第75話 刻を刻む王冠と紫色の宝石
梅雨の中休みが続き、東京は蒸し暑い初夏の日差しに包まれていた。
5限目の体育を終えた俺は、汗を拭いながら校舎裏の自販機コーナーへと向かった。
「あ、西園寺くん! お疲れ様~!」
自販機の前で、花村結衣先輩が手を振っていた。
夏服のブラウスが、彼女の柔らかなボディラインを強調している。少し汗ばんだ首筋と、無防備に開いた襟元。
その健康的な色気は、男子生徒なら直視できないレベルの破壊力がある。
「お疲れ様です、花村先輩。……またイチゴオレですか?」
「うん! 甘くて冷たくて最高だよ~。西園寺くんも飲む?」
彼女は飲みかけのパックを差し出してきた。ストローは刺さったままだ。
無自覚な間接キスの誘惑。
41歳の精神を持つ俺でなければ、動揺して顔を赤らめていたところだ。
「……お気持ちだけ頂いておきます。僕は水で十分ですので」
俺はミネラルウォーターのボタンを押し、彼女との「危険な距離」を微調整した。
「そっか~。あ、そういえばね! 今度の期末テスト、また勉強教えてくれないかな? セイラちゃんも『西園寺くんの教え方は分かりやすい』って言ってたし!」
「……霧島先輩が?」
「うん! 『あいつは腹立つけど、論理的思考だけは認めざるを得ない』って!」
それは褒めているのか微妙なラインだが、彼女なりに信頼してくれている証拠だろう。
「構いませんよ。スケジュールが合えば、いつでも」
「やったぁ! ありがとう王子様!」
結衣先輩は満面の笑みで、俺の腕にギュッと抱きついた。
柔らかい感触と、甘い香り。
俺は冷静を装いつつ、内心で冷や汗をかきながら彼女を引き剥がした。
この天然の天使は、ある意味でどんな計算高い悪女よりもタチが悪い。
放課後。
俺は「サブカルチャーの聖地」として知られつつある中野へと足を運んだ。
目的地は、中野ブロードウェイにある高級時計専門店『ジャックロード』および『かめ吉』だ。
マニアが集うこの場所には、デパートの外商ですら手に入らない希少なモデルが集まってくる。
今日のターゲットは、時計界の王者『ロレックス』。
その中でも、唯一無二の存在感を放つクロノグラフ、『コスモグラフ・デイトナ』だ。
1999年現在、現行モデルとして販売されている『Ref.16520』。
定価は60万円台だが、正規店では常に入手困難で、並行輸入店では90万〜100万円前後のプレミア価格で取引されている。
それでも、俺は「買い」だと断言できる。
なぜなら、このモデルにはゼニス社の傑作ムーブメント「エル・プリメロ」をベースにした『Cal.4030』が搭載されているからだ。
そして来年2000年、ロレックスは自社製ムーブメントへの切り替えを行い、この「エル・プリメロ搭載デイトナ」は生産終了となる。
「……生産終了が決まった瞬間、価格は跳ね上がる。そして25年後には、最低でも300万円、状態が良ければ500万円以上の資産価値を持つ」
俺はショーケースの中に並ぶ、精悍な顔つきの時計たちを見つめた。
特に狙うべきは、精悍な『黒文字盤』のステンレスモデルだ。
「……店長。ここにあるデイトナのステンレスモデル、黒文字盤を中心に在庫をすべて見せてくれ」
「すべて、ですか? ……かなりの金額になりますが」
「構わない。状態の良い『A番』があれば優先的に」
俺はアタッシュケースを開いた。中には1,500万円の現金。
店長の目の色が変わる。
結果、俺は市場に出回っていた良個体のデイトナを次々と買い付けた。
1本約100万円。
計15本。総額1,500万円の投資だ。
「……良い買い物ができた」
重厚な箱に入った時計たちを、配送業者のセキュリティ便で倉庫へ送る手配をする。
これらは腕に巻くためではない。時間を封じ込め、未来で換金するための「金属の延べ棒」だ。
ウイスキーと同じく、20年寝かせるだけで価値が数倍に膨れ上がる。
リスクを分散しつつ、確実なリターンを得る。これが俺の投資哲学だ。
帰宅後。
俺はキッチンの前に立ち、エプロンを締めた。
今日も母と姉が滞在している。彼女たちのために、家庭的でありながら最高級の夕食を用意する。
今日のテーマは「日本の夏、お袋の味」。
メイン食材は、ナスとピーマン。
ナスは、水分を多く含みアクの少ない『泉州水なす』。ピーマンは、肉厚で形の良いものを選りすぐった。
まずは『ナスとピーマンの味噌炒め』。
ナスは乱切りにし、一度素揚げにして色止めをする。こうすることで、鮮やかな紫色を保ちつつ、トロリとした食感を引き出せる。
ピーマンは種を取り除き、サッと油通ししてシャキシャキ感を残す。
豚バラ肉をカリッと炒め、野菜を戻し入れる。
味付けは、信州味噌、みりん、酒、砂糖、そして隠し味の豆板醤とすりごま。
濃厚な甘辛い味噌ダレが、油を吸ったナスに絡みつく。
白いご飯が無限に進む、魔性の味だ。
もう一品は『焼き魚』。
ただの鮭ではない。初夏にしか獲れない希少な『時鮭』だ。
産卵準備前の若い鮭で、脂の乗りが段違いに良い。
これを、遠火の強火で皮目をパリッと焼き上げる。
溢れ出す脂が炭火で燻され、食欲をそそる香りを放つ。
味噌汁は、大根と油揚げ。シンプルだが、出汁は利尻昆布と本枯節で丁寧に引いたものだ。
飲み物は、アルコールではなく『最高級麦茶』。
六条大麦を石釜で二度焙煎したもので、香ばしさと甘みが強い。
これを、氷をたっぷり入れた江戸切子のグラスに注ぐ。
「ただいまー! ……うわ、ご飯の匂い!」
「Leo! 今日も美味しそうね!」
母と姉が帰宅し、食卓に着く。
「いただきます」
姉がナスを口に運ぶ。
「……んんっ! 熱っ、とろとろ! 味噌味が濃くて最高!」
「この鮭も凄いわ。……身がフワフワで、脂が甘いの」
母も時鮭を頬張り、感嘆の声を上げる。
濃厚な味噌炒めと、脂の乗った鮭。
そこに、キリッと冷えた麦茶を流し込む。
香ばしさが口の中をリセットし、また箸が進む。
「……美味しい。これぞ日本の家庭料理ね」
「そう言っていただけると光栄です」
俺は麦茶を飲みながら、二人の笑顔を眺めた。
1500万円の時計を買った数時間後に、数百円の野菜で家族を喜ばせる。
このギャップこそが、俺の人生の豊かさだ。
食後。
母と姉がテレビを見ている横で、俺は一人、金属の塊と向き合っていた。
『キャストパズル』。
複雑に絡み合った金属パーツを、力ではなく論理的な手順で解きほぐす知恵の輪だ。
1999年現在、静かなブームとなっている大人の玩具である。
カチャ、カチャ……。
重厚な金属音が静かな部屋に響く。
ビジネスや投資の複雑な因果関係を離れ、純粋な論理の世界に没入する。
指先の感覚と空間認識能力だけが頼りだ。
数分後、俺の手の中で金属パーツが「スルリ」と音もなく外れた。
「……よし。思考がクリアになった」
パズルを置き、俺はテラスへと出た。
そこには、先日購入した紫陽花と、舞が手配してくれた観葉植物のパキラが置かれている。
パキラの葉が、少し元気なさげに垂れていた。
「……栄養不足か」
俺は戸棚からアンプルを取り出した。
植物用活力剤『メネデール』。
鉄分を含んだイオン水が、根の成長を助け、光合成を促進する。
土に挿すと、茶色の液体がゆっくりと染み込んでいく。
「しっかり育てよ。……君も、俺の城の一部だ」
葉を一枚一枚、濡れた布で拭いてやる。
植物は正直だ。手をかければ応えてくれる。
人間関係やビジネスよりも、よほどシンプルで愛おしい。
夜風が吹き抜け、紫陽花が揺れた。
梅雨の晴れ間の、穏やかな夜。
明日もまた、市場は動き、学園のドラマは進む。
だが、今の俺には十分なエネルギーが充填されている。




