第66話 白銀の衣と家族の食卓
社会科見学を終え、日常が戻ってきた桜花学園の教室は、梅雨特有の湿った空気と、週初めの倦怠感に包まれていた。
2限目、現代文。
担当教師は、黒板に森鴎外の『舞姫』の一節を板書しながら、重々しい口調で問いかけた。
「……さて。豊太郎がエリスを捨てる決断をした際、彼の心中には『家』という旧来の価値観と、『個』としての近代的自我の葛藤があったとされる。だが、現代の視点から見た時、彼の選択を単なる『エゴイズム』と断罪することは容易だ。……おい、西園寺。君なら、この豊太郎の決断をどう評価する?」
唐突な指名。
クラス中の視線が、気だるげな空気から一転して興味本位の色を帯びて俺に集まる。
俺は、手元の教科書から顔を上げ、静かに席を立った。
「はい。倫理的な側面から見れば、彼の行為は裏切りであり、断罪されるべきです。しかし、当時の明治日本における官僚機構の論理、すなわち『国家の発展』という大義名分のもとでは、個人の恋愛感情は排除すべきノイズでしかありませんでした。彼は『エゴイズム』で選んだのではなく、システムの一部として機能することを選んだ。……その意味で、彼は加害者であると同時に、近代化という巨大なシステムの犠牲者でもあると考えます」
俺は淀みなく答えた。
41歳の社会人経験を持つ俺にとって、組織の論理と個人の感情の板挟みは、小説の中の出来事ではなく、かつて日常的に目にしてきた光景だ。
教師は眼鏡の奥で目を細め、深く頷いた。
「……なるほど。構造的な視点か。高校生にしては冷徹すぎるきらいもあるが、的確だ。座れ」
着席すると、隣の席の城戸隼人が、教科書を立てた影で小さく親指を立ててきた。
俺は苦笑し、再び教科書に視線を落とした。
昼休み。
俺は中庭のベンチで、ミネラルウォーターを飲みながら一息ついていた。
ふと、視界の端に凛とした影が差した。
「……ごきげんよう、西園寺くん」
霧島セイラ先輩だ。
今日の彼女は、夏服の半袖ブラウスを完璧に着こなし、長く艶やかな黒髪を風になびかせている。
以前のような、周囲を拒絶するような刺々しいオーラは少し鳴りを潜めているが、その表情には依然として張り詰めた緊張感が漂っている。
「ごきげんよう、霧島先輩。……少し、お顔の色が良いようですね」
「あら、そう? ……まあ、迷いが少し晴れたからかもしれないわね」
彼女は俺の隣に、ハンカチを敷いて腰を下ろした。
以前、渡り廊下で交わした言葉。彼女は「価値のないものにすがりつくのは愚かか」と問い、俺は「譲れない誇りなら守る価値がある」と答えた。
「先日は、ありがとう。……貴方の言葉のおかげで、父ともう一度向き合う覚悟ができたわ」
「それは良かったです。……状況は、好転しそうですか?」
俺が問うと、セイラ先輩は小さく首を横に振った。その瞳には、隠しきれない疲労と焦燥が滲んでいる。
「……いいえ。依然として崖っぷちよ。霧島の名を守るためには、まだ茨の道が続くわ」
彼女は自嘲気味に笑った。
父の事業の失敗、膨らむ借金。根本的な問題は何一つ解決していない。彼女は今、精神力だけで立っている状態だ。
「霧島先輩。……以前申し上げた通り、僕の提案はまだ有効ですよ。もし、戦うための『武器』が必要になったら、いつでも言ってください」
俺は改めて、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
同情ではなく、ビジネスパートナーとしてのオファー。
「……ええ、覚えているわ。貴方のその『カード』を切る日が来ないことを祈っているけれど……」
彼女は弱々しく、しかし気高く微笑んだ。
まだだ。彼女のプライドはまだ折れていない。だが、その限界が近いことも、俺たちは互いに理解していた。
「……また、相談に乗ってくれるかしら? ……今度は、ビジネスじゃなくて、生徒会のことで」
「ええ、喜んで。先輩の頼みなら、断る理由はありません」
「……ありがとう」
彼女は少し頬を染め、立ち上がった。
去り際に残された微かな香水の香りが、梅雨の湿気を一瞬だけ忘れさせてくれた。
放課後。
俺は電車に乗り、高田馬場へと向かった。
早稲田大学に通う早坂涼さんから、「話がある」と呼び出されたのだ。
駅前の喫茶店『ルノアール』。
昭和の香りが色濃く残る店内の奥席で、涼さんはアイスコーヒーを飲んでいた。
今日の彼女は、白のTシャツにデニムというラフなスタイルだが、その透明感のある美貌は、煙草の煙が漂う店内でも一際目を引いていた。
「お待たせしました、涼さん」
「おう、来たかボン。……悪いな、呼び出して」
「構いませんよ。……何かありましたか?」
「んー、まあね。……こないだの、くるみちゃんの一件。聞いたよ」
涼さんの表情が真剣になる。
昨日の、くるみさんを襲った悪徳業者との一件だ。俺が徹底的に制裁を加えたことは、すでに彼女の耳にも入っていたらしい。
「……やりすぎたとは思っていません。彼女を守るためには必要でした」
「分かってる。……アタシが言いたいのは、礼だよ。くるみを守ってくれて、ありがとな」
彼女は照れくさそうに頭をかいた。
「あいつ、強がってるけど脆いからさ。……お前がいてくれて、本当によかった」
「……恐縮です。涼さんも、何かあれば頼ってください。全力で守りますから」
「ははっ、頼もしいねぇ。……ま、アタシは自分の身くらい自分で守れるけどな」
涼さんはニカッと笑った。その笑顔は、かつて不良を束ねていた頃の強さと、現在の優しさが同居した、彼女だけの魅力に溢れていた。
涼さんと別れた直後、携帯電話が鳴った。
母・ソフィアからだ。
『Leo! 今夜、摩耶と三人でディナーどう? あなたの手料理が食べたいわ!』
世界的女優からのリクエストだ。断る選択肢はない。
俺は「喜んで」と答え、その足で買い出しに向かった。
目指すは、麻布十番の鮮魚店。
今日のメインディッシュは『天ぷら』だ。
梅雨の湿気を吹き飛ばすような、カラリと揚がった極上の天ぷら。
「……いいキスが入ってるな」
店先に並んだ、透き通るような白身の鱚。
江戸前の天ぷらには欠かせない種だ。
大ぶりで肉厚なものを10尾ほど選ぶ。さらに、旬の走りである『稚鮎』、肉厚の『椎茸』、そして彩り豊かな『アスパラガス』も購入する。
酒屋にも立ち寄る。
天ぷらに合わせるなら、キレの良い冷酒だ。
選んだのは、新潟の銘酒『久保田 萬寿』の生酒。季節限定の希少品だ。フルーティーな香りと、洗練された飲み口が、淡白な白身魚の旨味を引き立てるだろう。
帰宅後。
俺はジャケットを脱ぎ、エプロンを締めた。
キッチンは俺の聖域だ。
まずは下準備。
キスは背開きにし、骨を丁寧に取り除く。稚鮎は内臓の苦味を楽しむため、そのまま。野菜も食べやすい大きさにカットする。
衣作りが勝負だ。
ボウルに冷水を入れ、卵黄を加える。そこに、振るった薄力粉をさっくりと混ぜ合わせる。混ぜすぎてはいけない。グルテンを出さないよう、粉っぽさが残るくらいで止めるのが、サクサクの衣を作る秘訣だ。
油は、太白胡麻油とサラダ油をブレンドしたものを使用する。
胡麻の香ばしさと、軽やかさを両立させる黄金比率だ。
並行して、『茶碗蒸し』の準備も進める。
鰹と昆布の一番出汁に、卵液を合わせる。具材はシンプルに、鶏肉、海老、銀杏、そして三つ葉。
蒸し器に入れ、弱火でじっくりと火を通す。「す」が立たないよう、温度管理は徹底する。
味噌汁は、『ミョウガと豆腐』。
ミョウガの爽やかな香りが、揚げ物の口直しに最適だ。
準備が整った頃、インターホンが鳴った。
「ただいまー! ……うわ、いい匂い!」
「Leo! My sweet boy! 会いたかったわ!」
姉の摩耶と、母のソフィア。
二人が入ってくると、リビングが一気に華やぐ。
「さあ、座ってください。揚げたてを出しますから」
俺はカウンターキッチン越しに、最初のキスを油に投入した。
ジュワアアァァッ……!
軽快な音が響き渡り、香ばしい香りが立ち上る。
衣の中で水分が蒸発し、身がふっくらと蒸される。
泡が小さくなり、音がチリチリと高くなった瞬間、引き上げる。
「どうぞ。まずは塩で」
揚げたてのキスは、箸で持つと崩れそうなほど柔らかい。
二人が口に運ぶ。
「……んんっ! サクサク! 中ふわふわ!」
「Oh my god... Leo, あなた天才ね! お店より美味しいわ!」
サクッという音の後、白身の上品な甘みが口いっぱいに広がる。
そこに、キンキンに冷えた『萬寿』を流し込む。
日本酒の華やかな香りが、油を洗い流し、次の一口を誘う。
稚鮎のほろ苦さ、アスパラの瑞々しさ。
茶碗蒸しの滑らかな舌触り、味噌汁の香り。
全てが完璧なハーモニーを奏でている。
「……幸せねぇ。家族でこうしてご飯食べるの、久しぶりかも」
姉が頬を緩め、酒をお代わりした。
母も、女優の顔ではなく、ただの母親の顔で微笑んでいる。
41歳の記憶を持つ俺にとって、この「家族の団欒」は、かつて失ったものであり、今世で何としても守り抜きたい宝物だ。
俺は黙って天ぷらを揚げ続けながら、この幸福な時間を噛み締めた。
食後。
ほろ酔い気分の母と姉に、俺はある場所を案内した。
「……Leo, どこへ連れて行くの?」
「リラックスタイムですよ。……こちらへ」
案内したのは、このペントハウスの自慢の一つ、バスルームだ。
扉を開けると、二人が感嘆の声を上げた。
「……嘘でしょ。ここ、ホテル?」
そこには、総大理石張りの広大な空間が広がっていた。
中央に鎮座するのは、大人二人が余裕で足を伸ばせるサイズのジャグジーバス。
壁の一面はガラス張りになっており、そこからは東京タワーと、雨上がりの夜景が一望できる。
「すごい……! 夜景を見ながらお風呂!?」
「アロマキャンドルも用意してあります。……日頃の疲れを癒やしてください」
俺は照明を落とし、キャンドルに火を灯した。
揺らめく炎と、窓の外の夜景が、幻想的な空間を作り出す。
「ありがとう、Leo。……最高の親孝行だわ」
母が俺の頬にキスをした。
姉も、「あんた、最高!」と背中を叩いてくる。
二人がバスルームに消えた後、俺はリビングに戻り、一人で残りの日本酒を傾けた。
窓の外、濡れたアスファルトが街灯を反射して輝いている。
明日はまた、ビジネスと学園生活という戦場が待っている。
神宮寺レイの影、見えざる黒幕の存在。
そして、まだ救えていない仲間たち。
だが、今の俺には、守るべきものと、帰るべき場所がある。
それだけで、戦う理由は十分だ。




