第74話 弾道計算と紫陽花の雨音
一年で最も昼の時間が長い日、夏至。
梅雨前線は南の海上に停滞しており、東京は湿気を帯びた曇天に覆われていた。
1限目、公民。
教壇に立つのは、生活指導担当の真田厳だ。
角刈りに極太の眉、そして安物のスーツの上からでも分かる筋肉の鎧。昭和の刑事ドラマから抜け出してきたような強面教師は、今日も今日とて出席簿を武器のように構え、鋭い眼光を教室中に走らせている。
「……いいか、自由と規律は表裏一体だ。規律なき自由に価値はない! おい、そこの城戸! 貴様、また教科書の陰で漫画を読んでいるな!」
雷のような怒号と共に、真田の右腕が唸りを上げた。
チョークが指先から射出される。
白亜の弾丸は、放物線を描くことなく、直線的な弾道で俺の隣の席――城戸隼人の額を目掛けて飛来する。
だが、その射線軸上には、わずかに俺の左肩が含まれていた。
(……初速約30メートル毎秒。風の影響なし)
俺は、手元のノートから視線を外すことなく、上半身をわずか5センチ、右へスライドさせた。
最小限の動作。呼吸すら乱さない。
ヒュッ、という風切り音が耳元を掠める。
「痛ってぇ!!」
背後で、漫画に夢中になっていた隼人の悲鳴が響いた。
見事なヘッドショットだ。教室中がドッと沸く。
「……ふん。西園寺、相変わらず無駄のない動きだ。……城戸! 廊下に立ってろ!」
「ちぇっ、なんで俺ばっかり……。西園寺、お前避けるなら言えよなー!」
隼人が恨めしそうに俺を睨みながら廊下へと出ていく。
俺は涼しい顔でシャープペンシルを走らせた。
危機管理能力の欠如は、本人の責任だ。
放課後。
俺は渋谷の裏通り、円山町の路地裏にある輸入雑貨店『G-ARMS』を訪れていた。
迷彩柄のネットが張り巡らされた薄暗い店内には、ガンオイルと革の匂いが漂っている。
「……いらっしゃい。また来たのか、坊主」
カウンターの奥から、店長の源田鉄次が顔を出した。
サングラスの奥の瞳は鋭いが、その口調には微かな親愛の色が混じっている。
「こんにちは、源田さん。……頼んでいたものは?」
「ああ。届いてるぜ」
源田さんがカウンターの下から取り出したのは、掌サイズの黒い箱だった。
最新型の『盗聴発見器』と、小型の『赤外線センサー』だ。
巷で噂される窃盗団「ファントム」。彼らの手口が高度化している以上、こちらもセキュリティをアップデートする必要がある。
「……感度は良好だ。だが、過信はすんなよ。機械はあくまで補助だ」
「肝に銘じます。……それと、こちらのカタログにある『ナイトビジョン』ですが」
「ハッ、お前は本当に高校生か? ……まあいい、取り寄せといてやるよ」
商談を終え、店を出る。
ふと、先日買い占めたウイスキーのことを思い出した。
『軽井沢』の希少ボトル、そして『響30年』。
現在の手元資金を大きく削ってまで購入したこれらの琥珀色の液体は、2025年の未来において、単なる酒ではなく「投資資産」としての地位を確立する。
特に『軽井沢』の1960年蒸留ものなどは、海外のオークションで1本数千万円の値がつく。
『響30年』もまた、原酒不足により市場価格は現在の10倍以上に跳ね上がるだろう。
俺が確保した在庫だけで、将来的にビルが数棟建つ計算になる。
「……25年寝かせるだけで、利益率数千パーセント。これほど割の良いビジネスはない」
俺はニヤリと笑い、次の目的地へと向かった。
夕刻。
俺は吉祥寺のダーツバー『バグース』の個室にいた。
薄暗い照明の中、エレクトロニック・ダーツの派手な効果音が鳴り響く。
「っしゃオラァ! ハットトリック!」
城戸隼人がガッツポーズを決める。
今日のメンバーは、隼人、天童くるみさん、白鳥恒一、そして早坂涼さんの4人だ。
ヤンキー、アイドル、芸術家、元レディース、そして実業家。
相変わらず、脈絡のないメンツだ。
「ちょっと城戸くん! ライン越えてるわよ! 反則!」
くるみさんが抗議する。今日の彼女はキャップを後ろ被りにし、ボーイッシュなサロペット姿だ。18歳のトップアイドルが、ここではただの負けず嫌いな少女に戻っている。
「……ふむ。放物線の美学か。……矢が描く軌跡は、重力へのささやかな抵抗……」
白鳥はダーツを投げることなく、飛んでいく矢の軌道を指でフレームを作って眺めている。
画材を買い与えて以来、彼の顔色は以前より良くなっている。創作の喜びが、彼を生かしているようだ。
「ほら、画伯も投げる! ……そんで、ボンの番だぞ」
涼さんが俺にダーツを手渡した。
彼女は俺の会社と契約して以来、より一層頼もしい「姉貴分」として振る舞ってくれている。
今日の服装は、シンプルな白シャツに黒のスキニーパンツ。飾らない美しさが際立っている。
「……では、手本をお見せしましょう」
俺はスローラインに立ち、呼吸を整えた。
ダーツは力ではない。肘を支点とした振り子の運動と、リリースのタイミング。
物理法則に従えば、矢は必ず狙った場所に吸い込まれる。
シュッ、シュッ、シュッ。
三本の矢は、吸い込まれるように盤面の中心、ブルに突き刺さった。
『THREE IN THE BLACK!』
機械が派手なファンファーレを鳴らす。
「……げっ。またかよ! お前、本当につまんねー奴だな!」
「完璧すぎて可愛くないわねー。……でも、カッコいいから許す!」
「……中心点への収束。その静寂なる暴力性。……美しい」
三者三様の感想を背に、俺は涼さんとハイタッチを交わした。
仕事の緊張感から解放される、束の間の休息。
この馬鹿騒ぎが、今の俺には心地よい。
1時間ほど遊んだ後、俺は一足先に店を出た。
まだ遊び足りない隼人たちには、追加のフードとドリンクをオーダーしておいた。
店の外に出ると、小雨が降り始めていた。
ロータリーの近くに、見慣れた黒塗りのハイヤーが停まっている。
後部座席に乗り込むと、秘書の如月舞がタブレット端末を操作していた。
「お疲れ様です、社長。……皆様、楽しまれていましたか?」
「ああ。騒がしい連中だ。……舞も来ればよかったのに」
「私は音痴ですので。ダーツも、的に届く自信がありません」
舞は淡々と答えたが、その口元は微かに緩んでいた。
車が滑らかに走り出す。
「本日の報告です。……例の窃盗団『ファントム』ですが、新たな動きがありました。港区のマンションで未遂事件が発生。警備会社のログによれば、ピッキングではなく、電子ロックの解除を試みた形跡があるとのことです」
「……電子ロックか。手口が進化しているな」
「はい。それと、裏ルートからの情報ですが、彼らが狙っている『名簿』の中に、西園寺家の名前が含まれている可能性が高いと」
舞の声が硬くなる。
やはりか。新宿ゴールデン街で得た情報と一致する。
俺たちのような富裕層は、彼らにとって格好の獲物だ。
「……対策は?」
「セキュリティレベルを最高度『レッド』に引き上げました。また、エントランスおよびペントハウス直通エレベーターの認証システムを、最新のバイオメトリクスに変更する手配を済ませてあります」
「迅速だな。……ありがとう、舞」
「社長と、ご家族の安全を守るのが私の務めですから」
バックミラー越しに目が合う。
彼女の瞳にあるのは、職務への忠実さと、それ以上の深い献身だ。
俺は彼女に守られている。その事実が、心地よい重みとなって胸に響く。
ハイヤーを新宿で降りた俺は、一人で買い物を続けた。
まずは駅前の大型書店『紀伊國屋書店』へ。
エレベーターで洋書フロアへと上がり、専門書を物色する。
購入したのは4冊。
『最新暗号技術の理論と実践』
『行動ファイナンス入門』
『ル・コルビュジエ全作品集』
そして、息抜き用のミステリー小説の原書だ。
ずしりとした本の重みを感じながら、次は花屋へと向かう。
『青山フラワーマーケット』。
店頭には、梅雨の季節を彩る花々が並んでいる。
「……これを」
俺が選んだのは、鉢植えの『紫陽花』だ。
品種は『万華鏡』。島根県で開発された新品種で、まるで万華鏡のように色が変化する美しい花弁を持つ。
殺風景になりがちなペントハウスに、季節の彩りを添えるためだ。
母さんもきっと喜ぶだろう。
「……雨の日は、花の色が冴えるな」
ラッピングされた鉢植えを抱え、俺は再びハイヤーに乗り込んだ。
帰宅後。
リビングでは、母と姉がくつろいでいた。
「ただいま」
「おかえり、Leo! ……あら、それは?」
母が目ざとく花を見つける。
「紫陽花です。『万華鏡』という品種で、色が綺麗だったので」
「Wow! Beautiful! なんて繊細な色かしら……。ありがとう、Leo。早速テラスに飾りましょう!」
母は少女のように喜び、姉も「あんた、相変わらずマメねぇ」と感心している。
俺は買ってきた本を書斎に置き、ジャケットを脱いだ。
「夕食はどうしますか?」
「今日はデリバリーを頼んだわ。お寿司よ! 銀座の『久兵衛』!」
姉が得意げに言う。
たまには手抜きも悪くない。俺たちは届いた極上の握り寿司を囲み、他愛のない話に花を咲かせた。
母のハリウッドでの撮影裏話、姉の大学でのサークル勧誘の話。
平和で、温かい時間。
食後、俺は一人でバスルームへと向かった。
広大なジャグジーバスに湯を張り、アロマオイルを数滴垂らす。
ラベンダーとベルガモットの香り。
湯船に浸かると、身体の芯から緊張が解けていく。
ガラス張りの窓の向こうには、雨に煙る東京の夜景が広がっている。
赤い東京タワーの光が、滲んで見える。
「……ファントム、か」
湯気を眺めながら、俺は思考を巡らせた。
見えざる敵。だが、恐れることはない。
俺には未来の知識と、300億円の資金、そして頼れる仲間たちがいる。
どんな敵が来ようとも、この城と、大切な人たちは指一本触れさせない。
「……ふぅ」
大きく息を吐き、頭まで湯に沈める。
水の中で、俺の心臓の音だけが響く。
15歳の心臓と、41歳の脳。
そのアンバランスさを抱えながら、俺は明日もまた、この街で戦い続ける。
風呂から上がると、母と姉はすでに寝室へ引き上げていた。
リビングの照明を落とす。
テラスの紫陽花が、雨に打たれて微かに光っていた。




