第87話 傲慢な弟と夏野菜の救済
期末テストも後半戦に突入し、生徒たちの疲労の色が濃くなる中、東京の気温は容赦なく上昇していた。
通学中のハイヤーの中だけが、別世界のように快適な冷気に保たれている。
俺は、膝の上に広げた洋書に視線を走らせていた。
『The Silicon Valley Way』。
現地のベンチャーキャピタリストが書いた、最新のスタートアップ事情とマーケティング理論の解説書だ。
Google、Amazon、eBay。
この時代、海の向こうでは次々と怪物が産声を上げている。彼らのスピード感と「世界を変える」という野心は、日本の閉塞感とは対照的だ。
「……まずはY2Kか。この祭りに乗らない手はない」
本を閉じ、これからの事業計画を脳内でシミュレートする。
学校に着くと、そこは現実のテストという名の戦場だった。
2限目、英語。
長文読解の問題。文脈から空欄を補充する形式だが、俺には著者の意図が透けて見えるようだ。単語を選ぶのではなく、論理のパズルを埋める作業。ペン先が止まることはない。
休み時間。
廊下で霧島セイラ先輩と遭遇した。
彼女は生徒会の資料を抱えながらも、以前のような険しさはなく、どこか憑き物が落ちたような顔をしている。
「……ごきげんよう、西園寺くん。テストの手応えは?」
「問題ありません。先輩こそ、生徒会との両立で大変でしょう」
「ふふ、愚問ね。どちらも完璧にこなしてこその『霧島』よ」
強気な言葉だが、その響きは柔らかい。
彼女との短い会話は、殺伐とした試験期間における数少ない清涼剤だ。
だが、校内には清涼剤ばかりではない。
澱んだ空気もまた、確かに存在していた。
その日の放課後。
俺は図書室へ向かう途中、渡り廊下の陰で話し込む二人の姿を目撃し、足を止めた。
一人は、日向翔太。
もう一人は、教育実習生の高村遥先生だ。
実習期間も佳境に入り、研究授業の準備や日誌の作成で多忙を極めているはずだが、彼女は疲れた顔で翔太の相手をしていた。
物陰から様子を伺う。
俺の悪趣味な盗み聞きではない。翔太の放つ空気が、あまりにも不穏だったからだ。
「……でさー、遥姉ちゃん聞いてよ。マナのやつ、最近マジで付き合い悪くてさー」
翔太は壁に寄りかかり、ポケットに手を突っ込んだまま愚痴をこぼしていた。
「あいつ、俺が『ノート貸して』って言っても『自分でやりなよ』とか言うんだぜ? 昔は喜んで貸してくれたのにさ。……なんか、生意気になったよな」
「……翔太ちゃん」
遥先生の表情が曇る。
彼女は気づいているはずだ。最近の桜木マナが、翔太の付属物としてではなく、一人の少女として自立し、美しくなっていることに。
だが、翔太の言葉には、幼馴染の成長を喜ぶ響きは皆無だ。あるのは、所有物が思い通りに動かないことへの苛立ちだけ。
「……マナちゃんにも、マナちゃんの都合があるのよ。それに、翔太ちゃんももう高校生なんだから、自分のことは自分でしなきゃ」
「えー? ケチくさいなぁ。……あ、そうだ!」
翔太はニヤリと笑い、遥先生に擦り寄った。
「ねー、遥姉ちゃん。今度の現代文のテスト範囲、こっそり教えてよ。ヤマ張るの手伝って!」
「……っ!?」
遥先生が目を見開いた。
「ダメよ! それはカンニングと同じじゃない! ……先生として、そんなこと絶対にできない」
「なんだよ、堅いなぁ。昔は宿題手伝ってくれたじゃん」
「それは小学生の話でしょう!? ……翔太ちゃん、貴方、善悪の区別もつかなくなっちゃったの?」
遥先生の声が震える。
教育者としての怒り以上に、かつて可愛がっていた「弟分」の精神的な未熟さと、倫理観の欠如に対する深い絶望が滲んでいた。
「……チェッ。使えねーな。もういいよ」
翔太は舌打ちをし、遥先生に背を向けて歩き去った。
残された遥先生は、その場に立ち尽くしていた。
期末テスト最終日。
昼休み。俺は中庭のベンチで、衝撃的な光景を目撃することになる。
そしてそれは、高村遥にとっても決定的な瞬間となった。
「お前、俺の幼馴染のくせに、なんで俺の言うこと聞かないんだよ!!」
怒号が響いた。
校舎裏の死角。
翔太が、マナの腕を掴み、壁に押し付けるようにして怒鳴りつけていた。
「い、痛いよ翔太くん……! 離して……!」
マナが顔を歪める。
恐怖に怯えるその姿は、かつての彼女に戻ってしまったかのようだ。
「ふざけんな! 俺が『答え見せろ』って言ったら見せるのが当たり前だろ!? 俺たち、ずっとそうやってきたじゃねーか!」
テスト中のカンニング強要。
それは、依存ではなく搾取だ。
「やめて!!」
鋭い声と共に、高村遥が割って入った。
彼女は翔太の手を振りほどき、マナを背に庇った。
「……遥姉ちゃん……?」
「日向くん! 何をしてるの!? 女の子に乱暴するなんて……!」
彼女は「翔太ちゃん」ではなく、「日向くん」と呼んだ。それは決別の響きだった。
だが、翔太の目は濁っていた。
「……うっせーな。これは俺たちの問題だろ? 部外者は引っ込んでろよ、ババア」
「……ッ!」
遥の顔から血の気が引いた。
優しかった弟分の顔は、そこにはない。
あるのは、自分の欲求を満たすためなら他人を踏みにじることも厭わない、醜いエゴイズムの塊だ。
俺は木陰から出るタイミングを計っていたが、その必要はなかった。
マナが、震える声で、しかしはっきりと言ったからだ。
「……翔太くん。私、もう貴方の言いなりにはならない。……さようなら」
マナは遥の手を引き、その場を走り去った。
取り残された翔太は、壁を蹴り上げ、悪態をついていた。
「……クソがッ!」
その姿は、あまりにも小さく、そして哀れだった。
放課後。
テスト終了の解放感に包まれる学園を後にし、俺は渋谷のオフィスに向かった。
舞に指示を出すためだ。
「社長、例の『ロレックス』の件ですが」
「ああ。デイトナのRef.16520、市場価格がじわじわ上がっているな」
ロレックス。
それは単なる高級時計ではない。世界中で換金可能な「持ち運べる資産」だ。
クレジットカードが止まっても、株が暴落しても、この時計さえあれば世界中のどこでも現金を作れる。
ファントムのような脅威が迫る今、こうした流動性の高い現物資産の確保はリスクヘッジとして必須だ。
「それと、新規事業の件だ」
俺はホワイトボードに『Y2K』と書き殴った。
2000年問題。コンピュータが西暦2000年を認識できず誤作動を起こすという、世紀末最大の懸念事項。
「中小企業向けの『2000年問題対策・出張代行サービス』を立ち上げる」
「……代行、ですか?」
「ああ。実際にはBIOSのアップデートや修正パッチを当てるだけの単純作業だ。だが、世間の社長たちは『データが消える』『会社が止まる』という恐怖に怯えている」
俺はニヤリと笑った。
「恐怖は金になる。……不安を煽るDMを100万円分撒け。文面は『対策しないと全てを失います』だ。そして、作業部隊として学生バイトを雇え。人件費とCD-ROM作成費で300万円。……これで数千万円を抜く」
「……悪徳商法スレスレですね」
「事実に基づいたコンサルティングだよ。彼らに安心を売るんだ」
マッチポンプ。だが、これもまたビジネスだ。
翔太のような感情的な搾取とは違う。互いにメリットのある、冷徹な取引だ。
帰宅後。
俺はスーパーで買い込んだ食材をキッチンに広げた。
静まり返ったリビング。ペントハウスの窓からは、東京の夜景が一望できる。
誰の干渉も受けない、一人きりの時間だ。
今日のメニューは『夏野菜のカレー』。
市販のルウは使わない。クミン、コリアンダー、ターメリック……十数種類のスパイスを調合し、小麦粉を使わずに作る本格派だ。
主役は夏野菜。
完熟トマト、ナス、ズッキーニ、パプリカ、オクラ。
トマトは湯剥きしてざく切りにし、水を使わずトマトの水分だけで煮込む。
ナスやズッキーニは素揚げにして、最後に合わせることで色鮮やかさと食感を残す。
「……隠し味は、マンゴーチャツネとダークチョコレート」
酸味と苦味が、スパイスの刺激に深みを与える。
挽肉をたっぷり使い、肉の旨味も凝縮させる。
サイドメニューは『コールスロー』。
キャベツと人参を千切りにし、塩揉みして水気を絞る。マヨネーズ、酢、砂糖、そして少しのマスタードで和える。カレーの辛さを和らげる優しい味だ。
飲み物は『ラッシー』。
ヨーグルトと牛乳、レモン汁、ハチミツをミキサーにかける。氷を浮かべれば、インドの風が吹く。
「……完成だ」
食卓に並ぶ、彩り豊かな夏野菜カレーと、真っ白なラッシー。
俺は椅子に座り、一人静かに手を合わせた。
「いただきます」
スプーンでカレーを掬い、口に運ぶ。
「……っ」
スパイスの刺激が脳を覚醒させ、トマトの濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。
揚げたナスのとろけるような食感。キーマの肉々しさ。
辛さが込み上げてきたところで、冷たいラッシーを飲む。
ヨーグルトの酸味と甘みが、口の中の火を優しく鎮火してくれる。
「……美味い」
誰かと共有する食事も良いが、こうして味覚と向き合う孤独な時間も悪くない。
俺は黙々とスプーンを動かした。
食後。
俺はリビングの照明を落とし、レンタルしていたDVDを再生した。
デヴィッド・フィンチャー監督の『セブン』。
七つの大罪に見立てた連続猟奇殺人。
暴食、強欲、怠惰、肉欲、高慢、嫉妬、憤怒。
スクリーンの中で、雨の降りしきる陰鬱な都市が映し出される。
翔太の罪はなんだろうか。
幼馴染を所有物とみなし、姉のような存在を利用しようとした「高慢」。
あるいは、自分にないものを持つ者への「嫉妬」。
犯人ジョン・ドゥの言葉が蘇る。
『人は罪を見過ごし、許容する。だが、もう終わりだ』
俺はグラスに残ったラッシーを揺らした。
彼への断罪は、俺が手を下すまでもない。
彼自身が撒いた種が、彼を食い尽くそうとしているのだから。




