かりがつく。
「……ありがと。付き合ってくれて」
外に出ると、夕暮れの渋谷は相変わらずの喧騒だった。
だが、彼女の足取りは来る時よりもずっと軽い。
「また、勉強教えてくれる?」
「ええ。いつでも」
「ふふ。……頼りにしてるわよ、年下の先生」
彼女は悪戯っぽく微笑み、雑踏の中へと消えていった。
愛理先輩と別れた後。
俺は渋谷から山手線に乗り、高田馬場へと移動した。
時刻は19時を回っている。
駅前のロータリーは、コンパに向かう早稲田の学生たちでごった返していた。
俺は人混みを避け、駅近くの喫茶店『ルノアール』に入った。
奥の席に、参考書を広げているショートカットの女性がいた。
早坂涼だ。
「……お待たせしました、涼さん」
「ん? ……おう、ボン。悪いな、急に呼び出して」
涼は顔を上げ、少し照れくさそうに笑った。
今日の彼女は、白のブラウスにチノパンという、少しだけ大人びた格好をしている。
「いえ。……おめでとうございます」
俺は席に着くなり、小さな紙袋をテーブルに置いた。
「え?」
「今日は7月18日。貴女の19歳の誕生日でしょう?」
涼は目を丸くし、それから吹き出した。
「ははっ! マジかよ。……アタシ自身、忘れてたわ」
「自分の誕生日は忘れても、他人の記念日は忘れない。それが貴女の良いところですが、たまには自分を祝ってあげてください」
「……バーカ。キザなこと言うねぇ」
涼は紙袋を開けた。
中に入っていたのは、黒い化粧箱に入った『モンブラン』のボールペンだ。
マイスターシュテュック。重厚で、かつ手に馴染む一本。
「……すげぇ。これ、いいやつじゃん」
「教育者を目指す貴女には、長く使える筆記具が必要だと思いました。……教壇に立つ日、そのペンがポケットにあることを願っています」
涼はペンを手に取り、試し書きをするように空中で動かした。
その瞳が、微かに潤んでいるように見えた。
「……サンキュ。一生もんのお守りにするよ」
彼女はペンを大切そうに胸ポケットにしまった。
「……で? 飯はどうする? 奢ってくれるんだろ?」
「もちろんです。今日は主役の希望を優先しますよ」
「じゃあ、焼き鳥! 赤提灯で一杯やりたい気分だ!」
「……了解しました。ですが、飲みすぎないように」
「へいへい、保護者かお前は」
店を出て、赤提灯の並ぶ路地へと歩き出す。
19歳になった彼女の背中は、以前よりも少しだけ頼もしく見えた。
この先、彼女がどんな教師になるのか。
その未来を見届けるのも、俺の楽しみの一つだ。




