第80話 ビリヤードの幾何学と手巻きの宇宙
今日から7月。梅雨明けはまだだが、湿度を含んだ空気は確実に夏の匂いを帯び始めていた。
1限目、数学A。
教壇に立つ教師は、黒板に「順列・組み合わせ」の応用問題を書き殴り、チョークを置いた。
「……さて。この円順列において、特定の2人が隣り合わない座り方の総数を求める式だ。……西園寺、いけるか?」
期末テスト直前のピリピリした空気の中、教師の指名は俺に向けられた。
俺は、手元のノートパソコンから顔を上げ、静かに席を立った。
「はい。まず全員の順列を求め、そこから『特定の2人が隣り合うケース』を引く余事象の考え方を使います。あるいは、先に他の人間を円形に並べ、その隙間に特定の2人を入れる積の法則を用いれば、よりシンプルに解を導けます。式は……」
俺は2通りの解法を提示し、それぞれの計算コストの違いまで補足した。
「……完璧だ。相変わらず、無駄がないな」
教師は感心したように頷き、授業を再開した。
休み時間。移動教室のため廊下に出ると、渡り廊下で霧島セイラ先輩とすれ違った。
「……ごきげんよう、霧島先輩」
「……ええ。ごきげんよう、西園寺くん」
彼女は足を止め、少し躊躇うように視線を泳がせた後、小さく口を開いた。
「……先日の勉強会、ありがとう。おかげで数学の小テスト、満点だったわ」
彼女はフンと鼻を鳴らし、艶やかな黒髪を払った。その横顔には、以前のような刺々しさはなく、自信と、そして微かな信頼の色が滲んでいた。
「それは重畳。先輩の努力の結果ですよ」
「……ふふ、優等生ぶって。でも、悪くないわ」
彼女は小さく微笑み、背を向けて歩き出した。氷の女王との雪解けは、確実に進んでいる。
放課後。俺は吉祥寺にいた。
駅前の喧騒を抜け、路地裏にあるプールバー『バグース』へ。
今日は「レオ・キャピタル」の主要メンバーと、その関係者を集めた懇親会――という名目のガス抜きだ。
「おいコラ城戸! お前、球触ったろ! ファウルだファウル!」
「触ってねーよ! 冤罪だ!」
店内には、似つかわしくない騒がしい声が響いていた。
メンバーは、クラスメイトでシステム担当の城戸隼人。
アートディレクターの白鳥恒一。
プロモーション担当の天童くるみ。
そして、人材管理担当の早坂涼。
カオスなメンツだ。
「……たく、ガキの相手は疲れるねぇ」
早坂涼さんは、呆れたように言いながらも、手慣れた手つきでキューを構えた。今日の彼女はラフなTシャツにデニム姿。18歳の現役早大生としての顔だ。
「でも、悪くない腕だ。……行くよ」
パァン!
乾いた音と共に、手球が美しい軌道を描き、9番ボールをポケットに沈めた。
「うっわ、すげぇ! 涼さん、マジで上手いっすね!」
隼人が目を輝かせる。
「高田馬場の雀荘とプールバーは庭みたいなもんだからな。……ま、勉強の息抜きだよ」
涼さんはニカッと笑った。
一方、ソファ席では、変装用の伊達メガネをかけたくるみさんが、白鳥さんのスケッチブックを覗き込んでいた。
「へぇ……。あんた、絵うまいわね。これ、次のサイトのデザイン?」
「ああ。君の持つ『多面性』を、キュビスム的なアプローチで表現してみた。……君の瞳には、宇宙が内包されているからね」
「……よく分かんないけど、褒められてるのよね? ありがと」
くるみさんは少し照れくさそうに笑い、ウーロン茶を口にした。
俺はジンジャーエールを片手に、この光景を眺めていた。
エンジニア、アーティスト、アイドル、教育者。
バラバラに見える才能が、一つのテーブルを囲んでいる。
「……良いチームになりそうだ」
俺の呟きに、涼さんが視線を向け、悪戯っぽくウインクした。
「ボンのおかげだな。……ま、アタシがしっかり手綱握っといてやるよ。同い年のよしみでな」
くるみも振り返り、Vサインを送ってくる。
「レオ、次はボウリング行くわよ! あたし、そっちなら負けないから!」
18歳の彼女たちのエネルギー。それに触発され、俺の中の15歳の肉体も熱くなるのを感じた。
翌7月2日、金曜日。
期末テスト前の部活動停止期間に入り、早めに帰宅した俺は、母・ソフィアと姉・摩耶を連れて、西麻布の会員制スポーツジムを訪れていた。
「One, Two! One, Two! もっと腰を落として!」
インストラクターの掛け声に合わせ、エアロビクスのスタジオで汗を流す二人。
母は43歳とは思えない完璧なプロポーションを維持しており、その動きは洗練されている。一方、姉の摩耶は……。
「ひぃぃ……! 無理、もう無理ぃ……!」
18歳の現役東大生とは思えないほど体力がなく、開始10分で生まれたての小鹿のように震えていた。
「……姉さん。脳だけでなく、身体も鍛えないと持ちませんよ」
俺はトレーニングエリアからその様子を眺め、苦笑した。
1時間のワークアウトを終え、シャワーを浴びてスッキリした二人を連れ、俺たちは夕食の買い出しに向かった。
場所は、麻布十番の高級スーパー『ナニワヤ』。
今日のテーマは「手巻き寿司」だ。
「Leo! 私、ウニが食べたいわ! 箱で買いましょう!」
「私はイクラ! あと大トロ!」
母と姉が子供のようにはしゃいでいる。
俺はプロの目で食材を吟味した。
「……この時期のマグロなら、これ一択だな」
俺が手に取ったのは、『南マグロ』の柵だ。
ケープタウン沖などの南半球で獲れるこのマグロは、現地の冬にあたる今がまさに旬。本マグロよりも強い甘みと、ねっとりとした濃厚な脂が特徴で、通の間では「夏の赤いダイヤ」とも呼ばれる。
イカは、今が旬のアオリイカ。ねっとりとした甘みが酢飯に合う。
ウニは北海道産のバフンウニ。ミョウバンを使っていない塩水パックだ。
さらに、車海老、煮穴子、厚焼き玉子用の特選卵。
「……よし。これで完璧だ」
カゴいっぱいの食材と、冷蔵ケースから最高級の日本酒『十四代』、そして『ヱビスビール』を手に取り、レジへと向かった。
帰宅後。
俺は『グラン・エターナル麻布』のキッチンに立ち、調理を開始した。
手巻き寿司の命は、ネタもそうだが、何より「シャリ」にある。
炊きたての魚沼産コシヒカリを飯台に移し、特製の合わせ酢を回しかける。
うちわで仰ぎながら切るように混ぜ、一粒一粒に艶と酸味をまとわせる。人肌の温度に保つのが鉄則だ。
次に、ネタの切りつけ。
南マグロは、包丁を入れた瞬間から脂が滲み出てくる。繊維を断つように切り分けると、断面がルビーのように輝いた。
イカは隠し包丁を入れて甘みを引き出す。車海老は背わたを取り、酒蒸しにしてプリプリの食感を残す。
そして、サイドメニューの『厚焼き玉子』。
卵を4つ割りほぐし、一番出汁、砂糖、薄口醤油を加える。
銅製の卵焼き器を熱し、油を馴染ませる。
ジュウッ……。
卵液を流し込み、奥から手前へ。半熟の状態で巻き上げる。これを数回繰り返す。
火加減は強火。迷いがあると焦げる。一気呵成に巻き上げ、巻きすで形を整える。
出汁が溢れ出す、黄金色の座布団の完成だ。
最後に『シジミの味噌汁』。
島根県宍道湖産の大粒シジミを使用。水からじっくり煮出し、貝の口が開いたら火を止め、味噌を溶く。肝臓を労るオルニチンたっぷりのスープだ。
「……できたよ」
ダイニングテーブルには、色とりどりのネタが並ぶ大皿、黄金色の卵焼き、そして艶やかなシャリ。
「Wow! Beautiful! まるで宝石箱ね!」
「いただきまーす! ……んんっ! マグロ甘っ! なにこれ!」
母と姉が歓声を上げる。
俺はパリパリの海苔にシャリを少なめに乗せ、南マグロの中トロと大葉、そしてわさびを少し添えて巻いた。
口に入れると、海苔の香り、マグロの濃厚な甘み、そして酢飯の酸味が一体となって弾ける。
「……美味い」
母は冷えた『十四代』を、俺と姉は冷たい緑茶を飲む。未成年飲酒は、俺の美学に反する。
「Leo, あなたの作る玉子焼き、世界一よ! ふわふわでジューシー!」
「シジミ汁も染みるわぁ……。生き返るぅ……」
家族の笑顔と、美味い食事。
ビジネスの戦場や、迫りくる脅威のことも、この瞬間だけは忘れられる。
俺は茶碗を置き、窓の外に広がる東京の夜景を眺めた。
この平穏を守るためなら、俺はどんな手でも使うだろう。




