第62話 吉祥寺の夜と大人の放課後
この日は、私立桜花学園の社会科見学初日だった。
1年A組の行き先は、上野の国立科学博物館。
恐竜の化石や、日本の宇宙開発の歴史。知的好奇心を刺激される展示の数々は、15歳の肉体を持つ生徒たちにとっては新鮮な驚きだっただろうが、41歳の記憶を持つ俺にとっては、既知の情報の確認作業に過ぎなかった。
適度にレポート用のメモを取り、優等生としての役割を無難にこなした後、現地解散となった。
夕刻。
俺は上野駅からJR山手線に乗り込み、神田で中央線快速に乗り換えた。
目指すは、吉祥寺。
車窓の外には、梅雨入り直前の湿気を孕んだ東京の街並みが流れていく。
空は、茜色と群青色が混じり合う複雑なグラデーションを描いていた。
オレンジ色の車体でお馴染みの中央線は、サラリーマンや学生たちを飲み込みながら、西へとひた走る。
御茶ノ水付近で神田川を越える際、水面に映るビルの灯りが揺らめくのが見えた。
新宿の高層ビル群が巨大な墓標のようにそびえ立ち、その足元には欲望の光が点滅している。
中野、高円寺、阿佐ヶ谷。
駅を通過するごとに、車内の空気は少しずつ変化していく。
都心の張り詰めたビジネスの緊張感が薄れ、生活感と、どこか退廃的なサブカルチャーの匂いが混じり始める。
1999年の東京は、世紀末特有の浮遊感と、新しい時代への期待、そして漠然とした不安がない交ぜになった、独特の熱気を帯びている。
窓ガラスに額をつけ、流れる景色を眺める。
線路沿いに密集するアパートの窓、そこに灯る生活の明かり。
古びた商店街のアーケード、色褪せた看板。
それら一つ一つが、この時代を構成する愛おしいピースだ。
吉祥寺駅に到着すると、ホームには家路を急ぐ人々と、これから夜の街へ繰り出す若者たちが交錯していた。
雑踏のノイズさえも、今日は心地よいBGMのように聞こえる。
駅前の雑踏を抜け、俺はいつものダーツ&ビリヤード場『バグース』へと向かった。
薄暗い店内に入ると、奥のソファ席に見慣れたメンバーがたむろしていた。
城戸隼人、天童くるみ、そして白鳥恒一だ。
「おーい西園寺! 遅えぞ!」
隼人が手を振る。テーブルの上には、フライドポテトと大盛りのバスケット、そして色とりどりのドリンクが並んでいた。
「悪かったな。電車の乗り継ぎが悪くて」
「いいってことよ。……それより見ろよこれ! 今日の戦利品!」
隼人がリュックから取り出したのは、上野動物園のパンダのぬいぐるみだった。
「……お前、科学博物館じゃなかったのか? なぜ動物園の土産を?」
「いやー、自由時間のあとにちょっと寄っちゃってさ! 妹にな、土産買ってやろうと思って」
「へぇ、意外といいお兄ちゃんしてるじゃない。見直したわ」
くるみさんがストローを回しながら茶化す。
今日の彼女は変装用の伊達メガネをしているが、リラックスした表情だ。
「うるせーよ! お前こそ、その変なキーホルダー何だよ」
「変じゃないわよ! 『宇宙食』のストラップ! レアなんだから!」
「食えねーもんぶら下げて何が楽しいんだか……」
「ロマンがないわね、ロマンが! ねー、白鳥くん?」
話を振られた白鳥は、スケッチブックから顔を上げずに答えた。
「……アンモナイトの螺旋構造には、宇宙の真理が隠されている。黄金比だ。……このポテトのカーブもまた、美の一端を担っていると言える」
「ポテトは食うもんだろ! ほら、冷めるぞ」
隼人が白鳥の口にポテトを突っ込む。
他愛のない会話。
中身のない、生産性ゼロの時間。
だが、毒のないその空間は、俺にとって何よりの安らぎだった。
ビジネスの駆け引きも、将来の不安も、ここにはない。
ただ、1999年を生きる若者たちの、等身大の日常があるだけだ。
俺はアイスコーヒーを一口飲み、彼らの輪に加わった。
一時間ほどダーツを楽しんだ後、俺はトイレに立つために席を外した。
薄暗い廊下を歩き、ラウンジスペースの近くを通りかかった時だった。
壁際のソファに、一人の女性が座っているのに気づいた。
足を組み、手元の携帯電話を退屈そうに眺めている。
柚木沙耶さんだ。
今日の彼女は、黒のノースリーブニットに、流行りのワイドパンツを合わせている。
全身を黒で統一したマニッシュな装いだが、それがかえって彼女の白く華奢な二の腕や、首筋のラインを際立たせている。
アンニュイなショートボブが、店内の紫煙の中で揺れている。
★★★★★★★★★★★
彼女はふと携帯を閉じ、深いため息をついた。
(……なんで、私こんなところにいるんだろ)
沙耶は心の中で自嘲した。
大学の講義が終わり、真っ直ぐ帰ればいいものを、わざわざ吉祥寺で途中下車してしまった。
黒のノースリーブを選んだのは、誰のためでもない、自分のためだと言い聞かせている。
けれど、心のどこかで期待している自分がいる。
もしかしたら、あの生意気な「少年社長」に会えるかもしれない、と。
15歳の男の子相手に、何をムキになっているのか。
舞の親友として、彼を値踏みする立場だったはずなのに、いつの間にか彼の視線を意識している。
子供扱いされたくない。でも、甘えたい。
そんな矛盾した感情を隠すように、彼女は強めの香水を纏い、大人の女の鎧を着込む。
火のついていないタバコを指で弄びながら、彼女は出口の方を盗み見た。
もし会えたら、なんて言おう。
「奇遇ね」と笑って流すか、それとも「寂しかった?」とからかうか。
そんなシミュレーションを繰り返す自分が、どうしようもなく滑稽で、そして少しだけ愛おしかった。
★★★★★★★★★★★
「……柚木さん」
不意に名前を呼ばれ、沙耶さんは顔を上げた。
そこに俺が立っているのを認めると、彼女は驚きに目を見開き、次いでバツが悪そうに視線を逸らした。
「……あら。社長さん」
「奇遇ですね。……誰かとお待ち合わせですか?」
「ううん。……ちょっと時間潰し。大学の友達と会う予定だったんだけど、ドタキャンされちゃって」
彼女は嘘をついた。
その嘘が、彼女なりのプライドを守るための盾であることを、俺は察した。
「それは災難でしたね。……もしお時間があるなら、少し付き合っていただけませんか?」
「え?」
「奥に友人がいます。……少し賑やかすぎますが、退屈はしないと思いますよ」
俺が提案すると、彼女は少し考え、それから悪戯っぽく笑った。
その表情は、先ほどの憂いを帯びたものとは違い、年相応の少女のような輝きを帯びていた。
「……いいわね。高校生の遊びに混ぜてもらうのも、悪くないかも」
俺は彼女をエスコートし、隼人たちのいるテーブルへと戻った。
突然の美人の登場に、場がどよめく。
「うおっ、美人なお姉さん!」
「レオ、誰よその人? ……なんか、モデルみたい」
「美しい……! その憂いを帯びた瞳、まさに『都会の孤独』を体現している!」
三者三様の反応に、沙耶さんは吹き出した。
「ふふ、面白い子たちね。……初めまして、柚木沙耶よ。よろしくね」
彼女が加わったことで、場の空気が少し大人びたものに変わった。
隼人は張り切っていいところを見せようとし、くるみさんは同性としての対抗心を燃やし、白鳥はひたすらデッサンに励む。
沙耶さんは、そんな彼らを上手く転がしながら、ダーツを楽しんでいた。
意外にも筋が良い。
「……やるな、柚木さん」
「伊達に大学生やってないわよ。サークルで鍛えられたからね」
彼女はフォームを崩さず、矢を放った。
トリプル20。
見事なハイトンだ。
「すげぇ! 姉ちゃん上手いな!」
「ふふ、ありがと。……でも、君には敵わないわね、社長さん」
彼女は俺のスコアを見て、肩をすくめた。
その瞳には、俺への興味と、信頼の色が宿っている。
俺たちは時間を忘れ、ゲームに没頭した。
年齢も立場も違う5人が、ただの遊び仲間として笑い合う。
その中心に俺がいる。
かつての人生では得られなかった、損得勘定のない繋がり。
それが何よりも愛おしく感じられた。
帰り際、店の外で彼女と二人になった。
夜風が心地よい。
吉祥寺の雑踏も、夜更けと共に少しずつ静けさを取り戻しつつある。
「……ねえ、西園寺くん」
「はい?」
「君って、本当に不思議ね。……大人びてるのに、ちゃんと子供の時間も大切にしてる」
「……バランスですよ。どちらかに偏ると、歪みが生まれますから」
「ふふ、またそれ? 理屈っぽいんだから」
彼女は微笑み、俺の肩を軽く叩いた。
その手つきは、以前よりもずっと自然で、親密だった。




