第86話 確率の神託と晩夏の南蛮漬け
ついに、私立桜花学園の一学期期末試験が幕を開けた。
朝からセミの鳴き声が響き渡る猛暑日。教室内の空気は、冷房の冷気と生徒たちが発する熱気で淀んでいる。
1限目、国語。2限目、物理。
俺は、配られた解答用紙に淡々と正解を刻み込んでいった。
41歳の精神を持つ俺にとって、高校1年生の問題など情報の再出力作業に過ぎない。
重要なのは「満点を取ること」ではなく、「教師が求める回答を完璧に再現すること」だ。出題者の意図を読み、最適な解を返す。それはビジネスにおけるクライアントワークとなんら変わりない。
正午。試験終了のチャイムが鳴る。
「うわぁぁぁ! 物理死んだぁぁ!」
「古文の『已然形』って何だっけ!?」
阿鼻叫喚の嵐の中、俺は鞄をまとめた。
今日はこれで放免だが、帰るわけにはいかない。
「……おい西園寺、頼む! 明日の数学、マジでヤバい!」
城戸隼人が拝むように手を合わせている。
そしてその横には、控えめに教科書を抱えた桜木マナの姿もあった。
「……私も、ちょっと不安で……。西園寺くん、教えてもらえるかな?」
「構いませんよ。場所を変えましょう」
俺たちは、冷房の効いた図書室の閲覧コーナーに陣取った。
「いいですか、城戸。三角比の基本は『定義』です。サイン、コサイン、タンジェント。これらは単なる記号ではなく、直角三角形の辺の比率を表しています」
「うーん……言ってることは分かるんだけど、問題になると頭真っ白になるんだよな」
「図を描くんです。視覚情報に変換すれば、脳の処理負荷は下がります」
俺はノートに図解を描きながら、根気強く解説した。
隣では、マナが真剣な表情で俺の説明を聞き入っている。
「……そっか。単位円で考えればいいんだね。ありがとう、玲央くん!」
マナがパッと顔を輝かせた。
先日のお化け屋敷以来、彼女は俺を「玲央くん」と呼ぶようになった。その響きに含まれる親愛の情は、周囲の男子生徒が振り返るほどに甘い。
「……へぇ。お前ら、いつの間に名前呼びになったんだよ?」
隼人がニヤニヤしながら茶々を入れる。
「っ!? ち、違うよっ! これは、その……!」
マナはゆでダコのようになって俯いた。
俺は咳払いをして、隼人の頭をノートで軽く叩いた。
「無駄口を叩く暇があったら手を動かしなさい。赤点を取っても知りませんよ」
「いてっ! 分かったよ鬼教官!」
青春の1ページ。
だが、俺にはこの後、全く別の顔を持つ「大人」との会合が待っている。
16時。補習を終えた俺は、渋谷へと移動していた。
夕方になっても気温は下がらず、アスファルトの照り返しが厳しい。
喉の渇きを覚え、スペイン坂のドリンクスタンドに立ち寄る。
「『スイカ・フレッシュジュース』を一つ」
夏限定のメニューだ。
余計な甘味を加えず、完熟スイカをそのまま搾った真紅の液体。
一口飲むと、瓜科特有の青い香りと、強烈な涼味が身体を駆け巡る。カリウムと水分が、乾いた細胞に染み渡っていく。
「……生き返るな」
カップを片手に駅前を歩いていると、宝くじ売り場の前に行列ができているのが見えた。
『サマージャンボ宝くじ』。
3億円の夢を求めて並ぶ人々の群れ。
俺はふと足を止め、列の最後尾に並んだ。
「バラで10枚」
3,000円を支払い、極彩色の紙片を受け取る。
当選確率は天文学的に低い。期待値で言えば、買うこと自体が非合理的だ。
だが、この紙片は「夢を見る権利」として機能している。大衆が何に希望を託しているのか、その熱量を確認するためのチケットだと思えば安いものだ。
そのままハイヤーに乗り込み、向かった先は赤坂。
政治と金が動く街。
路地裏にひっそりと構える料亭『松風』。
その個室に、一人の男が待っていた。
「……待っていたぞ、少年」
宮島寅雄。
民自党の衆議院議員であり、清濁併せ呑む古狸だ。
和服に着替えた彼は、昼間の議員会館での顔とは違う、リラックスした――しかし油断のない表情をしている。
「お待たせしました、先生」
俺は下座に座り、深々と頭を下げた。
「テスト期間中だろう? 悪いな、呼び立てて」
「いえ。先生のお話なら、勉強よりも優先順位は上です」
「ハッ、相変わらず可愛げのない高校生だ」
宮島は笑い、杯を干した。
「……単刀直入に言おう。『ファントム』の件だ」
場の空気が凍りついた。
広域窃盗団ファントム。俺が警戒している最大の脅威。
「警察庁の上層部が焦っている。……被害者の中に、表沙汰にできない『裏金』や『資料』を盗まれた大物がいるらしい」
「……なるほど。だから警察は動きが鈍かったと?」
「ああ。だが、これ以上放置すればメンツに関わる。……近々、大規模な捜査網が敷かれるだろう」
宮島は声を潜めた。
「少年。君の周囲でも、妙な動きはないか? ……例えば、君の資産を狙うような」
「……今のところは。ですが、警戒は怠っていません」
「結構。……君は私のスポンサーだ。つまらない連中に足を掬われないようにしてくれよ」
宮島はニヤリと笑った。
この男にとって、俺は便利な財布であり、将来有望な若木だ。
守ってくれるわけではないが、情報はくれる。
このドライな共犯関係が、今は心地よい。
期末テスト2日目を終えた俺は、麻布十番の『ナニワヤ』に立ち寄っていた。
誰かのためではない。自分自身の胃袋と精神を満たすための買い出しだ。
一人暮らしのペントハウスには、誰の干渉も受けない自由がある。
鮮魚コーナーで、長崎県産の『ブランド真アジ』を選ぶ。
背が黒く、腹が黄金色に輝く「金アジ」だ。脂の乗りが違う。
以前も作ったことがあるメニューだが、旬のピークを迎えた今、もう一度あの味を確かめたくなった。
「……今日は少し趣向を変えるか」
前回は切り身にしたが、今回は小ぶりのものを丸ごと揚げるスタイルにしよう。
さらに、青果コーナーで夏野菜を買い込む。
皮が薄く甘みの強い『ゴールドラッシュ』。
山形県鶴岡産の『だだちゃ豆』。
酒コーナーでは、鹿児島産の芋焼酎『森伊蔵』を見つけた。
「幻の焼酎」と呼ばれる3Mの一つ。定価で置かれているのは奇跡に近い。即座にカゴに入れる。
帰宅後。
静まり返った広大なリビング。
誰の声もしない。だが、それがいい。
俺はジャケットを脱ぎ、キッチンに立った。ここからは俺だけの時間だ。
まずは『トウモロコシの塩茹で』。
鮮度が命だ。皮を数枚残したまま、たっぷりの湯で茹でる。茹で上がり直後に濃い目の塩水にサッとくぐらせることで、甘みを引き立てつつシワを防ぐ。
次に『枝豆』。
両端をハサミで切り落とし、塩揉みして産毛を取る。
硬めに茹で上げ、うちわで仰いで急冷する。鮮やかな緑色が目に眩しい。
そしてメインの『アジの南蛮漬け』。
小アジのエラと内臓を壺抜きにし、ぜいごを取る。
片栗粉をまぶし、低温の油でじっくりと揚げる。骨まで食べられるように、二度揚げにするのがコツだ。
ジュワワワッ……。
香ばしい音が、静かなキッチンに響く。
揚げたての熱々を、特製の南蛮酢にジュッと漬け込む。
今回は、夏らしくレモンの輪切りと、たっぷりの白髪ねぎ、そしてミョウガを加えた。
「……完成だ」
食卓に並ぶ、黄金色のアジと、鮮やかな黄色と緑の夏野菜たち。
それらを照らすダウンライトの下、俺は『森伊蔵』のボトルを開けた。
グラスに氷を入れ、焼酎を注ぎ、水を加える。前割りではないが、上質な水割りだ。
「いただきます」
一人静かに手を合わせる。
まずはアジを頭から豪快に齧る。
「……っ」
サクサクという小気味よい音。骨までホロホロに崩れ、身から溢れる脂と南蛮酢が口の中で混ざり合う。
レモンの酸味が鼻に抜け、揚げ物なのに驚くほど軽い。
そこに、水割りを流し込む。
『森伊蔵』特有の、上品でまろやかな芋の甘み。水で割ることで香りが開き、料理の余韻を優しく包み込む。
「……美味い」
トウモロコシにかぶりつく。弾けるような甘み。
枝豆をつまむ。濃厚な豆の香り。
誰かと食べる食事も悪くはない。
だが、こうして食材と、酒と、自分自身と向き合う時間こそが、俺の精神を最も深く回復させる。
窓の外には、東京タワーの灯り。
この街のどこかで、ファントムが動き、神宮寺が策を巡らせている。
だが、今この瞬間だけは、このアジの南蛮漬けこそが世界の全てだ。




