第84話 無限の螺旋と琥珀色の決意
湿気を帯びた熱気がアスファルトから立ち昇る朝。
まだ梅雨明け宣言は出されていないが、東京の空は夏の色を帯び始めていた。
通学中のハイヤーの静寂な車内で、俺は、一冊の分厚いハードカバーと対峙していた。
ダグラス・ホフスタッター著『ゲーデル、エッシャー、バッハ』。
数学、芸術、音楽を横断し、「自己言及」と「不思議の環」という概念を通じて、人間の意識や知能の謎に迫る大著だ。
難解極まりない内容だが、41歳の精神を持つ俺にとっては、最高の知的遊戯でもある。
「……形式システムにおける決定不能命題。不完全性定理のメタファーか」
ページを捲る指が止まらない。知的好奇心が満たされる快感に浸りながら、俺は校門をくぐった。
3限目、現代文。
担当教師は、黒板に夏目漱石の『こころ』の一節を書き写しながら、重々しい口調で問いかけた。
「……さて。先生がKに対して抱いていた劣等感と、それを克服するために取った『卑怯な手段』について。この時の先生の心理状態を、エゴイズムと倫理の葛藤という観点から説明できる者はいるか?」
教室が静まり返る。思春期の生徒には共感しづらい、人間のドロドロとした暗部を問う難問だ。
教師の視線が、出席簿の上を滑り、俺の席で止まった。
「西園寺。……いけるか?」
俺は思考の海から意識を浮上させ、静かに席を立った。
「はい。先生は、Kの崇高な精神性に対し、自身の世俗的な欲望を恥じる一方で、Kを出し抜いてお嬢さんを手に入れたいという強烈な執着に囚われていました。ここでの『卑怯』とは、Kの禁欲的な信条を逆手に取り、彼を精神的に追い詰めた策略を指します。それは、倫理的に許されないと理解しながらも、生存本能としてのエゴイズムが理性を凌駕した瞬間であり、その罪悪感が後の彼の人生を縛り続ける鎖となったのです」
俺は淀みなく答えた。
人間の業。それはいつの時代も変わらない普遍的なテーマだ。
教師は深く頷き、「完璧だ」と短く評した。
放課後。俺は図書室へ向かった。
カウンターには、いつものように高城藍がいる。
「……いらっしゃい、西園寺くん」
「返却をお願いします」
俺は読み終えた『利己的な遺伝子』と『ゲーデル、エッシャー、バッハ』をカウンターに置いた。
「……また、随分と重たい本を読んでいたのね」
藍は呆れたように、しかし少し嬉しそうにバーコードを読み取った。
「知への探求は、物理的な重量とは無関係ですから。……代わりに、これを借ります」
俺が差し出したのは、リチャード・ファインマンの『ご冗談でしょう、ファインマンさん』。
ノーベル物理学賞受賞者のユーモラスな自伝だ。
「……ふふ。今度は少し肩の力が抜けそうね」
彼女はスタンプを押し、本を渡してくれた。指先が触れる一瞬、微かなインクの匂いがした。
学園を出た俺は、渋谷へと向かった。
金曜日の夕方。街は週末を楽しむ若者たちで溢れかえっている。
まずは『ブックファースト渋谷店』へ。
ビジネス書コーナーで、最新のマーケティング理論書と、シリコンバレーのベンチャー事情をまとめた洋書を購入する。
情報の鮮度は命だ。ネットが未発達なこの時代、良質な書籍こそが最強の武器になる。
次に、宇田川町のスポーツショップ『B&D』へ。
トレーニング用品のコーナーで、手首と足首に巻く『リストウェイト』を購入した。
片側1kg。日常生活の中でさりげなく負荷をかけ、インナーマッスルを強化する。15歳の成長期の肉体を、効率的に「戦闘仕様」へと仕上げるためだ。
「……さて、少し時間があるな」
俺は、道玄坂の映画館『シネセゾン渋谷』に入った。
今日観るのは、スティーヴン・ソマーズ監督のアクション大作『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』。
日本でも6月に公開されたばかりのハリウッド映画だ。
普段はミニシアター系を好む俺だが、たまにはこうした「王道のエンターテインメント」を摂取し、大衆が何を求めているのかを分析する必要がある。
約2時間後。
劇場を出た俺は、軽く息を吐いた。
「……単純明快。だが、カタルシスの構築は見事だ」
冒険、ロマンス、そしてホラー。全ての要素が黄金比で配置されている。
ビジネスも同じだ。顧客が求める「快感原則」を突き詰めれば、ヒットは必然となる。
映画館の近くにあった宝くじ売り場の前で、ふと足を止めた。
『サマージャンボ宝くじ』の発売開始を告げる幟がはためいている。
「……夢を買う、か」
俺はスクラッチくじを1枚だけ購入した。200円。
その場で削る。結果はハズレ。
「確率は収束する。胴元が勝つようにできているゲームだ」
俺はハズレ券をゴミ箱に捨てた。
一攫千金を夢見る大衆の心理。それを理解するための授業料としては安いものだ。
その後、近くのファミレス『デニーズ』に入り、ドリンクバーでアイスティーを飲みながら、先ほど購入した洋書に目を通した。
周囲の喧騒など、集中した俺の耳には届かない。
翌土曜日。
俺は、吉祥寺の駅前に立っていた。
今日は、桜木マナとの約束がある。
「……お待たせ、西園寺くん!」
改札から走ってきたマナは、白のブラウスにデニムのスカートという、初夏らしい爽やかな装いだった。
ショートボブの髪が弾み、健康的な頬が紅潮している。
「こんにちは、桜木さん。……いいえ、僕も今着いたところです」
「よかったぁ。……えへへ、今日は楽しみにしてたんだ!」
彼女の屈託のない笑顔。
日向翔太という呪縛から解き放たれ、本来の輝きを取り戻した彼女は、眩しいほどに魅力的だ。
「まずは、少し歩きましょうか」
俺たちは吉祥寺の路地裏にある古着屋を巡った。
マナが「これ、西園寺くんに似合いそう!」と、ヴィンテージのアロハシャツを持ってきた。
「……派手すぎませんか?」
「ううん! 夏だし、これくらい弾けてもいいと思うよ? 着てみて!」
彼女に押し切られ、試着してみる。
鏡の中の自分は、意外にも悪くなかった。41歳の精神には気恥ずかしいが、15歳の肉体にはよく馴染んでいる。
「ほら! やっぱり似合う! かっこいい!」
マナが手を叩いて喜ぶ。
その無邪気な称賛に、俺は少しだけ照れくささを感じながら、そのシャツを購入した。
午後。俺たちは電車に乗り、練馬区にある遊園地『としまえん』へと移動した。
夏のプール開き前だが、園内は家族連れやカップルで賑わっている。
ジェットコースター『サイクロン』に乗り、回転木馬『カルーセルエルドラド』で優雅な時を過ごす。
マナは終始、子供のようにはしゃいでいた。
「……次は、あれに行きましょう」
俺が指差したのは、古びた洋館風の建物。『お化け屋敷』だ。
「えっ……お、お化け屋敷……?」
マナの顔が引きつる。
「苦手ですか?」
「う、うん……ちょっと……。でも、西園寺くんが行きたいなら……」
彼女は強がって見せた。
俺たちは暗闇の中へと足を踏み入れた。
冷気と、不気味な音響。
突然、横から骸骨の人形が飛び出してくる。
「きゃああっ!!」
マナが悲鳴を上げ、反射的に俺の腕にしがみついてきた。
柔らかい感触と、震える体温。
「……大丈夫です。ただの作り物ですよ」
俺は彼女の背中に手を回し、安心させるようにポンポンと叩いた。
「で、でもぉ……! 怖いよぉ……!」
彼女は涙目で、俺を見上げてくる。
暗闇の中で光る、潤んだ瞳。
俺は、彼女の震える手を、そっと握りしめた。
「……俺がいます。離しませんから」
「……っ!」
マナの指先が、俺の手を握り返す。強く、すがるように。
出口までの道のり。
俺たちは手を繋いだまま歩いた。
彼女の鼓動が、繋いだ手を通して伝わってくるようだった。
外に出ると、夕日が園内をオレンジ色に染めていた。
「……ごめんね、怖がりで」
マナは顔を真っ赤にして、俯いている。手はまだ繋がれたままだ。
「いいえ。……守りがいがありましたよ」
俺が微笑むと、彼女はハッとして顔を上げ、そしてとろけるような笑顔を見せた。
「……ありがとう、玲央くん」
初めて、下の名前で呼ばれた。
吊り橋効果だけではない。彼女の中で、何かが決定的に変わった瞬間だった。
マナを送り届けた後、俺は麻布十番の『ナニワヤ』で夕食の買い出しを済ませ、帰宅した。
リビングでは、姉の摩耶がソファでくつろいでいた。
「おかえりー。……あんた、なんかいい匂いする。女の子と遊んでたでしょ?」
「……鼻が利きますね、姉さん」
俺は苦笑しつつ、キッチンへ向かった。
遊園地の熱気を冷ますような、涼やかな夕食を作る。
今日の主役は『鱧』だ。
京都の夏を彩る高級魚。淡路島産の上物を入手した。
「……骨切りが命だ」
専用の骨切り包丁を握る。
皮一枚を残し、身にある無数の小骨を細かく刻んでいく。
シャリ、シャリ、シャリ……。
一定のリズムを刻む音が、キッチンに響く。一寸(約3cm)に24回包丁を入れるのが理想とされる職人技だ。41歳の経験値が、15歳の肉体を精密機械のように動かす。
骨切りしたハモを一口大に切り、熱湯に落とす。
皮が縮み、身が花のように開いた瞬間、氷水に取って急冷する。
『ハモの湯引き』の完成だ。
添えるのは、紀州南高梅を叩いて作った特製梅肉ソース。
副菜は『ナスの煮浸し』。
素揚げしたナスを、出汁、醤油、みりんで作った冷たいつゆに浸す。千切りの生姜と大葉をたっぷり乗せて。
ご飯は、新生姜を炊き込んだ『生姜ご飯』。
そして、酒。
京都・伏見の銘酒『玉乃光 純米吟醸』。
キリッと冷やした冷酒だ。
「……できたよ、姉さん」
食卓に並ぶ、純白のハモと、鮮やかな梅肉の赤。翡翠色のナス。
「わぁ……! 綺麗! 料亭みたい!」
姉が歓声を上げる。
「いただきまーす! ……んんっ! ハモ、ふわふわ! 梅肉が合う~!」
「骨切りが上手くいった証拠ですね。……この食感こそがハモの醍醐味です」
俺も一口。
淡白だが奥深いハモの旨味を、梅の酸味が引き立てる。
そこに、冷えた『玉乃光』を流し込む。
フルーティーな香りと、米の旨味が口の中に広がり、すっと消えていく。
「……美味い」
日本の夏。その美意識を凝縮したような味だ。
「ナスも味が染みてるぅ……。あんた、本当にお嫁に行けるわよ」
「……その台詞、何度目ですか」
「だって本当なんだもん。……あーあ、こんな弟持っちゃって、私、将来苦労しそう」
姉は幸せそうに笑い、酒を煽った。
遊園地でのマナの温もりと、姉との穏やかな食卓。
どちらも、俺にとって守るべき大切な「日常」だ。




