第85話 量子のビリヤードと煙の向こうの悪意
第85話:量子のビリヤードと煙の向こうの悪意
梅雨明けを待ちわびる東京は、湿度を含んだ重たい曇天に覆われていた。
外気の不快指数とは裏腹に、空調の効いた『グラン・エターナル麻布』のリビングは快適そのものだ。
俺は、ソファに深く身を沈め、一冊の文庫本に没頭していた。
リチャード・P・ファインマン著『ご冗談でしょう、ファインマンさん』。
先日、図書室で借りてきた本だ。
ノーベル物理学賞受賞者でありながら、ボンゴを叩き、金庫破りに熱中し、トップレスバーで物理の計算をする。稀代の天才物理学者の、破天荒でユーモラスな自伝的エッセイ。
「……権威を疑い、自分の目で確かめる。科学的態度の原点だな」
ページをめくる手が止まらない。
既存の常識に囚われず、現象の裏側にある「仕組み」を面白がる姿勢。それは、転生者としてこの世界をハックしようとしている俺のスタンスとも共鳴する。
その時、サイドテーブルに置いていた携帯電話が震えた。
ディスプレイには『城戸隼人』の文字。
「……もしもし」
『よう西園寺! 暇だろ? 遊ぼうぜ!』
開口一番、これだ。
日曜日の午前中。テスト明けの休日くらいゆっくりしたいところだが、彼にそんな配慮はないらしい。
「読書中だ、城戸。……またゲーセンか?」
『いや、今日はビリヤードだ! ……ほら、吉祥寺のいつもの店、また行こうぜって話になってさ。白鳥も呼んでるし、天童ちゃんも涼さんもOKだってよ!』
「……なるほど。いつものメンバーか」
先日、オフィスの会議室で顔を合わせ、この間も遊んだ「着メロ事業チーム」のメンバーだ。
システム担当の隼人、アートの白鳥、広報のくるみ、そして人事・総務の涼。
仕事では顔を合わせているが、プライベートで全員集合するのは、以前、俺の自宅で開いた水炊きパーティー以来だろうか。……いや、つい先日も集まったばかりだ。もはや、週末の恒例行事になりつつある。
「分かった。……たまには息抜きも必要だな。13時に吉祥寺で」
『あ、そうそう! マナにも声かけといたから!』
「……桜木さんにも?」
『おう。あいつ、最近店の手伝いばっかで息詰まってそうだったからさ。……じゃ、後でな!』
通話が切れる。
マナはこのメンバーとは初対面のはずだ。
個性の強すぎる連中に囲まれて、彼女が萎縮しなければいいが。
俺は少しの懸念と、それ以上の期待を感じながら、外出の準備を始めた。
13時、吉祥寺。
駅前の喧騒を抜け、路地裏にあるプールバー『バグース』へ。
俺たちにとっては、もはや馴染みの場所だ。
店内に入ると、すでに聞き慣れた騒がしい声が響いていた。
「おい白鳥! お前、さっきから狙いすぎだろ! 普通に打てよ!」
「……うるさいな城戸。僕は今、『色彩の軌道』と『黄金比』を計算しているんだ」
「はぁ? 意味わかんないわよ! ……ほら、外した! 次、あたしの番ね!」
城戸隼人、白鳥恒一、そして天童くるみ。
変装用の伊達メガネをかけたくるみさんが、白鳥の独自理論に容赦なくツッコミを入れている。
何度も顔を合わせている彼らの間には、すでに遠慮という言葉は存在しない。
「お待たせしました」
俺が近づくと、ソファでドリンクを飲んでいた早坂涼が片手を上げた。
白のTシャツにデニムというラフな格好。18歳の現役早大生にして、このチームの頼れる姉御役だ。
「よっ、ボン。遅かったじゃん」
「皆さんお揃いで。……随分と盛り上がっていますね」
「ああ。こいつら、会うたびに騒がしくなってる気がするよ」
涼はニヤリと笑い、キューを手に取った。
その時、入り口のドアがおずおずと開いた。
「……あ、あの……ここかな……?」
顔を出したのは、桜木マナだった。
白のブラウスにフレアスカート。清楚な装いが、薄暗い店内では一際目立つ。
「お、マナ! こっちこっち!」
隼人が大きく手を振る。マナはホッとした表情で駆け寄ってきたが、メンバーの顔ぶれを見て、一瞬で固まった。
「え……ええっ!? て、天童くるみちゃん……!? 本物!?」
マナが目を丸くして、口元を手で覆う。
無理もない。テレビの中のトップアイドルが、目の前でキューを握っているのだから。
「あ、君がマナちゃんね! 城戸から聞いてるよ~。あたし天童くるみ、よろしくね!」
くるみは気さくに手を振った。
「よ、よろしくお願いします……! わぁ、すごい……顔ちっさい……」
「ふふ、よく言われる」
「……紹介しますよ、桜木さん」
俺はマナの背中を軽く押し、順に紹介していった。
「こちらは早坂涼さん。僕の姉の友人で、大学生です」
「よっ。アタシのことは涼でいいよ。よろしくな、洋食屋の看板娘さん」
「は、はい! 初めまして、早坂さん……かっこいい……」
マナは涼の凛とした雰囲気に、憧れの眼差しを向けている。
「そして彼が、白鳥恒一。……僕の友人で、画家です」
「……よろしく。君の色彩、悪くないね。……『春の木漏れ日』みたいだ」
白鳥は独特の表現で挨拶した。マナは少し戸惑いながらも、「あ、ありがとうございます?」と頭を下げた。
「……なんか、西園寺くんの周りって、すごい人ばっかりだね」
マナが小声で俺に囁く。
「ええ。個性的すぎますが、全員信頼できる仲間です。……さあ、君も混ざりましょう」
「え、でも私、ビリヤードなんてやったことないし……」
「大丈夫だ。教えてやるから」
隼人がニカッと笑い、マナにキューを渡した。
最初は緊張していたマナだったが、くるみの明るさと涼のフォロー、そして隼人の弄りで、すぐにその場の空気に馴染んでいった。
カツン。
マナが突いた手球が、フロックで9番ボールを落とす。
「やったー! 入ったー!」
「おー! すげぇじゃんマナ! 才能あるかも!」
ハイタッチする二人。
その光景を眺めながら、俺はグラスを傾けた。
ビジネスチームと、幼馴染。異なる文脈の人間関係が交わり、新しい調和を生んでいる。
悪くない休日だ。
学校帰りの夕刻。俺は一人、西麻布の交差点に立っていた。
携帯電話に入った一通のメール。
『調査結果が出た。少し話さないか』
差出人は、神宮寺レイ。
界隈では凄腕の「私立探偵」として知られる男だ。
先月、この界隈のバーで接触して以来、こうして時折、意味ありげなメッセージを送ってくる。
指定された場所は、前回と同じ、路地裏にある会員制のシガーバーだった。
重厚な木の扉を開けると、紫煙とジャズが漂う大人の空間が広がっていた。
カウンターの奥。
革張りのソファに、神宮寺レイが座っていた。
完璧に仕立てられたイタリア製のスーツ。手には太い葉巻が燻っている。
その風貌はキザな優男そのものだが、瞳だけは油断ならない光を宿している。26歳という年齢以上に、修羅場をくぐり抜けてきた凄みがある。
「……やあ。来たね、西園寺くん」
彼は人好きのする笑みを浮かべ、手元のグラスを軽く掲げた。
「未成年をこんな場所に呼び出すとは。……それで、探偵さんの報告というのは?」
俺は対面のソファに座り、店員にジンジャーエールを注文した。
「堅いことを言うなよ。……君とは一度、腹を割って話してみたかったんだ」
神宮寺は紫煙を吐き出し、一枚の地図をテーブルに置いた。
「君も気になっているだろう? 『ファントム』の件だ」
広域窃盗団ファントム。
都内の高級マンションを荒らし回っているプロ集団。俺が警戒レベルを上げている最大の懸念事項だ。
「……彼らの動きには、奇妙な法則性がある。警察の捜査網を嘲笑うかのように、犯行現場が点在しているが……」
神宮寺は地図上の赤い点を指でなぞった。
「一見ランダムに見えるが、これらは全て『ある条件』を満たした物件だ。……セキュリティが甘いわけでも、特に金目の物が多いわけでもない」
「……では、何が共通点だと?」
「『所有者の知名度』さ」
神宮寺は目を細めた。
「被害者は皆、最近メディアで取り上げられた成金や、スキャンダルを抱えた著名人ばかりだ。……つまり、ファントムは単に金を盗んでいるんじゃない。彼らは『世間の注目』を盗んでいるんだ」
「……劇場型犯罪、ですか」
「ご名答。彼らは自分たちの犯行をショーとして演出している。……だとしたら、彼らの次のターゲットは、より派手で、より話題性のある獲物になる」
神宮寺はグラスを傾けた。
単なる遊び人ではない。この男は、情報の断片から犯人の心理プロファイルを組み立てる、本物の探偵だ。
「……君も、十分に『目立つ獲物』だよ、西園寺くん。若き天才投資家、そして謎多き高校生。彼らの演出にはもってこいの素材だ」
「ご忠告、感謝しますよ。ですが、僕のセキュリティは万全です」
「過信は禁物だよ。……奴らは、物理的な壁ではなく、心理的な隙を突いてくる」
神宮寺はニヤリと笑った。
敵に回せば厄介だが、情報源としては利用価値がある。適度な距離を保ちつつ、付き合うのが得策だろう。
店を出ると、外気は生温かく、雨の匂いがした。
昨日のビリヤードのような楽しいゲームは終わりだ。
ここからは、知略と暴力を尽くした本物のゲームが始まる。
俺は携帯電話を取り出し、舞に短いメールを打った。




