第65話 氷点下の怒りと恋する冷やし中華
昨日の鍋パーティーの熱気が嘘のように、東京の空は再び重たい鉛色に閉ざされていた。
梅雨特有の、肌にまとわりつくような湿気。
午前10時。俺は、リビングでエスプレッソを飲みながら、携帯電話の小さな液晶画面を睨んでいた。
iモードメールの差出人は、クラスメイトの草野健太だ。
『件名:緊急相談! 西園寺、ちょっとヤバいかも。例の裏サイトの件だけど、どうも単なる生徒の悪口掲示板じゃないっぽい。管理人のIDを辿ったら、外部のIPを経由してる。……バックに誰かいるぞ。「黒幕」みたいな奴が、意図的に特定の生徒をターゲットにするよう扇動してる形跡がある』
「……なるほど。勘のいい男だ」
草野のネットリテラシーは、この時代においては突出している。俺が以前、白鳥恒一への誹謗中傷に対抗するために撒いたジャミングとは別に、明確な悪意を持って学園の世論を操作しようとしている存在がいるということだ。
先日遭遇した神宮寺レイの顔が脳裏をよぎる。あるいは、まだ見ぬ別の敵対者か。
いずれにせよ、放置すれば火種は大きくなる。
「……泳がせるか。尻尾を出すまでは」
俺は短く『引き続き監視を頼む。深入りはするな』と返信し、携帯を閉じた。
今日は日曜日。ビジネスも学業も休みだが、俺にはやらねばならない「メンテナンス」がある。
人間関係と、自分自身の精神のメンテナンスだ。
俺はジャケットを羽織り、湿った街へと繰り出した。
正午過ぎの渋谷。
休日とあって、センター街は傘の花が咲き乱れ、若者たちの熱気で蒸せ返るようだ。
俺は人混みを避け、スペイン坂にあるフレッシュジューススタンドに立ち寄った。
「……『生搾りキウイジュース』を」
ビタミンCの補給。健康管理も投資家の義務だ。
鮮やかな緑色の液体を受け取り、喉を潤す。種の粒々感と鋭い酸味が、梅雨の倦怠感を吹き飛ばしてくれる。
「あら、レオ? 奇遇ね」
ふいに、横から声をかけられた。
振り返ると、デニムジャケットに白いロングスカートを合わせた、長身の女性が立っていた。
早坂涼さんだ。
ショートカットの黒髪が湿気で少し跳ねているが、それすらも彼女の飾らない魅力を引き立てている。透明感は、渋谷の雑踏の中で一際異彩を放っていた。
「……こんにちは、涼さん。お買い物ですか?」
「んー、まあね。大学のレポートで使う資料を探しに。……レオこそ、今日はデート?」
「まさか。ただの市場調査と気分転換ですよ」
「ふーん。相変わらずストイックだねぇ、ボンは」
彼女は悪戯っぽく笑い、自分の頼んだアイスティーを一口飲んだ。
ボン。彼女なりの親愛の情を込めた呼び名だ。
「……そういえば、昨日の鍋パ、楽しかったみたいだな。摩耶から聞いたよ。『レオの手料理食べ逃した!』って悔しがってた」
「急な開催でしたからね。次は涼さんも是非」
「おう、期待してるわ。……でもさ、たまには肩の力抜きなよ? お前、生き急いでるみたいに見える時があるからさ」
涼さんの瞳が、真剣な光を帯びて俺を見つめる。
元不良のトップだった彼女には、独特の嗅覚があるのだろう。俺が隠している「焦燥」や「重圧」を、敏感に感じ取っているのかもしれません。
「……善処します。涼さんの言葉は、胸に刻んでおきますよ」
「素直でよろしい。……じゃ、アタシは行くわ。またな」
彼女はヒラヒラと手を振り、颯爽と歩き出した。
その背中を見送りながら、俺はふと安らぎを感じた。
彼女のような「対等に話せる年上の友人」の存在は、俺にとって貴重な精神安定剤だ。
だが、その安らぎは、直後に鳴った携帯電話によって破られた。
着信は、天童くるみさんの担当ボディーガードからだった。
俺が裏で雇い、彼女の護衛につけているプロフェッショナルだ。
『……社長。緊急事態です。対象が、連れ去られそうです』
「場所は?」
『南青山のスタジオ裏口。黒いワンボックスカー。男は3名。……以前、社長が排除した悪徳不動産の関係者と思われます』
俺の体温が、一瞬で氷点下まで下がった。
かつてくるみさんが所属していた事務所を食い物にしようとし、俺が債権を買い取って追い出した連中だ。逆恨みか。
しかも、あろうことか俺の「所有物」に手を出そうとしている。
「……確保しろ。傷一つ付けるな。俺が着くまで、1秒たりとも動かすな」
俺はジュースをゴミ箱に投げ捨て、通りかかったタクシーを強引に止めた。
南青山の路地裏。
そこには、異様な光景が広がっていた。
ワンボックスカーを取り囲むように、黒服の屈強な男たち――俺のSP部隊が立ちはだかっている。
その中心で、チンピラ風の男たちが喚いていた。
「なんだテメェら! 俺たちはただ、このネーチャンと話しがあるだけだ!」
「どけよオラ! 轢き殺すぞ!」
そして、彼らに腕を掴まれ、青ざめた表情で震えているくるみさんの姿。
帽子もサングラスも外れ、その美しい瞳には涙が溜まっている。
「……離して! 嫌っ……!」
「うるせぇ! 社長が待ってんだよ! ちょっと顔出すだけだろ!」
男がくるみさんを無理やり車に押し込もうとした、その瞬間だった。
「……その汚い手を離せ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。
男たちが振り返る。
「あぁ? なんだガキ、すっこんでろ……」
男の一人が俺に詰め寄ろうとした。
俺は躊躇なく踏み込み、その腕を取った。
クラヴマガの関節技。手首を極め、同時に膝裏を蹴り飛ばす。
「ぐあっ!?」
男は悲鳴を上げることなく、地面に崩れ落ちた。
残りの二人がナイフを取り出そうとするが、周囲のSPたちが瞬時に制圧する。音もない早業だ。
「……ひっ、な、なんなんだテメェら……!」
リーダー格の男が、腰を抜かして後ずさる。
俺はゆっくりと彼に近づき、見下ろした。
「……君たちのボスには伝えたはずだ。『二度と表舞台には出てくるな』と。……日本語が理解できなかったのか? それとも、死に急いでいるのか?」
「さ、西園寺……!? お前が、あのガキか……!?」
「ガキではない。……貴様らの生殺与奪の権を握る、債権者だ」
俺は胸ポケットからハンカチを取り出し、くるみさんの腕を掴んでいた男の手を払い除けた。まるで汚物に触れるかのように。
「……警察には突き出さない。それでは生温い。……君たちの組織、および関連企業、親族に至るまで、徹底的に調べる。脱税、横領、恐喝。……全てを明るみに出し、社会的に抹殺する。明日から、君たちが住める場所は日本にはないと思え」
淡々と、事実としての「破滅」を宣告する。
男たちは恐怖に顔を引きつらせ、脱兎のごとく逃げ出した。SPたちがそれを追う。
路地裏に静寂が戻った。
残されたのは、震え続けるくるみさんと、俺だけ。
「……くるみさん」
俺は彼女に向き直った。
彼女は俺の顔を見た瞬間、堰を切ったように泣き出した。
「……レオ……っ! 怖かった……っ!」
彼女は俺の胸に飛び込んできた。
華奢な体が、小刻みに震えている。俺は彼女を強く抱きしめた。
普段は小悪魔のように振る舞うトップアイドルが、今はただのか弱い少女に戻っている。
「……遅くなって、すみません。もう大丈夫です」
俺の手が、彼女の背中を優しく撫でる。
その体温が、俺の冷え切った怒りを溶かしていく。
「……あんた、怒ってた……。あんな怖い顔、初めて見た……」
くるみさんが、俺のシャツを握りしめながら呟いた。
「……大切な人が傷つけられそうになったんです。怒らない男はいませんよ」
「……っ」
彼女が息を呑む気配がした。
見上げると、涙に濡れた大きな瞳が、至近距離で俺を見つめていた。
そこには、恐怖ではなく、別の熱が宿っていた。
吊り橋効果かもしれない。だが、彼女の中で俺という存在が、「頼れる弟分」から「守ってくれる男性」へと明確に切り替わった瞬間だった。
「……少し、落ち着ける場所に行きましょう」
俺はくるみさんをエスコートし、近くにある高級ホテルのラウンジへと向かった。
人目を避けるため、個室を確保する。
温かいハーブティーを飲んで、ようやく彼女の震えが止まった。
「……ありがと。また助けられちゃったわね」
「当然のことをしたまでです。……今日はもう、家まで送ります」
「ううん。……もう少し、一緒にいて。一人になるの、嫌だから」
彼女は上目遣いで俺を見た。その甘えるような表情は、計算ではない本心からのものだ。
俺は小さく頷き、彼女が落ち着くまで付き添った。
くるみさんを安全に送り届けた後、俺は吉祥寺へと向かった。
休む暇はない。今回の件、単なる逆恨みにしてはタイミングが良すぎる。誰かが裏で糸を引いている可能性がある。
向かった先は、ハーモニカ横丁の奥にある古びた玩具店『時屋』。
店主は、表向きはレトロ玩具のコレクターだが、裏では独自のルートを持つ情報屋だ。
「……いらっしゃい。今日は何をお探しで? ブリキのロボット? それとも……『噂』かな?」
店主の老人が、虫眼鏡越しにニヤリと笑う。
「後者だ。……最近、都内の半グレや不良グループを扇動している『黒幕』について、心当たりはないか?」
「ほう。……お代は?」
「『ポケモンカード』の初期版未開封ボックス。……20年後には家が建つ価値になる」
「……商談成立だ」
老人は声を潜め、いくつかの名前と、奇妙な組織の動きについて語った。
確証はないが、点と点が繋がりそうな予感がする。
俺は礼を言い、店を後にした。
夕刻。
俺は渋谷に戻り、宮島寅雄と合流した。
場所は、道玄坂の裏手にある純喫茶『ルノアール』。
昭和の香りが色濃く残る、紫煙とコーヒーの匂いが混ざり合う空間だ。
「……ふむ。きな臭い話だな、少年」
宮島は、熱いおしぼりで顔を拭きながら渋い顔をした。
「政界の裏でも、妙な金の動きがある。ITバブルに便乗した、新興宗教じみた投資グループだ。……若者の不安を煽り、搾取する。昔からある手口だが、最近はネットを使っている分、タチが悪い」
「……草野が言っていた『黒幕』と繋がっている可能性がありますね」
「ああ。私も独自のルートで洗ってみる。……少年、君も気をつけろよ。出る杭は打たれるのが世の常だ」
「打たれる前に、杭ごと引っこ抜きますよ」
俺たちは苦いブレンドコーヒーを飲み干し、店を出た。
宮島の背中は、かつてのような悲壮感はなく、戦う男の覇気に満ちていた。
帰宅後。
様々な思惑と緊張が交錯した一日をリセットするため、俺はキッチンに立った。
今日の夕食は『冷やし中華』だ。
ただし、そこらのコンビニで売っているような代物ではない。
「……タレが命だ」
まずはタレ作り。
鶏ガラスープをベースに、丸大豆醤油、米酢、そして黒酢をブレンドする。
砂糖ではなく、ハチミツと少量のリンゴ果汁で甘みをつけ、最後にたっぷりの練り胡麻と、自家製のラー油を加える。
酸味の角が取れた、まろやかでコクのある極上のゴマ酢ダレだ。
麺は、北海道産の小麦を使った生麺。
たっぷりの湯で茹で上げ、氷水で一気に締める。
手がかじかむほどの冷水で洗うことで、麺のコシと艶が生まれる。
具材は「五目」どころではない。
自家製のチャーシュー、錦糸卵、きゅうり、トマト、そして蒸し鶏。さらに、高級食材である『クラゲの冷製』と、茹でたての海老を乗せる。
仕上げに、白髪ネギと糸唐辛子を天盛りに。
サイドメニューは『春巻き』。
タケノコ、椎茸、豚肉をトロトロの餡にし、皮で包んでパリッと揚げる。
揚げたての皮の音と、中の熱々の餡のコントラストがたまらない。
デザートは『杏仁豆腐』。
杏仁霜をたっぷりと使い、生クリームでコクを出した、濃厚で滑らかなタイプだ。上にはクコの実と、季節のフルーツを添える。
飲み物は、アルコールではなく『最高級麦茶』。
六条大麦を昔ながらの砂釜焙煎で仕上げたもので、香ばしさが段違いだ。
よく冷えた麦茶は、冷やし中華の酸味と相性抜群だ。
「いただきます」
冷やし中華を一口啜る。
冷たく締まった麺が喉を滑り落ち、ゴマ酢ダレの濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。
チャーシューの脂と、きゅうりの瑞々しさ。クラゲのコリコリとした食感。
全ての具材が、タレという指揮者の元で完璧なハーモニーを奏でている。
春巻きを齧れば、パリッ、ジュワッという至福の音。
麦茶で口をさっぱりさせ、また麺へ。
無限のループだ。
「……ふぅ。生き返る」
完食し、杏仁豆腐の甘みに癒やされていると、携帯電話が鳴った。
城戸隼人からのメールだ。
『件名:暇人へ おい西園寺! 今からダーツ行かね? 昨日のリベンジさせろ! 寝かせねーぞ!』
文面から溢れ出る、底抜けの明るさ。
今日一日のドロドロとした裏社会の空気が、一瞬で吹き飛んだ気がした。
「……まったく。元気な奴だ」
俺は苦笑し、返信を打った。




