第61話 三角関数の接近戦と吉祥寺のドーナツ
6月9日、水曜日。
梅雨入りが発表され、朝からしとしとと雨が降る一日。湿った空気が校舎内に籠もっている。
2限目、世界史。
担当教師は、黒板に第一次世界大戦後のヨーロッパ情勢を書き連ねながら、不意にチョークを止めた。
「……さて。ヴェルサイユ条約におけるドイツへの賠償金請求が、その後の世界経済、ひいては第二次世界大戦の遠因となったメカニズムについて、ケインズの『平和の経済的帰結』の視点から説明できる者はいるか?」
教室が静まり返る。
単なる歴史的事実ではなく、経済学的な視点からの因果関係を問う難問だ。
教師の視線が、期待を込めて俺の席に向けられた。
「西園寺。……いけるか?」
俺は、手元の洋書から顔を上げ、静かに席を立った。
「はい。ケインズは、過酷な賠償金がドイツ経済を破壊し、購買力を奪うことで欧州全体の復興を妨げると警告しました。実際、ハイパーインフレによるマルクの崩壊はドイツ国民の困窮を招き、それがナチズムの台頭を許す土壌となりました。経済的合理性を欠いた懲罰的な講和が、新たな火種を生んだ典型例です」
俺は淀みなく答えた。
教師は深く頷き、「完璧だ」と短く評した。
周囲からの「さすが西園寺」という囁きを背に、俺は着席した。
放課後。
俺は帰宅前に、特別教室棟の空き教室――通称「補習室」の前を通りかかった。
中から、唸り声が聞こえてくる。
「……うぅ、わかんないよぉ……」
覗き込むと、そこには花村結衣先輩の姿があった。
どうやら、数学の小テストで赤点を取り、追試に向けた補習を受けているらしい。
担当の数学教師は不在で、彼女一人で問題集と格闘している。
あどけなさと健康的な色気が同居した美少女。
夏服のブラウスが、机に突っ伏した拍子にきつく張り詰めている。
その無防備な姿に、俺は小さく咳払いをしてから中に入った。
「……花村先輩」
「あ! 西園寺くん!?」
彼女は顔を上げ、救世主を見たような目で俺に駆け寄ってきた。
「どうしよう、全然わかんないの! このままだと留年しちゃうよぉ!」
「落ち着いてください。……どこで詰まっているんですか?」
俺は彼女の隣に座り、ノートを見た。
三角関数の応用問題だ。
「……なるほど。単位円の使い方が曖昧ですね」
俺はペンを取り出し、丁寧に図を描いて解説を始めた。
数式を図形としてイメージさせる。彼女の得意な「感覚」に訴えかける教え方だ。
「ここが動くと、サインの値はどうなりますか?」
「えっと……上にいくから、増える?」
「正解です。では、コサインは?」
順調に進んでいた、その時だった。
結衣先輩が、図をよく見ようと身を乗り出してきた。
「ん~? ここがわかんないのぉ……」
彼女の顔が、俺の顔のすぐ横に来る。
甘いバニラの香りが、濃厚に漂う。
そして、彼女の豊かな胸部が、俺の二の腕に触れるか触れないかのギリギリの距離まで迫った。
無自覚。
彼女の瞳は、純粋にノートの図形を追っているだけだ。
だが、41歳の精神を持つ俺にとって、この距離感は理性を試される拷問に近い。
15歳の肉体が、本能的に反応しそうになるのを必死で抑え込む。
「……っ、コホン!」
俺はわざとらしく咳払いをし、椅子を引いて物理的な距離を取った。
「……先輩。近いです」
「え? あ、ごめん! 夢中になっちゃって!」
彼女はケラケラと笑い、全く悪びれる様子がない。
この天然さこそが、彼女の最大の武器であり、同時に危うさでもある。
俺は深呼吸をして、冷静さを取り戻した。
「……とにかく、この公式は暗記ではなく、図で理解してください。そうすれば忘れません」
「はーい! ……西園寺くん、顔赤いよ? 暑い?」
「……湿気のせいです」
俺は素っ気なく答え、指導を再開した。
補習を無事に終えさせた後、俺は結衣先輩の「お礼させて!」という申し出に押し切られ、渋谷の街へと繰り出した。
向かったのは、スペイン坂にあるクレープ屋だ。
「私ね、ここの『イチゴチョコ生クリーム』が大好きなの! 西園寺くんも食べる?」
「いえ、俺は甘いものは……」
「一口あげる! はい、あーん!」
有無を言わせぬ勢いで、クレープが口元に差し出される。
周囲の視線が痛い。
俺は観念して、端の方を少しかじった。
甘い。だが、彼女の笑顔を見ていると、不思議と悪くない味に思えてくる。
「……美味しいですね」
「でしょ~! えへへ、王子様とデートだぁ」
彼女は嬉しそうにクレープを頬張った。
その無邪気な姿に癒やされつつ、俺たちは駅前で別れた。
その後、俺は電車に乗り、吉祥寺へと移動した。
先日、草野から聞いた「迷惑な老人」の動向を探るためだ。
駅前の商店街を歩きながら、情報通の店主たちに聞き込みを行う。
「ああ、あの爺さんか。最近よく見るよ。公園で絵を描いてると思ったら、急にブツブツ言い出してな」
「若いもんに説教してるのを見たぜ。『魂が濁ってる』だのなんだの」
どうやら、葛城は俺のネット工作によるストレスを、通りすがりの若者に八つ当たりすることで発散しているらしい。
小物感が漂うが、裏を返せばそれだけ追い詰められている証拠だ。
俺は満足げに頷き、商店街を抜けた。
ふと、路地裏にある老舗のドーナツ屋『ミスタードーナツ』の前を通りかかった時、ガラス越しに見覚えのある横顔を見つけた。
高城藍だ。
切り揃えられた黒髪のボブカット。
知的な瞳で、文庫本を読んでいる。
テーブルには、コーヒーとオールドファッションが置かれている。
「……高城さん」
俺が店に入り声をかけると、彼女は顔を上げ、驚いたように目を丸くした。
「……西園寺くん。こんなところで奇遇ね」
「ええ。少し野暮用で。……高城さんも、息抜きですか?」
「そんなところよ。……ここのドーナツ、素朴で好きなの」
彼女は少し恥ずかしそうに言った。
クールな文学少女が、ドーナツを頬張る姿。
そのギャップが愛らしい。
俺は少しだけ立ち話をして、店を出た。
彼女もまた、日常の中で小さな幸せを見つけているようだ。
夕方。
俺は吉祥寺のダーツ&ビリヤード場『バグース』に向かった。
今日は城戸隼人が「メンツ集めたから遊ぼうぜ!」と騒いでいた日だ。
店に入ると、奥のダーツコーナーが異様な熱気に包まれていた。
「おらぁ! ハットトリックだぜ!」
「くっそー! なんで入んねーんだよ!」
「美しい……! 矢の軌道が描く放物線、これぞ物理法則のアートだ!」
隼人、くるみ、そして白鳥恒一。
カオスなメンバーが揃っていた。
「……また随分と濃いメンツですね」
「おお、西園寺! 遅えぞ!」
隼人が手を振る。
くるみさんは変装用の帽子を被っているが、ダーツに夢中でズレている。
白鳥は……なぜかスケッチブックを片手に、ダーツの矢をデッサンしていた。
「レオ、見てよこれ! 白鳥くんが全然投げないのよ!」
「投げる動作よりも、投げる瞬間の筋肉の躍動を記録することに意義があるのだ!」
「うっさいわね! さっさと投げなさいよ!」
くるみさんと白鳥の漫才のようなやり取り。
隼人が腹を抱えて笑っている。
俺も苦笑しながら、彼らの輪に入った。
束の間の休息。
利害関係のない友人たちとの時間は、ビジネスで張り詰めた神経を緩めてくれる。
1時間ほど遊んだ後、俺の携帯電話が鳴った。
母・ソフィアからだ。
『Leo? こんばんは。……今どこ?』
「吉祥寺ですが。……どうかしましたか?」
『あのね、今夜は摩耶と一緒にそっちへ行くわ。……美味しい中華が食べたい気分なの』
母の声は弾んでいた。
どうやら、外食ではなく「俺の家で」夕食を取りたいらしい。
一昨日のカツオのレアステーキが好評だったようだ。
「分かりました。……では、準備をして帰ります」
『ええ。……楽しみにしてるわね、私の専属シェフさん』
通話を切り、俺は皆に別れを告げた。
さて、今夜は母と姉、二人をもてなす宴の準備だ。
吉祥寺から渋谷へ戻り、俺は東急百貨店本店のデパ地下へと向かった。
今日の夕食は中華だ。
だが、ただの中華ではない。
最高級の素材を使った、洗練された広東料理を目指す。
メインメニューは以前にも作った俺の好物だ。
精肉コーナーで、黒毛和牛のモモ肉ブロックを購入。
赤身の旨味が強く、脂が少ない部位だ。これを細切りにして『チンジャオロース』にする。
野菜コーナーでは、肉厚のピーマンと、国産のタケノコの水煮。
さらに、前菜用に『中華くらげ』の上質なものを探す。
コリコリとした食感が命だ。きゅうりと和えてさっぱりといただく。
スープ用に、ワンタンの皮と、海老、豚ひき肉を購入。
手作りの『海老ワンタンスープ』だ。
そして、飲み物。
今日は酒ではなく、中国茶にする。
専門店で、最高級の『凍頂烏龍茶』を購入した。
台湾産の高山茶。
花のような香りと、甘い後味が特徴だ。
脂っこい中華料理の後に飲むと、口の中を驚くほどさっぱりとさせてくれる。
両手に食材を抱え、俺は帰宅した。
帰宅すると、ほどなくしてチャイムが鳴った。
母と姉の到着だ。
「Leo! お邪魔するわよ!」
「お帰り玲央! ……ふふ、今日も期待してるからね!」
ゴージャスな母と、愛らしい姉。
二人がリビングに入ると、部屋が一気に華やぐ。
「いらっしゃい。……今日は中華です」
俺はエプロンを締め、調理を開始した。
まずは下準備だ。
牛肉は繊維に沿って細切りにし、酒、醤油、卵白、片栗粉で揉み込む。
これで肉の水分を保ち、柔らかく仕上げる。
ピーマンとタケノコも、肉と同じ太さに切り揃える。
この「切り揃える」という工程が、口当たりと火の通りを均一にするための最重要ポイントだ。
中華鍋を煙が出るまで熱し、油を馴染ませる。
牛肉を油通しする。
低温の油でサッと火を通し、一度取り出す。
これで肉が固くならず、旨味を閉じ込められる。
次に、香味野菜を炒め、香りを出す。
ピーマンとタケノコを投入し、強火で煽る。
シャキシャキ感を残すため、時間はかけない。
肉を戻し入れ、合わせ調味料を一気に回しかける。
――ジャァァァッ!
爆発的な音と蒸気。
香ばしい匂いがキッチンを支配する。
「Wow! 良い香りね!」と母が歓声を上げる。
鍋を振り、タレを全体に絡ませる。
仕上げに化粧油を垂らし、完成。
並行して、ワンタンを包む。
海老は粗く刻み、ひき肉と混ぜて餡にする。
皮に包み、熱湯で茹でる。
鶏ガラスープに醤油とごま油で味付けし、ワンタンを浮かべる。
ネギを散らせば、シンプルだが奥深いスープの出来上がりだ。
中華くらげは、千切りにしたきゅうりと和え、少しの酢とごま油で味を調える。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
艶やかな照りを放つ『最高級チンジャオロース』。
プリプリの海老が透けて見える『ワンタンスープ』。
涼やかな『中華くらげの和え物』。
そして、急須で丁寧に淹れた『凍頂烏龍茶』。
「いただきます!」
三人で食卓を囲む。
まずはチンジャオロースから。
牛肉の柔らかさと、ピーマンのシャキシャキ感。
オイスターソースの濃厚なコクが、白飯を誘う。
「……んん~っ! 美味しい! お肉が柔らかい!」
「ピーマンも甘いわね。……レオ、お店出せるわよ」
母と姉が絶賛する。
そこに熱い烏龍茶を啜る。
蘭の花のような香りが鼻に抜け、口の中の脂を洗い流してくれる。
完璧なマリアージュ。
ワンタンは、噛むと海老の甘みが弾ける。
スープの滋味が体に染み渡る。
中華くらげのコリコリとした食感も、良いアクセントだ。
「……ねえレオ。最近、楽しそうね」
食後、母が烏龍茶を飲みながら言った。
「そうですか?」
「ええ。顔つきが、少し柔らかくなった気がするわ。……良い出会いがあったのかしら?」
「……まあ、色々と」
俺は言葉を濁した。
結衣先輩の無防備な笑顔、くるみさんの信頼、沙耶さんの葛藤、そして藍との共犯関係。
それらが俺を変えているのかもしれない。
食後。
母たちが帰った後、俺はリビングでパズルを広げた。
1000ピースの『バベルの塔』。
未完成の塔。
一つ一つのピースを埋めながら、俺は考える。
葛城玄斎への包囲網は順調だ。
次の手はどうするか。
ビジネスの拡大は?
ヒロインたちの未来は?




