第64話 奇人たちの饗宴と白濁のスープ
昨日発表された梅雨入り宣言を裏付けるように、東京の空は朝から鉛色の雲に覆われ、しとしとと冷たい雨を落としていた。
湿度が高く、肌寒い。こんな日は、本来なら温かいベッドで読書でも決め込みたいところだが、今日の俺には、ホストとしての重大な任務があった。
「……アク取りはこれで3回目か。順調だな」
『グラン・エターナル麻布』の広大なアイランドキッチン。
俺は、業務用寸胴鍋の前で腕組みをし、グツグツと煮えるスープの様子を検分していた。
鍋の中身は、大量の鶏ガラとモミジ。
今日のメインディッシュは『博多風水炊き』だ。
水炊きと言っても、単に水で煮るだけの簡素な鍋ではない。鶏の骨から髄液が溶け出し、コラーゲンが乳化して白濁するまで、強火で数時間煮込み続ける本格派だ。
「……下処理の甘さは味の濁りに直結する。投資と同じだ」
血合いを丁寧に洗い流し、一度湯通ししてから本煮込みに入る。臭みのない、クリーミーで濃厚な「鶏白湯」を作るためには、この地味な工程こそが最も重要なのだ。
それにしても、今日のゲストの組み合わせは、我ながらカオスと言わざるをえない。
1人目は、マブダチの城戸隼人。
「腹減った! 肉食わせろ!」というシンプルな欲求の塊だ。
2人目は、トップアイドルの天童くるみさん。
「最近肌の調子が気になるから、コラーゲン摂らせなさいよ!」という、美意識と食欲が同居した女王様。
そして3人目は、俺が雇用した画家の卵、白鳥恒一。
「……美の女神が降りてこない。空腹で色彩が霞んで見える……」と、相変わらず生命の危機に瀕している変人。
ヤンキー、アイドル、芸術家、そして中身41歳の実業家。
何の冗談かと思うメンツだが、彼らには共通点がある。
全員、俺の「食」という餌付けによって繋がった、愛すべき共犯者たちだ。
ピンポーン。
重厚なチャイムが鳴り響く。
どうやら、腹を空かせた猛獣たちが到着したようだ。
「お邪魔しまーす! ……うっわ、いい匂い! 玄関まで鶏の匂いしてるぞ!」
一番乗りでドカドカと上がり込んできたのは、やはり隼人だった。
私服は相変わらず派手なスカジャンだが、手にはコンビニ袋を提げている。
「おう西園寺! 飲み物買ってきたぜ。コーラとお茶、あとデザートのアイスな」
「気が利くな、城戸。冷蔵庫に入れておいてくれ」
続いて、大きなサングラスと帽子で完全変装した小柄な女性が入ってきた。
「ちょっと城戸くん! 靴揃えなさいよ、育ちが出るわよ」
「うっせーな! お前こそ家ん中でサングラスすんなよ、芸能人ぶって」
「ぶってるんじゃなくて芸能人なの!」
天童くるみさんだ。変装を解くと、不満げに頬を膨らませた素顔が現れる。
圧倒的な小顔と猫のような大きな瞳。オフの日でもそのオーラは隠しきれていない。
「……ふふ。相変わらず仲がいいですね」
「良くないわよ! ……あ、レオ。これ差し入れ。デパ地下で買ってきた高級明太子」
「博多繋がりですか。素晴らしいセンスです」
俺が包みを受け取ると、最後にふらりと、幽霊のように頼りない足取りの少年が現れた。
「……香る。これは、生命の根源たる『白』の香りだ……」
白鳥恒一だ。
今日の彼は、どこで手に入れたのか分からない、絵の具で汚れたベルベットのジャケットを羽織っている。美少年なのだが、頬がこけ、目は虚ろだ。
「……白鳥くん。生きていましたか」
「ああ、西園寺。……君の家の座標を目指して歩いてきた。途中、雨に濡れた紫陽花があまりに美しくて、スケッチしていたら気絶しかけたよ」
「……意味わかんねぇ」
隼人が呆れ顔で呟く。
ともあれ、役者は揃った。
俺は彼らをリビングのローテーブルへと案内した。
「すっげぇ……。相変わらず広いな、お前の家」
「ねえレオ、あの絵……シャガールじゃない? 本物?」
「レプリカですよ。……さて、準備はできています。始めましょうか」
俺はカセットコンロの上に土鍋をセットした。
蓋を開ける。
もわり、と立ち上る湯気。
そこには、牛乳のように白く濁り、とろりとした粘度を持った極上の鶏スープが満たされていた。
「うおおお! なんだこれ! 豚骨ラーメンの汁か!?」
「いいえ。鶏と水だけで炊き出した、純粋なコラーゲンの塊ですよ」
「コラーゲン……! 最高じゃない!」
くるみさんが目を輝かせる。
白鳥は、スープの水面をじっと見つめ、指でフレームを作った。
「……美しい。カオスでありながら、コスモスを感じる白だ……」
「食べる前から芸術論はやめてくれ。……まずは、スープだけを味わってください」
俺はそれぞれの器に、少量の塩と刻んだ万能ネギを入れ、そこに熱々のスープを注いだ。
博多水炊きの流儀。まずは具を入れる前の、純粋なスープの味を楽しむのだ。
「いただきます!」
三人同時にスープを口にする。
「……っ!!」
隼人が目を見開いた。
くるみさんが、ほう、とため息をつく。
白鳥が、天を仰いで震え出した。
「……うめぇ。なんだこれ、マジで鶏だけかよ!? 濃厚すぎて唇がくっつくぞ!」
「んん~っ! 染み渡るぅ……! エステ10回分より効きそう!」
「……感じる。鶏たちの魂が、僕の細胞一つ一つに浸透していく……。これは食事ではない、融合だ……」
三者三様のリアクションだが、どうやら合格点のようだ。
41歳の舌と記憶で再現した、老舗料亭の味。
この濃厚な旨味こそが、今日の宴のベースとなる。
「では、肉を入れます」
俺は、あらかじめ下茹でしておいた骨付きの鶏モモ肉を投入した。
使用しているのは、福岡のブランド鶏『華味鳥』。ピンク色の美しい肉質が、白濁スープの中で踊る。
「野菜はまだです。まずは肉を堪能してください」
特製のポン酢――橙の果汁をたっぷりと絞った自家製だ――を用意する。薬味は『柚子胡椒』と『紅葉おろし』。
「……熱っ! ……うまぁ!! 肉、ホロホロじゃん!」
隼人が骨付き肉にかぶりつく。長時間煮込まれた肉は、箸で触れただけで骨から外れるほど柔らかい。
「ポン酢が爽やか! 濃厚なスープと合うわね~!」
くるみさんも、上品ながらも豪快なペースで肉を平らげていく。
その横で、白鳥が不意に箸を止め、じっとくるみさんを見つめ始めた。
「……ちょっと。なによ」
くるみさんが居心地悪そうに身を引く。
白鳥は真剣な眼差しで、彼女の顔の周りで指を動かした。
「……君の骨格は、非常に興味深い。特に下顎から首筋にかけてのライン。……猫科の肉食獣を思わせるしなやかさと、傲慢なまでの自意識が、絶妙なバランスで共存している」
「はぁ!? 傲慢ってなによ! 失礼ねこの変人!」
「褒めているんだ。……その瞳の奥にある『飢え』は、僕の創作意欲を刺激する。……君、モデルにならないか?」
「お断りよ! あたしはアイドルなの! 事務所通しなさいよ!」
「アイドル……? 偶像か。なるほど、虚像を演じることで実像を保っているのか。……実に唆る」
「レオ! なんなのコイツ! 警察呼んで!」
「まあまあ、くるみさん。彼は無害ですよ。……ただ、美に対する執着が常軌を逸しているだけで」
俺は苦笑しながら、白鳥の皿に鶏肉を追加した。
「白鳥くん、口を動かしなさい。食べないと死にますよ」
「……む。そうだった。まずは生命維持が先決か」
白鳥は素直に肉を食べ始めた。
隼人が呆れながらコーラを煽る。
「お前ら、キャラ濃すぎだろ……。俺が一番まともに見えるってどういうことだよ」
「城戸がまとも枠なのは、この部屋限定の珍事だな」
「うるせぇ!」
笑いが弾ける。
外の冷たい雨音も、この部屋の熱気には届かない。
俺はつくねを鍋に落とし始めた。軟骨を混ぜ込んだ特製鶏つくねだ。
「次は野菜です。キャベツ、水菜、エノキ、長ネギ」
水炊きには白菜ではなくキャベツを使うのが博多流だ。キャベツの甘みがスープに溶け出し、さらに深みが増す。
「野菜も美味いなー。……なんか、野菜食うと健康になった気がするわ」
「気のせいではありませんよ。ビタミンと食物繊維、そしてタンパク質。完全食です」
「ねえレオ。……あんた、これ毎日食べてるの?」
くるみさんが、ふと真面目な顔で聞いてきた。
「まさか。普段はもっと質素ですよ」
「ふうん。……なんかさ、あんた見てると、人生楽しんでるなーって思うわ。勉強もできて、金もあって、料理も上手くて……。悩みとかないわけ?」
彼女の言葉に、隼人と白鳥も手を止めて俺を見た。
悩み、か。
41歳の精神を持ちながら、15歳の肉体で生きる違和感。
未来を知っているがゆえの孤独。
背負っているものは少なくない。
だが、俺は鍋の湯気越しに彼らを見回し、肩を竦めてみせた。
「……悩みがない人間などいませんよ。ただ、美味しいものを食べている間だけは、それを忘れることにしているだけです」
「……ふっ、キザなこと言っちゃって」
くるみさんは笑い、柚子胡椒をたっぷりとつけたつくねを口に運んだ。
「でも、分かるかも。……あたしも今、すっごく幸せだもん」
「僕もだ。……胃袋が満たされると、世界が色彩を取り戻していくのを感じる」
「俺も俺も! ……西園寺、肉のおかわりある?」
「ありますよ。まだ2キロ残っています」
「っしゃあ!!」
鍋の中身が空になり、残ったのは黄金色に輝く濃厚なスープだけとなった。
野菜と肉の出汁が極限まで凝縮された、最強のスープだ。
「〆といきましょう」
俺は一度鍋を火にかけ、沸騰させたところに、水で洗ってぬめりを取ったご飯を投入した。
溶き卵を回し入れ、半熟になったところで火を止め、万能ネギと刻み海苔を散らす。
『極上鶏白湯雑炊』の完成だ。
「……これは、反則だろ」
隼人が呻くように言い、レンゲで雑炊を掬う。
「……美味い。なんだこれ、優しすぎる……」
「んんっ……! 溶ける……!」
濃厚なのに、くどくない。
卵の優しさが全てを包み込み、五臓六腑に染み渡っていく。
満腹のはずなのに、スルスルと胃に収まっていく魔法の食べ物。
「……ごちそうさまでした。……悔しいけど、今まで食べた鍋で一番美味しかったわ」
くるみさんが完食し、満足げにソファに背を預けた。
「僕もだ。……このスープの色、いつかキャンバスに再現してみたい」
白鳥もまた、珍しく満ち足りた表情をしている。
「おう西園寺! 次は何やる? ゲームか?」
隼人は既にコントローラーを手に取っている。
俺はコーヒーを淹れる準備をしながら、窓の外を見た。
雨はまだ降り続いている。
だが、この部屋の中は暖かく、賑やかだ。
昨日の、神宮寺レイとの冷たい対峙。
そして、マナの絶望。
それらの記憶が消えたわけではない。
来週からはまた、それぞれの戦いが待っている。
くるみさんは芸能界という戦場で。
白鳥は芸術という荒野で。
隼人は……まあ、部活と勉強で。
そして俺は、ビジネスと、彼らの未来を守るための暗躍を続ける。
だが、今この瞬間だけは。
ただの高校生として、友人と鍋を囲む時間を楽しんでも、罰は当たらないだろう。




