第82話 銀幕の憂鬱と煮付けの黄金比
7月に入り、東京の蒸し暑さは日に日に増していた。梅雨明け宣言はまだだが、雲の隙間から差す日差しは、すでに真夏の攻撃性を帯びている。
私立桜花学園、1年A組の教室。
冷房の効きが悪い教室内には、生徒たちの気だるげな空気と、チョークの粉の匂いが充満していた。
5限目、数学A。
担当教師は、黒板に「確率」の応用問題を書き連ねていた。条件付き確率。多くの生徒が直感と論理のギャップに苦しむ単元だ。
「……さて。ある病気の罹患率が0.1%だとする。この病気を検知する検査薬の感度は99%、特異度も99%だ。この時、検査で陽性と判定された人が、実際に病気に罹患している確率は何%か?」
教室が静まり返る。
直感的には「99%」と答えたくなる問いだ。だが、それは罠だ。
教師の視線が、教卓の上にある座席表をなぞり、一点で止まった。
「……西園寺。いけるか?」
指名された俺は、手元のノートパソコンから顔を上げ、静かに席を立った。
「はい。ベイズの定理を用いれば明白です。罹患率0.1%という事前確率が極めて低いため、偽陽性の数が真陽性の数を圧倒します。計算式は……」
俺は空中に数字を並べるように、淀みなく解説した。
「分母は全陽性者数。分子は真陽性者数。よって、確率は約9%。つまり、陽性反応が出ても、実際に病気である確率は10人に1人もいないことになります」
「……正解だ。直感に反するが、これが数学的真実だ」
教師は満足げに頷き、授業を再開した。
周囲から「マジかよ」「9パーしかねーの?」という囁きが漏れる。
感情や直感はしばしば裏切るが、数字だけは冷徹な真実を語る。それはビジネスにおいても、人間関係においても同じだ。
放課後。
俺は喧騒を逃れるように、一人で渋谷のスペイン坂を登っていた。
目指すは『シネクイント』。パルコパート3の8階にあるミニシアターだ。
今日観る映画は、公開されたばかりの話題作『バッファロー'66』。
ヴィンセント・ギャロが監督・主演・脚本・音楽を手掛けた、オフビートなラブストーリーだ。
平日だが、ロビーは感度の高い若者たちで賑わっていた。
俺はチケットをもぎってもらい、スクリーンに向かった。
ブザーが鳴り、場内が暗転する。
映し出される、淡くくすんだ色彩と、不器用すぎる男・ビリーの姿。
刑務所帰りの彼は、見栄を張るためだけに偶然通りかかった少女レイラを拉致し、自分の妻のふりをさせて実家へ連れて行く。
癇癪持ちで、繊細で、どうしようもなく孤独な男。
(……滑稽だな。だが、他人事とは思えない)
15歳の肉体に41歳の精神を隠し、未来の知識という「武器」で武装して世界と対峙する俺。
周囲を「資産」や「駒」として評価し、感情よりも論理を優先させる生き方。それはビリーの虚勢とは種類が違うが、根底にある「世界とのズレ」は共振している。
少女レイラがビリーに向ける無償の愛。
それは、マナやくるみ、そして舞が俺に向けてくれる信頼と、どこか似ている気がした。
(……俺は、彼女たちの想いに応えられるだけの「中身」を持っているだろうか)
ラストシーン。『Yes』の曲と共に流れる、不器用な救済。ホットチョコレートとハートのクッキー。
映画が終わっても、俺はしばらく席を立てずにいた。
劇場を出ると、渋谷の街は黄昏に染まっていた。
俺は余韻を振り払うように、センター街の奥へと歩を進めた。
「……おう、西園寺! 遅えぞ!」
『渋谷バッティングセンター』の前で、城戸隼人が手を振っていた。
シャツの裾を出し、ネクタイを緩めたラフな格好。その屈託のない笑顔が、映画の憂鬱を吹き飛ばしてくれる。
「すまない。映画の余韻に浸っていた」
「お前、また一人で小難しい映画見てたんだろ? ……ほら、行くぞ! 身体動かさねーと頭腐るぜ!」
隼人は俺の背中をバシッと叩き、ケージに入った。
カキィン!
快音と共に、白球がネットに突き刺さる。
元陸上部のエースだけあって、身体の使い方が上手い。腰の回転でボールを捉え、鋭い打球を飛ばしている。
「っしゃあ! ……どうよ西園寺! ストレス解消にはこれが一番だろ!」
「悪くないスイングだ。だが、少しドアスイング気味だな。……次は俺の番だ」
俺はバットを借り、隣の打席に立った。速度は130km/h。
マシンのアームが動く。
リリースの瞬間、ボールの軌道を予測する。内角高め。
(……物理演算、開始)
身体の軸を回転させ、最短距離でバットを出す。
無駄な力はいらない。ボールの運動エネルギーを、バットの反発係数に乗せて送り返すだけだ。
――カァン!!
芯を食った衝撃が手に残り、ボールは鋭いライナーとなってセンターの的を直撃した。
「うおっ!? マジかよ! お前、野球部入れたじゃん!」
隼人が目を丸くして叫んだ。
「物理演算の結果だ。……それに、ストレス発散には悪くない」
俺は軽く息を吐いた。
次々と放たれるボールを打ち返すたびに、脳内のノイズが消えていく。
ビジネスのプレッシャーも、ファントムへの警戒も、白球と共に彼方へと飛んでいくようだ。
15歳の肉体が、心地よい疲労を感じていた。
「はー、スッキリした! ……西園寺、ジュース奢ってくれよ」
「……仕方ないな。一本だけだぞ」
汗だくの友人と笑い合う。この単純で尊い時間が、俺の精神年齢を15歳へと引き戻してくれる。
放課後、校門前で待機していたハイヤーに乗り込んだ。
運転席には、秘書の如月舞がいる。
「お疲れ様です、社長。……本日はどちらへ?」
バックミラー越しに、彼女の知的な瞳が俺を捉える。
「直帰だ。今日は少し早めに夕食の準備をしたい」
俺はネクタイを緩め、後部座席のシートに深く身を預けた。
学園という「表」の世界から、ビジネスという「裏」の世界へ切り替わる瞬間だ。
「承知いたしました。……そういえば社長。例の広域窃盗団『ファントム』の件ですが、警視庁の動きが活発化しているようです。どうやら、彼らのアジトに関するタレコミがあったとか」
舞の声色が、少しだけ硬くなる。
「……タレコミ、か。神宮寺レイの仕業かもしれないな」
「神宮寺……例の、裏サイトの黒幕ですか?」
「ああ。彼は混沌を好む。警察とファントムをぶつけて、その隙に何かを掠め取ろうとしているのかもしれない」
「……厄介ですね。ですが、彼らが潰し合うなら好都合です」
「同感だ。だが、手負いの獣はどこへ逃げるか分からない。流れ弾には注意が必要だ。引き続き、自宅とオフィスのセキュリティは最高レベルを維持しろ」
「承知いたしました。警備会社との連携も強化済みです」
舞は淡々と答える。19歳とは思えない、完璧な業務遂行能力だ。
仕事の話が一通り終わると、車内には穏やかな沈黙が流れた。
夕陽が差し込み、車内をオレンジ色に染める。俺はふと、彼女に個人的な問いを投げかけた。
「……舞。最近、ちゃんと休めているか?」
舞の肩が、ピクリと反応した。
「……はい。社長のお気遣いのおかげで、日曜日はゆっくり過ごせました。……沙耶とも、久しぶりに食事をしましたし」
「そうか。柚木さんは元気だったか?」
「ええ。……少し考え事をしているようでしたが、『今は自分を見つめ直す時期だから』と言っていました」
舞の声が少し柔らかくなる。
「あの子、昔から不器用なんです。自分の気持ちを後回しにして、周りのことばかり気にして……。でも、根は真っ直ぐで、優しい子です」
「知っているよ。……柚木さんは、舞の大切な親友だからな」
「……社長」
舞はバックミラー越しに、嬉しそうな、そして少し照れくさそうな視線を向けた。
「ありがとうございます。……社長が沙耶のことを気にかけてくださって、私も嬉しいです」
「礼には及ばない。……それに、彼女の淹れるコーヒーは嫌いじゃない」
俺が言うと、舞は「ふふっ」と小さく笑った。
能面のような秘書の顔が崩れ、年相応の19歳の女性の素顔が覗く。この笑顔を守ることもまた、俺の重要なミッションの一つだ。
帰宅前、俺は麻布十番の高級スーパー『ナニワヤ』に立ち寄った。
今夜は、姉・摩耶と二人きりの夕食だ。
せっかくの一人暮らしの城も、自由奔放な姉の前では「第二の実家」扱いだ。だが、今日はそんな騒がしさも悪くない。
鮮魚コーナーで、素晴らしい魚を見つけた。
『マコガレイ』だ。
冬のヒラメに対し、「夏のマコガレイ」と称される高級魚。大分県日出産の「城下かれい」にも匹敵する、肉厚で立派な魚体だ。腹が白く、身が透き通るように美しい。
「……これを煮付けにしよう。疲れた脳には、良質なタンパク質と甘辛い煮汁が必要だ」
さらに、青果コーナーで『江戸崎かぼちゃ』を購入。完熟してから収穫されるため、ホクホクとした甘みが強いのが特徴だ。
酒コーナーでは、福井県の銘酒『黒龍 大吟醸』を選ぶ。
姉と一緒に飲むなら、雑味のない綺麗な酒がいい。
「……よし」
食材と酒を抱え、帰宅する。
リビングでは、予想通り姉がテーブルに突っ伏していた。
「……うぅ……ドイツ語……意味わかんない……イッヒ・リーベ・ディッヒ……」
「姉さん。愛の告白の練習ですか? それとも勉強ですか?」
「玲央ぉ……! 帰ってたのぉ……? もう無理、脳みそ溶けた……」
姉がゾンビのように顔を上げた。目の下に隈ができている。18歳の現役東大生とはいえ、語学の壁は厚いらしい。
「アルコールと糖分の補給が必要です。すぐに夕食にしますよ」
「……お酒! 飲む! 飲むー!」
姉が復活した。現金なものだ。
俺はジャケットを脱ぎ、キッチンへ向かった。
まずは『マコガレイの煮付け』だ。
カレイは鱗と内臓を丁寧に取り除き、皮目に×印の飾り包丁を入れる。これを入れることで、皮が破れるのを防ぎ、味の染み込みを良くする。
熱湯をかけて霜降りにし、冷水でぬめりを取る。この下処理が、臭みのない上品な味を作る絶対条件だ。
平鍋に水、酒、醤油、砂糖、みりん、そしてスライスした生姜を入れる。
煮立ったらカレイを重ならないように並べ、落とし蓋をする。
強火で一気に煮るのがコツだ。煮汁を対流させ、身に味を含ませる。弱火でコトコト煮ると、身がパサついてしまう。
煮汁がトロリとしてきたら、スプーンで魚に回しかけ、照りを出す。煮汁が泡立ち、甘辛い香りがキッチンに充満する。
並行して『かぼちゃの煮物』。
面取りしたかぼちゃを、出汁、砂糖、薄口醤油で煮る。こちらは弱火でじっくりと。煮崩れしないよう、触りすぎないのが鉄則だ。
最後に『豆腐とわかめの味噌汁』。
シンプルだが、出汁は利尻昆布と本枯節で濃厚に引く。味噌は信州の白味噌と、愛知の赤味噌を合わせる。
「……できたよ、姉さん」
食卓に並ぶ、飴色に輝くカレイの煮付けと、黄金色のかぼちゃ。そして湯気を立てる味噌汁。
「わあ! マコガレイ! すごい、照り照りじゃない!」
姉が歓声を上げる。
俺は冷やしておいた『黒龍』の四合瓶を開栓した。
トクトクトク……。
江戸切子のグラスに、澄んだ液体が注がれる。
「では、日々の学業の労をねぎらって。……乾杯」
「かんぱーい!」
チン、と涼やかな音が響く。
俺はグラスを煽った。
フルーティーで華やかな吟醸香が鼻に抜け、洗練された甘みとキレのある後味が喉を駆け抜ける。
「……美味い」
15歳の未熟な脳に、アルコールが染み渡る。この背徳感と解放感がたまらない。
「いただきまーす!」
姉がカレイに箸を入れる。
ホロッと身が外れ、白い湯気が立つ。真っ白な身に、煮汁をたっぷりと絡めて口に運ぶ。
「……んんっ! 美味しい! 身がふわふわで、味が染みてるぅ!」
姉は目を閉じ、陶然とした表情で酒を流し込んだ。
「はぁぁ……最高。煮付けと日本酒、最強の組み合わせね……。生きてて良かった」
「かぼちゃも甘いですよ。栗みたいにホクホクです」
俺も箸を進めた。
淡白だが旨味の強いカレイの身に、濃厚な煮汁が絡む。エンガワのトロリとした脂が口の中で溶ける。生姜の風味がアクセントになり、後味はさっぱりとしている。
そこに追撃の日本酒。
口の中の脂を洗い流し、また次の一口を欲させる無限ループだ。
「……悪くない」
俺は二杯目を注いだ。
窓の外には東京の夜景。静かなリビングには、姉と二人の穏やかな時間。
「……ねえ、玲央」
ほろ酔いの姉が、頬杖をついて俺をまじまじと見た。
「なんですか、改まって」
「あんたさ、料理もできて、仕事もできて、勉強もできるじゃない? ……なんかもう、人間としてのスペックが高すぎて、お姉ちゃん引くわ」
「……褒めているのか貶しているのか、どちらかにしてください」
俺は苦笑して、かぼちゃを口に運んだ。
「褒めてるのよ。……でもさ、これじゃ将来のお嫁さんが大変ね。あんたのハードル、エベレストより高いんじゃない?」
姉は悪戯っぽく笑い、空になったグラスを差し出した。
「ご心配には及びません。僕が選ぶパートナーなら、この程度のハードルは軽々と飛び越えてくるでしょう」
「へぇー、言うわねぇ。……ま、最近は色々と賑やかみたいだし? 期待しておくわ」
「……善処します」
俺はグラスに酒を注ぎ足した。
姉の言う通り、俺の周りには今、強烈な個性を持つ女性たちが集まり始めている。
彼女たちとの関係がどこへ向かうのか、それは俺自身にもまだ予測できない。




