第63話 偽りの王子と深紅のキャベツ
梅雨入り宣言が出されたばかりの東京は、朝から厚い雲に覆われ、湿度を含んだ生温かい風が吹いていた。
私立桜花学園の社会科見学2日目。
本日は都内の班別自由行動となっている。多くの生徒が渋谷や原宿へ繰り出す中、俺は、上野恩賜公園の緑深い並木道を歩いていた。
目的地は『国立西洋美術館』。
ル・コルビュジエが設計した本館自体が芸術作品であり、モネやロダンなどの松方コレクションを収蔵する、日本有数の美の殿堂だ。
喧騒を離れ、静寂の中で思索に耽るには最適な場所――のはずだった。
「……騒がしいな」
美術館の前庭には、普段の静謐さとは無縁の黒山の人だかりができていた。
テレビカメラの放列と、黄色い歓声を上げる女性たちの群れ。
その中心に、一人の青年が立っていた。
「ご安心ください。失われた『睡蓮』の習作は、必ず僕が見つけ出してみせますよ。……芸術を愛する、貴女の笑顔のためにね」
テレビカメラに向かって、甘いマスクを綻ばせる青年。
身長180cmを超える長身に、完璧に仕立てられたスリーピーススーツ。色素の薄い茶髪を風になびかせ、その仕草一つ一つが洗練された俳優のように優雅だ。
そして特筆すべきは、初夏だというのに両手に着用された、滑らかな革製の手袋。
神宮寺レイ。26歳。
「探偵界の貴公子」「平成のシャーロック」として、メディアに引っ張りだこの私立探偵だ。
最近、ワイドショーで彼の特集を見ない日はない。難事件を鮮やかに解決し、被害者に寄り添う姿勢から「癒やし系探偵」として主婦層から絶大な支持を得ている。
(……実物は初めて見るが、随分と芝居がかった男だな)
俺は冷めた目でその光景を眺めていた。
41歳の精神を持つ俺からすれば、彼の振る舞いは計算され尽くした「演出」にしか見えない。
その時、ふと彼と視線が合った気がした。
群衆の中にいる俺を、彼のアイスブルーに近い瞳が正確に射抜く。
彼はカメラに向かって微笑んだまま、群衆をかき分け、真っ直ぐにこちらへ歩いてきた。
「……やあ。君も、『美』の探求者かな?」
至近距離で見ると、その肌は陶器のように滑らかで、作り物めいた美しさがあった。
周囲の女性たちが「えっ、誰あの美少年?」「神宮寺様のお知り合い?」とざわめく。
「……初めまして、神宮寺さん。西園寺玲央と申します。ただの通りすがりの学生ですよ」
俺は慇懃に会釈をした。
神宮寺レイは、俺の名前を聞いた瞬間、微かに眉を動かした。
「西園寺……。ああ、噂の『若き投資家』くんか。君のことは耳にしているよ」
彼は手袋をしたままの手を差し出してきた。
握手を求められている。だが、その瞳の奥には、友愛とは程遠い、冷徹な計算の光が宿っていた。
「少し、時間を貰えるかな? ……君とは、一度ゆっくり話してみたかったんだ。『ロジック』の通じる相手としてね」
表向きは爽やかな誘い。だが、それは拒否権のない強制力を帯びていた。
面白そうだ。俺はこの「偽りの王子様」の手を取ることにした。
俺たちが向かったのは、美術館に併設されたカフェ『すいれん』ではなく、公園を出て少し歩いた先にある老舗ホテルの一室だった。
予約されていた個室のラウンジ。
神宮寺レイは、上着を脱ぐこともなく、ソファに深く腰掛けた。
「……単刀直入に言おう。君、この辺りの土地開発にも噛んでいるそうだね?」
人払いを済ませた途端、彼の口調から「王子様」の甘さが消え失せた。
代わりに現れたのは、温度のない、無機質な合理主義者の顔だ。
「噛んでいる、とは人聞きが悪いですね。将来有望なエリアの不動産を、適正価格で取得しているだけです」
「ふん。……君のやり方は合理的だ。感情論を排し、数字と確率だけで未来を予測する。僕と同じ匂いがするよ」
彼は革手袋をした指先で、テーブルの上の角砂糖を弄んだ。
「人間というのは愚かだ。感情、情愛、義理……そんな不確定要素に行動を支配されている。僕が解決した事件の犯人たちもそうだった。愛だの憎しみだの、くだらない動機で破滅していく。……僕はね、そういう非合理的な存在が反吐が出るほど嫌いなんだよ」
「……それで、手袋を?」
「ああ。愚か者の菌に触れたくないからね」
彼は薄く笑った。その笑顔は、テレビで見せるものとは似ても似つかない、氷のように冷たい嘲笑だった。
徹底的な合理主義。潔癖なまでの論理至上主義。
なるほど、これが本性か。
「それで、僕に何の用ですか?」
「警告さ。……君は最近、目立ちすぎている。学園の不祥事、芸能事務所の買収、そして裏社会との接触。……僕の『計算式』において、君という変数は少々邪魔なんだ」
彼は身を乗り出し、俺の目を覗き込んだ。
「君のやっていることは『遊び』だ。だが、僕は『仕事』としてこの街の秩序を管理している。……あまり調子に乗らないことだね、西園寺くん。君の完璧なロジックが破綻する瞬間を、僕は楽しみにしているよ」
それは明確な宣戦布告だった。
俺はコーヒーを一口啜り、静かにカップを置いた。
「忠告、感謝します。ですが、僕の変数は貴方の計算式には収まりませんよ。……僕が見ているのは、貴方が軽蔑する『人間の感情』も含めた、もっと大きな市場ですから」
「……ほう。面白い」
神宮寺レイは目を細めた。
互いに譲れない一線がある。
俺たちは笑顔で握手を交わし、決裂した。
彼とはいずれ、ビジネスか、あるいは別の形で対立することになるだろう。
夕刻。
渋谷駅前のハチ公前広場は、週末を待ちわびる若者たちで溢れかえっていた。
俺は帰宅の途につき、駅前の喧騒を避けるように歩いていたが、ふと見覚えのある後ろ姿を見つけた。
桜木マナだ。
彼女は柱の陰で、誰かを待っているようだった。その表情には、不安と、隠しきれない微かな期待が滲んでいる。
(……誰かと待ち合わせか?)
少し離れた場所から様子を窺う。
やがて、人混みをかき分けて現れたのは、日向翔太だった。
「ようマナ! 待たせたな!」
「ううん、大丈夫。……どうしたの、翔太? 急に呼び出したりして……」
マナの声が少し上擦っている。
幼馴染からの突然の呼び出し。場所は金曜日の渋谷。
彼女の中で「もしかして、告白?」という淡い期待が芽生えても不思議ではない。翔太との関係に失望しつつも、長年の想いはそう簡単には消えないものだ。
だが、翔太の口から出た言葉は、そんな乙女心を粉々に粉砕するものだった。
「いやー、頼みがあってさ! ……お前、生徒会副会長の霧島先輩と仲良くなったんだろ? あの美人な先輩!」
「……え? セイラちゃんのこと?」
「そうそう! いやー、あんな美人が先輩にいるとかマジで役得だよな。でさ、マナ。お前から霧島先輩の連絡先、聞いてきてくんない?」
「…………は?」
マナの動きが止まった。
時が止まったかのように、彼女の瞳から光が失われていく。
「連絡先……? 翔太が、セイラちゃんの?」
「おう! いきなり俺が聞いたら警戒されるかもしんねーじゃん? でもマナなら上手く聞き出せるだろ? 『幼馴染がファンなんですぅ』とか言ってさ!」
翔太は悪びれもせず、ヘラヘラと笑っている。
自分の頼みがどれほど残酷で、無神経なものか、1ミリも理解していない。
マナを利用して、マナの友人に近づこうとする。しかも「お前なら警戒されない」という、マナを完全に「無害な仲介役」としか見ていない発言。
「……嫌よ」
「は? なんでだよ。減るもんじゃねーだろ。頼むよ~、一生のお願い!」
「嫌! ……私、帰る」
マナは顔を伏せ、逃げるように走り出した。
「おい、待てよマナ! ……ちぇっ、なんだよアイツ。ケチだなー」
取り残された翔太は、不満げに舌打ちをして髪を掻きむしった。
俺は、走り去るマナの背中と、相変わらず自分のことしか考えていない翔太を交互に見やり、深く嘆息した。
(……決定打だな)
今の言葉で、マナの心に残っていた最後の「幼馴染への情」は凍りついたはずだ。
俺が手を貸すまでもない。翔太は自らの手で、マナとの絆を完全に断ち切ったのだ。
帰宅後。
俺は『グラン・エターナル麻布』の広大なキッチンに立っていた。
今日の夕食のテーマは「癒やしと再生」だ。
傷ついた心には、温かく、そして手のかかった料理が一番効く。もっとも、これを食べるのは俺一人だが、料理という行為そのものが、俺自身の精神安定剤でもある。
メニューは『最高級ロールキャベツのトマト煮込み』。
まずはキャベツだ。愛知県産の甘みの強い冬キャベツを使用する。
芯をくり抜き、丸ごと茹でて一枚ずつ丁寧に剥がす。葉の固い軸は削ぎ切りにして、みじん切りにしてタネに混ぜ込む。無駄は出さない。
タネには、合挽き肉ではなく、国産黒毛和牛の切り落としを包丁で叩いてミンチにしたものを使う。そこに、あめ色になるまで炒めた玉ねぎ、パン粉、牛乳、卵、ナツメグ、そして先ほどのキャベツの軸を加える。
粘りが出るまで手早く練り、空気を抜いて俵型に成形する。
ここからが職人技だ。
キャベツの葉を広げ、タネを置く。手前から巻き、左右を折り込み、最後までクルクルと巻く。巻き終わりは爪楊枝を使わず、葉の端を中に押し込んで固定する。これで煮込んでも崩れない。
鍋に隙間なくロールキャベツを並べ、そこに完熟トマトを湯むきして裏ごしした特製ソースを注ぎ込む。
コンソメ、ローリエ、そして隠し味に味噌とハチミツを少々。
弱火でじっくり、コトコトと煮込むこと40分。
その間に、サイドメニューの準備だ。
北海道産のスイートコーンを、たっぷりの発酵バターでソテーする『コーンバター』。
醤油を数滴垂らし、焦がしバターの香りを立たせる。シンプルだが、素材の力が問われる一品だ。
パンは、広尾の有名ブーランジェリーで焼きたてを買ってきた『バゲット・トラディション』。
皮はバリッと香ばしく、中はモチモチとして小麦の香りが強い。
「……よし」
鍋の蓋を開けると、ふわりとトマトと肉の濃厚な香りが立ち上った。
キャベツはとろけるように柔らかくなり、ソースを含んで艶やかに輝いている。
ダイニングテーブルに料理を運び、セラーから一本のワインを取り出した。
『シャトー・マルゴー 1983』。
本来なら未成年の俺が口にすべきではないが、自宅というプライベートな空間における、料理を引き立てるための「ソース」の一種として解釈する。
グラスに注がれた深紅の液体は、照明を受けてルビーのように妖しく煌めいた。
「いただきます」
ナイフを入れると、ロールキャベツは抵抗なくスッと切れた。
断面からは肉汁が溢れ出し、トマトソースと混ざり合う。
口に運ぶと、キャベツの甘みと和牛の旨味が爆発した。トマトの酸味が全体を引き締め、決して重くならない。
そこに、マルゴーを一口。
ベルベットのような舌触りと、花のような芳醇な香り。
濃厚な肉料理の余韻を、優雅に洗い流してくれる。
「……悪くない」
独りごちて、俺は窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。
無数の光の粒。その一つ一つに、誰かの生活があり、感情がある。
マナは今頃、部屋で泣いているかもしれない。
神宮寺レイは、冷たい部屋で次の獲物を探しているかもしれない。
だが、俺はこの温かい食卓で、明日への活力を蓄える。
感情も論理も、全てを飲み込んで、俺は俺の道を行く。




