第67話 黄金の朝食と贋作の終焉
梅雨前線が停滞する東京の朝は、重たい雨音と共に始まった。窓ガラスを叩く雨粒が、外の世界を灰色の幕で覆っている。
だが、『グラン・エターナル麻布』のペントハウス内は、外の天気とは無縁の、華やかで騒がしい空気に包まれていた。
「Good morning, Leo! 最高の目覚めよ!」
リビングに現れたのは、シルクのナイトガウンを羽織った母、西園寺ソフィアだ。
寝起きだというのに、その肌は発光するように白く、ブロンドの髪は計算された無造作ヘアのように艶やかだ。43歳という年齢は、母の前では物理法則ごときれいさっぱり無効化されているらしい。
「おはようございます、母さん。よく眠れましたか?」
「ええ、もう泥のように! ……それにしても、あのお風呂は反則ね。ジャグジーの泡と夜景のマリアージュ……。ビバリーヒルズの自宅よりリラックスできたわ」
母はうっとりとした表情で、昨夜のバスタイムを回想している。
総大理石張りの浴室と、最新鋭のジャグジーシステム。俺がこだわって導入した設備が、世界を知る大女優のお眼鏡にかなったようで何よりだ。
「ふわぁ……。おはよ、玲央……」
続いて、ふらふらと幽霊のような足取りで起きてきたのは、姉の摩耶だ。
昨夜の日本酒が少し残っているのか、あるいは単なる低血圧か。ボサボサの髪にスウェット姿だが、それでも隠しきれない素材の良さが、かえって「残念な美人」ぶりを際立たせている。
「おはようございます、姉さん。……顔、洗ってきてください」
「ん……ありがと。……あー、お風呂最高だった。住みたい。ていうか、ここ私の部屋にしていい?」
「却下です。……さて、朝食が出来ましたよ」
俺は二人に席を促し、キッチンから大皿を運んだ。
今日の朝食は『エッグベネディクト』だ。
イングリッシュマフィンをカリッとトーストし、その上に厚切りのカナディアンベーコンと、完璧な温度管理で作ったポーチドエッグを乗せる。
そして、味の決め手となる『オランデーズソース』をたっぷりと回しかける。
卵黄を湯煎にかけながら、澄ましバターを少しずつ加えて乳化させ、レモン果汁とカイエンペッパーで引き締めた、黄金色のソース。
仕上げに黒トリュフを削り、イタリアンパセリを散らせば完成だ。
「Wow... 何これ、お店?」
「いただきまーす! ……んんっ! とろとろ!」
ナイフを入れると、半熟の黄身と濃厚なソースが絡み合い、マフィンに染み込んでいく。
バターの香りと卵のコク、そしてレモンの酸味。
重くなりがちな朝食だが、トリュフの香りが全体を優雅にまとめ上げている。
「……Leo, あなた本当に15歳? ハリウッドのケータリングより美味しいわよ」
「恐縮です。……母さんの美肌のためにも、タンパク質と良質な脂質は必須ですからね」
「まあ、口が上手いんだから!」
母は上機嫌で、俺の頬にキスの雨を降らせようとしてくる。俺はそれをスルリとかわし、エスプレッソを啜った。
賑やかで、暖かな食卓。
この平和な時間を守るためにも、俺には今日、片付けなければならない「ゴミ掃除」があった。
午後。
俺は学校を早退し、上野の森美術館へと向かっていた。
今日ここでは、日本画壇の重鎮・葛城玄斎の「古希記念展」の記者発表会が行われている。
会場のホールには、多くの報道陣と美術関係者が詰めかけていた。
壇上には、高級な着物に身を包み、好々爺然とした笑みを浮かべる葛城玄斎の姿がある。
「……芸術とは、魂の純粋な発露です。私はこの70年、ただひたすらに美と向き合ってまいりました」
フラッシュの光を浴びながら、もっともらしい言葉を並べる老人。
その背後には、彼が「描いた」とされる新作の大作が飾られている。
だが、その筆致、色彩の構成、構図の妙。どれを見ても、あの貧乏画学生――白鳥恒一のタッチそのものだ。
「……よくもまあ、ぬけぬけと」
ホールの後方で、俺は冷ややかに呟いた。隣には、如月舞が控えている。
「社長。準備は整っております」
「始めろ」
俺が短く告げると、舞は手元の端末を操作した。
次の瞬間、会場内のプロジェクターが切り替わった。
映し出されたのは、葛城の新作ではない。
隠し撮りされた映像だ。
『……おい、白鳥! まだ描けんのか! 明日までに仕上げろと言っただろうが!』
『先生、もう腕が……ご飯も食べてなくて……』
『うるさい! お前は俺の手足だ! 俺の名前で世に出ることを光栄に思え!』
葛城が白鳥を怒鳴りつけ、筆を投げつける映像。
さらに、画面には膨大な資料が次々と表示されていく。
過去の作品と、弟子たちの習作の比較検証データ。
裏帳簿のコピー。
そして、弟子たちからの悲痛な告発文。
「な、なんだこれは!? 消せ! 誰だ!」
葛城が狼狽し、叫ぶ。
会場は騒然となり、記者たちの目の色が獲物を狙う猛獣のように変わった。
「葛城先生! これはどういうことですか!?」
「ゴーストペインターを使っていたというのは事実ですか!?」
「この映像の少年は誰なんです!?」
矢継ぎ早に飛ぶ質問。葛城は顔を真っ赤にして震えている。
「で、でたらめだ! 捏造だ! 私は知らん! ……誰だ、こんな悪質な……」
「僕ですよ、葛城先生」
俺は静かに声を上げ、人垣を割って進み出た。
15歳の少年の登場に、場が一瞬静まり返る。
「……き、貴様は……西園寺の小倅か!?」
「お久しぶりですね。……先日、僕が投資した才能を『商品』扱いされたお返しです」
俺は壇上の葛城を見上げた。
「貴方が長年築き上げてきた名声は、才能ある若者たちからの搾取の上に成り立っていた。……白鳥恒一くんだけではない。過去に貴方が潰してきた数多の才能の分まで、きっちりと清算していただきますよ」
「黙れ! ガキが! 証拠はあるのか!」
「今お見せした通りです。さらに、脱税と労働基準法違反の証拠も、既に国税局と労基署に提出済みです。……ああ、それと」
俺は背後のスクリーンを指差した。
そこには、海外のアートフォーラムで話題になっている記事が映し出されていた。
『東洋の神秘、16歳の天才画家・白鳥恒一。その真の才能が、老害によって隠蔽されていた悲劇』
「世界はもう、真実を知り始めています。貴方の名前は、明日には『芸術への冒涜者』として歴史に刻まれるでしょう」
「あ……あぁ……」
葛城は膝から崩れ落ちた。
自身が絶対だと信じていた権威が、足元から崩壊していく音を聞いたのだろう。
記者たちのフラッシュが、今度は「転落した巨匠」を容赦なく焼き付けていく。
「……行こう、舞。ここはもう、空気が悪い」
俺は踵を返し、崩れゆく老人を一瞥もしないまま会場を後にした。
これで白鳥は自由だ。
俺の投資した原石が、ようやく自分の名前で輝ける。
夕刻。
葛城の一件を片付けた俺は、その足で早稲田大学のキャンパス近くにある純喫茶へと向かった。
早坂涼さんからの呼び出しだ。
レンガ造りのレトロな店内。
紫煙とコーヒーの香りが混ざり合う一番奥の席で、涼さんは難しそうな顔で腕を組んでいた。
「……お待たせしました、涼さん」
「おう、来たかボン。……悪いな、雨の中」
「構いませんよ。……それで、今日はどのようなご用件で?」
涼さんは周囲を窺うように声を潜めた。
「……実はさ。ちょっと厄介な相談があるんだ」
彼女が語ったのは、かつて彼女が世話になったという、古気質の元極道・工藤の話だった。
組を解散し、カタギとして生きることを決めたものの、不器用すぎて社会に馴染めず、困窮しているという。
「……で、そのおっさんがさ、『最後に一花咲かせたい』とか言い出して。……花屋をやりたいって言うんだよ」
「……花屋、ですか?」
腐った権力者を潰した直後に、ヤクザが花屋になりたいという相談。
この落差が、妙に可笑しかった。
「笑うだろ? でも本人は大真面目でさ。……このままだと、変なコンサルに騙されて、退職金代わりに残した虎の子の金を毟り取られるのがオチだ」
涼さんは悔しそうに拳を握った。
「アタシは……更生したいって人間を、見捨てたくない。それがどんなに無茶な夢でも、本気なら応援したいんだ。……教師を目指す人間としてな」
彼女の瞳には、強い意志が宿っていた。
かつて自分自身がドロップアウトしかけ、そこから這い上がった経験があるからこそ、再起を願う人間に寄り添える。
「……分かりました。協力しましょう」
俺は即答した。
葛城のような「既得権益にしがみつく豚」は切り捨てるが、工藤のような「泥から這い上がろうとする人間」には投資する価値がある。
「物件探しと契約関係は、うちの顧問弁護士を使わせます。元極道という属性だけで弾かれる審査も、法的根拠と保証があれば通せる」
「……マジか!? すげぇな、お前」
「ただし、条件があります。……彼らに『カタギの流儀』と接客を叩き込むのは、涼さんの仕事です。貴女が彼らの『先生』になってください」
「……へっ。上等だ。あのおっさんたち、アタシがスパルタで花屋の店員に仕立て上げてやるよ」
涼さんはニカッと笑った。
雨雲を吹き飛ばすような、快活な笑顔。
破壊の後の創造。今日は悪くない一日だ。
店を出ると、雨は小降りになっていた。
迎えに来たハイヤーに乗り込む。運転席には舞がいる。
「お疲れ様です、社長。……葛城玄斎の件、ニュース速報が出ております」
バックミラー越しに、舞が報告する。
テレビでは、葛城の不正と失脚が大々的に報じられていた。これで彼の社会的生命は完全に絶たれた。
「……ああ。これで白鳥くんも、心置きなく創作に打ち込めるだろう」
「はい。先ほど白鳥様から、泣きながら感謝の電話がありました。『色が……世界に色が戻った……!』と仰っていました」
「相変わらず大げさな奴だ」
俺は苦笑し、シートに深く身を預けた。
「……早坂様とのご用件は?」
「元極道の更生支援だ。……花屋をやるらしい」
「ふふっ。社長の周りには、退屈な人間がいませんね」
舞が小さく笑った。
車内の空気が、ふっと緩む。
ビジネスの報告ではない、ただの世間話。
彼女とのこの時間が、俺の張り詰めた神経を解きほぐしてくれる。
「……そういえば、社長。先ほどの『花屋』の件ですが、以前救済された商店街に、手頃な空き店舗がございます」
舞はすでに、俺の思考の先を読んでいた。
「……さすがだな、舞。資料はあるか?」
「はい。後部座席にご用意しております」
完璧だ。彼女は単なる秘書ではない。俺の最強のパートナーだ。
「ありがとう。助かるよ」
「礼には及びません。……私は、社長の夢を叶えるためにここにいるのですから」
静寂の中、車は滑らかに都心を走る。
葛城という巨悪を討ち、新たな再生の種を撒いた。
1999年の東京の夜景は、昨日よりも少しだけ澄んで見えた。




