第70話 南国の風とジャスミンの香り
一週間続いた梅雨空が奇跡的に晴れ上がり、東京の街に眩しい初夏の日差しが降り注いでいた。
週末を控えた金曜日の放課後。桜花学園の生徒たちは解放感に包まれ、足取り軽く校門をくぐり抜けていく。
俺もまた、いつものようにハイヤーに乗り込み、渋谷へと向かった。
今日の目的地は、東急百貨店本店の地下食品売り場だ。
「……さて。まずは彼女への礼を選ばなくてはな」
一昨日、手作り弁当を振る舞ってくれた桜木マナへの返礼だ。
金銭や高価なアクセサリーでは、彼女の純粋な好意に対して無粋になる。かといって、チープな菓子では俺の美学に反する。
彼女は洋食屋の娘であり、自身も料理をする。ならば、選ぶべきは「味覚のインスピレーション」を刺激するものだ。
俺は輸入食材のコーナーで足を止めた。
棚に並んでいるのは、フランス・アルザス地方の有名パティシエが手掛けた、最高級のコンフィチュールだ。
旬のフルーツを銅鍋でじっくりと煮詰め、果実の旨味と香りを極限まで凝縮させた逸品。
「『アプリコット&バニラ』と『ルバーブ&ストロベリー』……。これなら間違いない」
まるで宝石のように輝く小瓶を2つ選び、ギフトラッピングを依頼する。
これは単なるジャムではない。彼女の料理人としての感性を刺激する「教材」であり、甘い時間を共有するためのチケットだ。
買い物を済ませた後、俺はハチ公前でマナと合流した。
今日の彼女は夏服の制服姿だが、カーディガンの袖を少しまくり、健康的な手首を見せている。
ショートボブの髪が風に揺れ、弾けるような笑顔が、雑踏の中で一際輝いて見えた。
「西園寺くん! 待たせてごめんね!」
「いえ、僕も今来たところですよ。……桜木さん、これを」
俺は挨拶もそこそこに、先ほど購入したコンフィチュールの包みを差し出した。
「えっ? ……これ、なに?」
「先日のお弁当のお礼です。フランスのフェルベールという職人が作ったコンフィチュールです。パンに塗るだけでなく、ヨーグルトに入れたり、料理の隠し味にも使えますよ」
「ええっ!? そんな高級なもの、悪いよ……!」
「受け取ってください。君の卵焼きには、それだけの価値がありましたから」
俺が微笑むと、マナは顔を真っ赤にして、大切そうに包みを抱きしめた。
「……ありがとう。すっごく嬉しい。大事に食べるね」
「さて。どこへ行きましょうか。今日は素晴らしい天気だ」
「うん! あのね、タワレコ行きたい! 宇多田ヒカルの新曲、試聴したいんだ!」
俺たちはセンター街を抜け、黄色い看板が目印の『タワーレコード渋谷店』へと向かった。
店内は最新のヒットチャートをチェックする若者たちでごった返している。
マナは慣れた様子で試聴機の前に行き、ヘッドホンを片耳に当てた。
「西園寺くんも聴いてみて! すごいカッコいいから!」
彼女はもう片方のイヤーパッドを、俺の耳に当ててきた。
至近距離。
甘いシャンプーの香りと、彼女の体温が伝わってくる。
流れてくるのは、R&Bのリズムに乗った洗練されたメロディ。
「……確かに。従来の歌謡曲とは一線を画すグルーヴ感ですね」
「でしょー! あー、カラオケ行きたくなっちゃった!」
無邪気にはしゃぐ彼女を見ていると、41歳の精神を持つ俺まで、ただの10代の少年に戻ったような錯覚を覚える。
翔太という呪縛から解き放たれ、自分の足で歩き始めた彼女は、以前よりもずっと魅力的だ。
その後、俺たちはカフェで冷たいアイスティーを飲み、他愛のない話で盛り上がった。
ビジネスの話も、将来の不安もない。ただ、目の前の時間を楽しむだけの贅沢。
マナの笑顔は、初夏の日差しよりも眩しかった。
マナを送り届けた後、俺は再びデパ地下に戻り、夕食の食材を買い込んだ。
今夜のメニューは、湿気を吹き飛ばすようなエスニック料理だ。
ここ数日滞在している母・ソフィアと、姉・摩耶のための特別ディナーである。
購入したのは、フレッシュなハーブ類。スイートバジルではなく、香りの強い『ホーリーバジル』。
そして、刺身用の新鮮な海老、国産の鶏肉、パプリカ、パクチー。
最後に、専門店で最高級の『ジャスミン茶葉』を手に入れた。
帰宅後。
広大なキッチンに立ち、エプロンを締める。
まずは『生春巻き』の準備だ。
ライスペーパーをぬるま湯にくぐらせる。戻しすぎないのがコツだ。少し硬いくらいで引き上げ、濡れ布巾の上に広げる。
そこに、茹でた海老、大葉、サニーレタス、そして極細に切ったキュウリと人参を乗せる。さらに、茹でた春雨とニラを加え、空気を入れないようにきっちりと巻いていく。
透き通る皮から覗く海老の赤と野菜の緑が美しい。
タレは2種類。ナンプラーベースの甘酸っぱい『ヌクチャム』と、濃厚な『ピーナッツソース』を調合する。
次にメインの『ガパオライス』。
鶏肉は挽肉を使わず、皮を除いたムネ肉とモモ肉を包丁で粗く叩いてミンチにする。こうすることで、肉の食感と旨味が格段に増す。
中華鍋に油とニンニク、唐辛子を入れ、香りが立つまで炒める。そこに鶏肉を投入し、強火で一気に火を通す。
ナンプラー、オイスターソース、砂糖で濃いめに味付けし、パプリカを加える。
最後に、主役であるホーリーバジルを大量に投入し、さっと煽って火を止める。熱でバジルの爽やかな香りが爆発的に広がる。
ご飯の上に盛り付け、多めの油で端をカリカリに揚げ焼きにした目玉焼き(カイダオ)を乗せる。
スープは『トムカーガイ』。
鶏ガラスープにココナッツミルクを加え、カーとレモングラスで香りをつける。まろやかさと酸味、そして辛味が複雑に絡み合う、世界三大スープの一つだ。
飲み物は、急須で丁寧に淹れた『特級ジャスミン茶』。
華やかな香りが、スパイシーな料理の口直しに最適だ。
「ただいまー! ……うわ、なんか異国の香りがする!」
「Something spicy? いいわね、食欲をそそるわ!」
姉と母が帰宅し、リビングに入ってくるなり歓声を上げた。
「お帰りなさい。今夜はタイ風です。暑気払いにどうぞ」
俺は料理をテーブルに並べた。
鮮やかな彩りの生春巻き、バジルの香りが食欲を刺激するガパオ、そして乳白色のスープ。
「いただきます!」
姉がガパオライスをスプーンで掬い、口に運ぶ。
「……んんっ! 辛っ! でも美味い! このお肉、ゴロゴロしてて食べごたえある!」
「生春巻きも最高よ。……皮がモチモチで、野菜がシャキシャキ。いくらでも食べられそう」
母もパクチーを山盛りにし、嬉しそうに頬張っている。
辛味で火照った口を、冷えたジャスミン茶がすっきりと洗い流してくれる。
窓の外には、東京の夜景。
南国の風と都会の光が交差する、優雅なディナータイムだ。
「Leo, 明日は土曜日だけど、予定は?」
「午前中は仕事の整理をして、午後は少し出かけるつもりです」
「あら、デート?」
「……まあ、似たようなものです」
俺は曖昧に微笑んだ。
明日は、また別の「未来」を作るための布石を打ちに行く。
だが、今夜だけは、この穏やかな家族の時間を守り抜こう。




