第83話 色彩の相談者と鉄板の迷路
暦の上では七夕だが、東京の空は分厚い梅雨雲に覆われていた。
湿気を帯びた生温かい風が、アスファルトの熱気を含んで吹き抜けていく。
放課後。俺は、制服のまま上野にいた。
隣を歩いているのは、サイズオーバーな麻のシャツを着崩した少年、白鳥恒一だ。
俺と同じ15歳。蒼山芸術高校に通う天才画家であり、俺の会社のアートディレクターでもある。
「……で、なぜ動物園なんだ、白鳥」
俺たちが立っているのは『恩賜上野動物園』のゲート前だ。
平日の閉園間際。制服姿の男子高校生二人組は、家族連れやカップルの中で明らかに浮いている。
「インスピレーションだよ、西園寺」
白鳥はスケッチブックを小脇に抱え、遠くを見るような目で言った。
「次のサイトデザインのテーマは『有機的な結合』だろ? ならば、生命のフォルムを観察する必要がある。……特に、動かない鳥がいい」
「ハシビロコウか」
「ご名答。……彼らの『静止』には、哲学的な美がある」
俺たちは園内に入り、西園のケージ前で足を止めた。
白鳥は躊躇なく地べたに胡座をかき、猛烈な勢いで鉛筆を走らせ始めた。
俺はその横で、売店で買ったパンダ焼きを齧りながら、彼の手元を眺めていた。
同い年の天才。彼のデッサンは、対象の形をなぞるのではなく、その内側にある骨格や重心、そして「生命の気配」を紙の上に定着させる。
「……なぁ、西園寺。君には、世界がどう見えている?」
手を止めず、視線も外さずに、白鳥が唐突に尋ねてきた。
「どう、とは?」
「僕には『色彩』と『波長』で見える。……だが、君の目には『構造』と『数値』が見えているんじゃないかと思ってね」
鋭い指摘だ。
俺の目には、この動物園の集客効率や、維持管理コスト、そして白鳥という才能が生み出す将来的な利益が見えている。
「……否定はしない。だが、お前が描く色彩に、俺は価値を感じている」
「ふっ。……相変わらず、食えないパトロンだ」
白鳥は笑い、ハシビロコウの鋭い眼光を紙の上に写し取った。
彼を搾取していた葛城玄斎の呪縛は、もう完全に消え失せている。今の彼は、自分の意志で翼を広げている。
動物園を出て白鳥と別れた後、俺は青山へと移動した。
骨董通りにあるオープンカフェ。
ここで、大学の講義を終えた柚木沙耶さんと落ち合うことになっていた。
「……お待たせしました、柚木さん」
「あら、社長さん。学校お疲れ様」
テラス席で頬杖をついていた沙耶さんが、アンニュイな微笑みを向けた。
今日の彼女は、ノースリーブの黒いニットに、大ぶりのシルバーアクセサリーを合わせている。青山学院大学に通う19歳の女子大生というよりは、若きデザイナーのような雰囲気だ。
「どうしました? 浮かない顔ですが」
俺はアイスコーヒーを注文し、向かいに座った。
「んー……。ちょっとね。七夕でしょう?」
彼女は曇った空を見上げた。
「短冊に願い事を書くなんて、子供っぽいと思ってたけど。……いざ大人になると、願いたいことすら分からなくなるのよね」
「心理学的には、願いの言語化は自己認識の第一歩ですよ」
「相変わらず理屈っぽいんだから。……舞も言ってたわ。『社長はロマンチストの皮を被ったリアリストだ』って」
「舞がそんなことを? ……給料の査定に響くと伝えておいてください」
「ふふっ。冗談よ」
沙耶さんはストローを回し、少し声を潜めた。
「……私ね、進路のこと、少し真剣に考え始めたの。舞みたいに、誰かのために完璧に動くことはできないけど……。人の心の『澱』みたいなものを、掬い上げる仕事ができたらなって」
「カウンセラーですか?」
「うーん、もっと泥臭いかも。……でも、まだ内緒ね」
彼女は悪戯っぽくウィンクした。
舞への複雑な感情を抱えながらも、彼女は彼女なりに、自分の足で歩き出そうとしている。
その横顔は、以前見た時よりもずっと晴れやかに見えた。
夕方。
俺は四谷付近に呼び出されていた。
指定されたのは、聖カトレア女学院の近くにある、老舗の喫茶店だ。
待っていたのは、瀬名愛理先輩だった。
制服姿だが、校則の厳しいお嬢様学校らしく、着崩すことなく完璧に着こなしている。
「……呼び立てて悪かったわね、西園寺くん」
「いえ。瀬名先輩からの呼び出しなら、断る理由はありません」
俺が席につくと、彼女は少し躊躇いながらも、単刀直入に切り出した。
「……相談があるの」
「結衣先輩か、霧島先輩のことですか?」
「……いいえ。私のことよ」
意外な言葉だった。常に二人の「保護者」として振る舞ってきた彼女が、自分のことで俺を頼るとは。
「……最近、二人が変わった気がするの。良い意味でね」
愛理先輩は、カップの縁を指でなぞった。
「セイラは、変なプライドを捨てて、素直に努力するようになった。結衣も、ただニコニコしているだけじゃなくて、自分の意志で動くようになった。……全部、貴方の影響よ」
「買い被りです。彼女たちが元々持っていた資質ですよ」
「……そうかもしれない。でも、きっかけは貴方だわ」
彼女は顔を上げ、真剣な瞳で俺を見た。
「……私だけ、取り残されている気がするの。二人を守るのが私の役目だと思っていたけど……。あの子たちはもう、私の庇護なんて必要としていないんじゃないかって」
「保護者」としてのアイデンティティの揺らぎ。
親友たちの成長を喜ぶ反面、自分の存在意義を見失いかけているのだ。
俺は静かに答えた。
「鳥は、飛び立つために巣を離れます。ですが、帰る場所がなければ、安心して空を飛ぶことはできません」
「……帰る場所?」
「ええ。貴女が変わらずにそこにいて、厳しくも温かい視線を向けてくれているからこそ、二人は安心して変われるんです。……貴女は『監視者』ではなく、『灯台』なんですよ」
「……灯台、か」
愛理先輩はポツリと呟き、それから少しだけ口角を上げた。
「……上手いこと言うわね。相変わらず、年下のくせに生意気」
「事実を述べたまでです」
「……ありがとう。少し、視界が晴れたわ」
彼女は伝票を掴み、立ち上がった。
「ここは私が払うわ。……年上の甲斐性を見せないとね」
その背中は、以前よりも少しだけ軽やかに見えた。
帰宅後。
俺は携帯電話を取り出し、姉・摩耶に連絡を入れた。
『七夕だし、外食でもどうですか。姉さんの好きなもので』
即座に返信が来た。
『もんじゃ! 月島でもんじゃ食べたい! ビール飲みたい!』
相変わらずの即答だ。
俺はジャケットを羽織り、ハイヤーではなく電車で月島へと向かった。
地下鉄を降りると、ソースの焦げる香ばしい匂いが街全体を包んでいた。
「もんじゃストリート」の提灯が揺れる中、姉が手を振っているのが見えた。
「おっそーい! もうお腹ペコペコ!」
「お待たせしました。……店は決めてあります」
俺たちが暖簾をくぐったのは、路地裏にある老舗『いろは』だ。
鉄板付きのテーブル席に座り、まずは飲み物を注文する。
「生中! ジョッキで!」
「僕はウーロン茶で」
乾杯を済ませると、姉はメニューも見ずに叫んだ。
「明太もちチーズもんじゃ! ベビースターのせ!」
「……ジャンクですね」
「うるさいわね、これが正義なのよ!」
運ばれてきた具材の山。
姉がヘラを持とうとしたので、俺はそれを制した。
「姉さんがやると、鉄板が大惨事になります。座っていてください」
「ちぇっ。……じゃあ、お手並み拝見」
俺はキャベツの山を鉄板に広げ、ヘラで細かく刻み始めた。
カンカンカンカンッ!
小気味よい金属音が響く。キャベツがしんなりしてきたら、土手を作る。
完璧な円形。決壊など許されない。
そこに、出汁の効いた生地を流し込む。
ジュワアアァァッ……!
生地が沸騰し、とろみが出てくるのを待つ。
「……相変わらず、無駄のない手つきねぇ」
姉が感心したようにビールを煽る。
「料理は段取りが全てですから」
生地が固まってきたら、土手を崩して混ぜ合わせ、薄く広げる。
最後に明太子とチーズ、餅、ベビースターを散らす。
チーズが溶け、お焦げができ始めたら完成だ。
「どうぞ」
「いただきまーす! ……熱っ! ハフハフ……ん~! 美味しい!」
姉は小さなヘラで熱々のもんじゃをこそげ取り、口に運ぶ。
明太子の辛味、餅の食感、チーズのコク。そして焦げたソースの香り。
ビールの消費速度が加速する。
「……ねえ、玲央」
二杯目のジョッキを半分ほど空けた頃、姉が少し真面目な顔になった。
「……大学、どう?」
「どう、とは?」
「いや、あんたなら東大でも余裕だろうけどさ。……なんか、もっと違うこと考えてるんじゃないかと思って」
姉は鉄板の上でジュウジュウと音を立てるもんじゃを見つめた。
「私ね、あんたが何を目指してるのか、正直よく分からない。……会社とか、投資とか。15歳でやることじゃないでしょ」
「……そうですね」
「でもさ、あんたが楽しそうなら、それでいいと思ってる。……お姉ちゃんはバカだから難しいことは分かんないけど、あんたの味方でいることだけは決めてるから」
姉の言葉には、弟への無条件の肯定と、深い愛情が込められていた。
東大生でありながら、どこか抜けていて、人間味のある姉。
彼女の存在が、俺を「人間」の世界に繋ぎ止めているのかもしれない。
「ありがとうございます、姉さん」
俺は新しいウーロン茶を注ぎながら言った。
「……姉さんがいてくれて、良かったと思っていますよ」
「……なによ、改まって。気持ち悪い」
姉は照れ隠しに笑い、また鉄板にヘラを伸ばした。
鉄板の上の迷路のような模様。
それは、複雑に絡み合いながらも、確かな熱を持って広がる俺たちの関係性のようだった。
帰宅後。
酔っ払った姉をタクシーに乗せて見送った俺は、静まり返ったペントハウスのリビングにいた。
アルコールは入っていないが、月島の熱気がまだ体に残っている。
俺はサイドテーブルに向かい、そこに置かれたチェスボードを見下ろした。
黒檀とカエデで作られた、重厚な盤面。
そこには、ある「詰めチェス」が配置されていた。
白番、3手詰め。
「……クイーンを捨てて、ナイトでチェックか」
俺は駒を手に取り、盤上の宇宙を俯瞰する。
相手の逃げ道を塞ぎ、王を追い詰めるための道筋。
それは、ビジネスや人間関係における戦略と同じだ。
カツッ。
駒を置く音が、静寂に響く。
「……チェックメイト」
盤面は完成した。
すべてのピースが計算通りに動き、王は逃げ場を失った。
窓の外に広がる東京の夜景を見下ろす。
広域窃盗団ファントム。神宮寺レイ。そして、俺自身の転生の謎。
現実は、このチェス盤のように単純ではない。
だが、ルールがある限り、必ず攻略法はある。




