第73話:静寂の拒絶と琥珀色の未来資産
週末の余韻を引きずった気だるい空気が漂う昼休み。
俺は、静寂を求めて図書室の奥にある閲覧席にいた。
手元には『複雑系経済学入門』。市場の予測不可能性を数理モデルで解き明かそうとする、知的好奇心を刺激する一冊だ。
だが、その静寂は無神経なノイズによって破られた。
「うっわ、マジかよ! このマンガ超ウケるんだけど!」
「おい翔太、声デカいって」
「いいじゃん別に。ここ涼しいし空いてるし」
入り口付近から、場違いな大声が響く。
日向翔太と、その取り巻きの男子生徒たちだ。
彼らは閲覧席の一角を占領し、漫画雑誌を広げて談笑を始めている。他の生徒たちが眉をひそめても、お構いなしだ。
貸出カウンターの奥で作業をしていた図書委員の高城藍が、音を立てて本を置いた。
彼女はカウンターを出て、翔太たちの元へ歩み寄る。その表情は能面のように冷たい。
「……日向。静かにできないなら、出ていって」
「うおっ、委員長! 固いこと言うなよ~」
翔太は悪びれもせず、ヘラヘラと笑って手を振った。
「外は蒸し暑いんだよ。ここならタダで涼めるじゃん? 俺たちも生徒なんだから、利用する権利あるだろ?」
「権利には義務が伴うわ。他の利用者の迷惑になる行為は禁止よ」
「だからさぁ、誰も文句言ってないじゃん。……なぁ高城、お前最近カリカリしすぎだって。カルシウム足りてないんじゃね?」
翔太はニヤニヤしながら、藍の肩を小突こうと手を伸ばした。
その瞬間、藍の瞳から温度が完全に消え失せた。
「……触らないで」
彼女は翔太の手を、汚いものを払うように強く弾いた。
パァン、と乾いた音が静かな室内に響く。
「……っ! な、なんだよ……」
「……出ていって。ここは動物園じゃないの」
藍の声は低く、そして鋭利な刃物のように研ぎ澄まされていた。
それは単なる注意ではない。生理的な嫌悪と、決定的な軽蔑を含んだ拒絶の響き。
周囲の空気が凍りつく。翔太もさすがにバツが悪くなったのか、顔を引きつらせて立ち上がった。
「……ちぇっ。分かったよ、行けばいいんだろ。……可愛くねーな」
捨て台詞を吐き、翔太たちは足音荒く図書室を出ていった。
藍は彼らの背中を冷ややかに見送ると、小さく溜息をつき、乱れた本を整え始めた。
俺は本から目を離し、心の中で彼女に拍手を送った。
彼女の中での「日向翔太」という存在は、もはや修正不可能な領域まで値崩れを起こしたようだ。
放課後。
俺は移動教室の途中、渡り廊下で霧島セイラ先輩とすれ違った。
窓の外は曇天だが、彼女の周囲だけ空気が澄んでいるように感じる。
長い黒髪をなびかせ、凛と歩く姿は「氷の女王」そのものだが、その横顔には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
「……ごきげんよう、霧島先輩」
「……あら、西園寺くん。ごきげんよう」
彼女は足を止め、薄く微笑んだ。だが、その笑顔はどこか脆い。
未だ解決していない家の借金問題。さらに生徒会副会長としての激務。彼女の細い肩にかかる重圧は計り知れない。
「お疲れのようですね。……顔色が優れませんよ」
「……そう? 中間テストの処理と、期末の予算編成が重なってね。少し寝不足なだけよ」
彼女は気丈に振る舞う。弱みを見せることを潔しとしない、彼女の矜持だ。
「無理はなさらないでください。……倒れてしまっては、守れるものも守れなくなります」
「……ええ。分かっているわ。……ありがとう、西園寺くん」
彼女は一瞬だけ、縋るような視線を俺に向けたが、すぐにそれを断ち切るように背筋を伸ばした。
まだだ。彼女が本当に限界を認め、俺の手を取るまでは。
俺は静かに一礼し、その場を離れた。
その後、俺は渋谷のカフェの個室にいた。
向かいに座っているのは、帽子と伊達メガネで変装した天童くるみさんだ。
「……で、この問題の傾向としては、時事ネタと歴史の語呂合わせが多いんです」
「うぅ……。歴史とかマジで苦手なんだけど……」
テーブルには参考書とクイズ番組の過去問集が広げられている。
近日出演予定のゴールデン帯クイズ番組に向けた、緊急対策講座だ。
「おバカキャラ」で売るのも一つの手だが、彼女は「実力で目立ちたい」というプライドを持っている。ならば、最低限の教養で武装させるのがオーナーの務めだ。
「丸暗記する必要はありません。クイズ番組は連想ゲームです。キーワードから答えを導き出す回路を作ればいい」
「回路……? よくわかんないけど、レオが言うならやるわよ」
彼女は文句を言いながらも、真剣な眼差しでノートを取っている。
その横顔は、ステージ上のアイドルではなく、夢に向かって努力する一人の少女のものだった。
くるみさんとの勉強会を終えた後、俺は東急百貨店本店の外商サロンを訪れていた。
先日テレビ通販で購入したスタンダードな『軽井沢』とは別に、今日はさらに希少価値の高い「投資」を行うためだ。
「……ご用意いたしました、西園寺様」
外商担当者が恭しくテーブルに並べたのは、重厚な木箱に入ったウイスキーのボトルたち。
サントリー『響 30年』。1997年に発売されたばかりの最高峰ブレンデッドウイスキー。
そして、『山崎 25年』。サントリー創業100周年を記念して、今年1999年に発売された限定品だ。
「美しいですね。……これらを、確保できる限り全て買い取ります」
「すべて、でございますか? ……1本でも数十万円いたしますが」
「構いません。将来、これらは単なる酒ではなく、液体の宝石になりますから」
1999年現在、これらのボトルは高価ではあるが、まだ「飲まれるための酒」として流通している。
だが、2025年の未来において、ジャパニーズウイスキーの世界的な高騰は異常なレベルに達する。
『響 30年』は数百万円、『山崎 25年』に至っては、オークションで1本1,000万円を超える値がつくこともある。
現在の価格で買い占めれば、そのリターンは100倍以上。
もはや投資というよりは、確定した未来への換金だ。
「……配送は、いつもの温度管理倉庫へ。厳重に保管を頼みます」
俺はサインをし、琥珀色の未来資産を見つめた。
25年後、この封を開ける時、俺はどんな景色を見ているのだろうか。
夕刻。
俺は高田馬場の喫茶店『ルノアール』で、早坂涼さんと向き合っていた。
先日相談を受けた「元極道の花屋開業プロジェクト」の件だ。
「……物件の契約は完了しました。内装工事の手配も済んでいます」
「仕事はえーな、相変わらず。……おっさんたちもやる気満々だよ。『花の名前、覚えるの難しいっすね』なんて言いながら勉強してる」
涼さんは楽しそうに笑った。
彼女自身、彼らの指導を通じて「人に教える」ことの難しさと喜びを感じているようだ。
「そこで、涼さん。……貴女に正式なオファーがあります」
俺は鞄から一通の書類を取り出した。
『業務委託契約書』。
委託元は、俺の資産管理会社『レオ・キャピタル』。
「この花屋プロジェクトのマネジメント、および今後展開する実店舗ビジネスのアドバイザーとして、うちの会社と契約していただきたい」
「……は? アタシがか?」
「ええ。涼さんの統率力、そして現場での対応力は、僕の会社に欠けている『人間力』を補完するものです。……もちろん、学業に支障のない範囲で構いません。報酬は弾みます」
涼さんは少し驚いた顔をしたが、すぐにニッと笑って書類を受け取った。
「……面白そうじゃん。お前の会社の一員ってわけか。……いいぜ、乗った。ボンのお守り役、正式に引き受けてやるよ」
「感謝します。……頼りにしていますよ、涼さん」
彼女との握手は、力強く、そして温かかった。
これでまた一人、信頼できる「共犯者」が正式に仲間に加わった。
帰宅後。
俺はキッチンの前に立ち、今夜のメインディッシュと対峙していた。
滞在中の母と姉のための夕食。
今夜はシンプルかつ豪快に、『ステーキ』だ。
肉は、信頼できる精肉店で仕入れた黒毛和牛のサーロイン。
厚さ3センチ。見事なサシが入った最高級品だ。
これを室温に戻し、焼く直前に岩塩と挽きたての黒胡椒を振る。
フライパンを煙が出るほど熱し、牛脂を溶かす。
肉を投入。
ジュワアアァァッ……!!
激しい音と共に、香ばしい肉の香りが立ち上る。
表面を一気に焼き固め、旨味を閉じ込める。裏返して弱火にし、好みの焼き加減まで火を通す。
最後にアルミホイルで包み、余熱で肉汁を全体に回す。この「休ませる」時間が、ステーキの味を左右する。
付け合わせは『ガーリックライス』。
ステーキを焼いた後の脂で、みじん切りのニンニクを炒める。
そこに炊きたてのご飯を投入し、強火でパラパラになるまで炒め合わせる。
醤油を鍋肌から回し入れ、焦がし醤油の香りを纏わせる。
仕上げに大葉と万能ネギをたっぷりと。
サラダは『シーザーサラダ』。
ロメインレタスを手でちぎり、自家製のクルトンとパルメザンチーズを散らす。
ドレッシングは、アンチョビ、ニンニク、卵黄、オリーブオイル、レモン汁、そしてパルメザンチーズを乳化させた濃厚な特製ソースだ。
合わせる酒は、ボルドーの赤ワイン『シャトー・パルメ 1990』。
「マルゴーの奇跡」と呼ばれるほどのエレガントさと、力強い果実味を兼ね備えたヴィンテージ。脂の乗った和牛サーロインには、これくらいの骨格が必要だ。
「ただいまー! ……うわ、肉の匂い!」
「Leo! 今夜はステーキ? 最高ね!」
姉と母が帰宅し、食卓に着く。
「いただきます」
ナイフを入れると、肉は抵抗なく切れ、断面からローズ色の肉汁が溢れ出した。
口に運ぶ。
表面のカリッとした香ばしさの後、とろけるような脂の甘みと、赤身の濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。
「……んんっ! 柔らかっ! 何これ、飲み物!?」
「ガーリックライスも危険ね……。お肉と一緒に食べると止まらないわ」
そこに赤ワインを流し込む。
タンニンが脂を洗い流し、肉の余韻とワインの香りが鼻腔で混ざり合う。
完璧なマリアージュだ。
「……美味しい。本当に、Leoの料理は魔法みたい」
母がワイングラスを揺らしながら、うっとりと呟いた。
家族の笑顔と、美味しい料理。そして最高級の酒。
これ以上の贅沢はない。
俺はステーキを噛み締めながら、今日一日の成果――藍の覚醒、セイラとの対話、くるみへの投資、ウイスキーの確保、そして涼の加入――を反芻した。
全ては順調だ。
俺の描く未来図は、着実に現実のものとなりつつある。




