第60話 天然水の透明度と冷製パスタの温度
6月8日、火曜日。
関東地方の梅雨入りを目前に控え、空気には微かな湿り気が混じり始めていた。
桜花学園の教室。
3限目の地理の授業中、教壇に立つ教師が世界地図を指し示しながら、生徒たちを見回した。
「……さて。アジア通貨危機以降、東南アジア諸国の経済は混乱の中にあったが、ここに来て回復の兆しが見えている。この急速な回復を支えている『産業構造の変化』について、具体例を挙げて説明できる者はいるか?」
教室が静まり返る。
単に輸出品目を答えるだけではない、マクロ経済の視点が求められる問いだ。
教師の視線が、期待を込めて俺の席に向けられた。
「西園寺。頼めるか?」
俺は、手元の専門書から顔を上げ、静かに席を立った。
「はい。最大の変化は、労働集約型の組立産業から、電子部品や半導体を中心とした高付加価値産業へのシフトです。特にマレーシアや台湾におけるIT関連部材の生産拠点の集積は、来るべき世界的なIT需要の爆発的増加を見越したものであり、これが外貨獲得の新たな柱となっています。通貨安を逆手に取った輸出競争力の強化と、海外直接投資の呼び込みが功を奏していると言えるでしょう」
俺は淀みなく答えた。
1999年の今、アジアは「世界の工場」から「世界のハイテク基地」へと変貌を遂げようとしている。
教師は深く頷き、満足げに眼鏡の位置を直した。
「……正解だ。相変わらず、視野が広いな。座りなさい」
着席すると、隣の城戸隼人が「お前、あっちの国のニュースとか見てんの? マジですげぇな」と小声で感心していた。
俺は小さく肩を竦める。
未来を知る者にとって、これは予言ではなく、過去の検証に過ぎない。
昼休み。
俺は気分転換に、学校の近くにあるコンビニエンスストアへと足を運んだ。
飲料コーナーの棚には、新商品が並んでいる。
俺が手に取ったのは、JTが販売する『桃の天然水』だ。
1998年に歌手の華原朋美を起用したCMで爆発的なヒットを記録し、今なお若者の間で絶大な支持を得ている「透明な清涼飲料水」。
「……『ヒューヒュー』か」
俺はレジで購入し、キャップを開けた。
一口飲む。
甘い。だが、後味は驚くほどすっきりしている。
従来のジュースのベタつきを嫌う若者層に、「水感覚で飲めるジュース」という新しい価値を提供した。
この「透明感」というキーワードは、世紀末の閉塞感を打破したいという大衆心理ともリンクしている。
ビジネスのヒントは、常にコンビニの棚にある。
俺は冷たい液体で脳を冷却し、午後の授業へと向かった。
放課後。
俺は渋谷の『渋谷LoFt』に来ていた。
生活雑貨から文具まで、洗練されたアイテムが揃う大型店舗だ。
文具フロアで、書き味の良いボールペンのリフィルを探していると、棚の向こうに真剣な表情で商品を吟味している女性の姿を見つけた。
高村遥先生だ。
教育実習期間も残りわずか。
今日の彼女は、清楚な白のブラウスに、淡いミントグリーンのフレアスカートを合わせている。
清純派の頂点にある美貌。
艶やかな黒髪をハーフアップにし、白い首筋が露わになっている。
その瞳は、色とりどりのスタンプセットに釘付けになっていた。
「……うーん、どっちがいいかなぁ。こっちは可愛いけど、こっちは使いやすそうだし……」
彼女は独り言を呟きながら、二つの商品を交互に見比べている。
その仕草が、何とも言えず愛らしい。
「……迷っていらっしゃいますね、高村先生」
俺が声をかけると、彼女は「ひゃっ!?」と小さく悲鳴を上げ、商品を落としそうになった。
慌ててキャッチする。
「あ、ありがとう……! って、西園寺くん!?」
彼女は顔を真っ赤にして俺を見上げた。
「こ、こんにちは。……奇遇だね」
「ええ。お買い物ですか?」
「うん。……実習の最後にね、受け持ってくれた生徒たちに、メッセージカードを書こうと思って。その飾りに使うスタンプを探してたの」
彼女は照れくさそうに言った。
教育実習生がそこまでする義務はない。
だが、彼女の教育にかける情熱は本物だ。不器用ながらも、生徒一人一人と向き合おうとするその姿勢。
それが、彼女を魅力的に見せている最大の要因だろう。
「素敵なお考えですね。……僕なら、こちらのウッドスタンプをお勧めします」
「え? こっち?」
「ええ。インクの色を変えれば様々な用途に使えますし、デザインもシンプルで飽きが来ません。生徒たちの記憶にも残るでしょう」
俺がアドバイスすると、彼女は瞳を輝かせた。
「そっか! ……うん、確かにそうかも! さすが西園寺くん、センスいい!」
「恐縮です」
俺たちは並んでレジへ向かった。
買い物を終え、店を出る。
夕暮れの公園通り。
並木道の新緑が、彼女の白い肌に美しい影を落としている。
「……ねえ、西園寺くん。少しだけ、付き合ってくれない?」
「はい?」
「その……荷物持ちのお礼に、何かご馳走させて。……あと、ちょっとだけ話を聞いてほしくて」
彼女は上目遣いで俺を見た。
その瞳には、実習終了を控えた不安と、達成感の入り混じった複雑な色が宿っている。
断る理由はない。
俺たちは近くのオープンテラスのあるカフェに入った。
彼女はアイスティーを、俺はアイスコーヒーを注文する。
「……もうすぐ、実習も終わりだね」
彼女はストローを回しながら、ぽつりと呟いた。
「最初はね、怖かったの。生徒のみんなに受け入れてもらえるか、ちゃんと教えられるか……。特に日向くんみたいな子には、どう接すればいいか分からなくて」
「彼には手を焼きましたか」
「うん。……でもね、西園寺くんがいてくれたおかげで、私、逃げずに済んだ気がする」
彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見た。
「君が授業で完璧な回答をしてくれると、空気が締まるの。……それに、廊下ですれ違う時に挨拶してくれるだけで、すごく勇気をもらえた。……ありがとう」
彼女は微笑んだ。
その笑顔は、初夏の風のように爽やかで、そしてどこか切なかった。
教師と生徒。
その境界線は明確だが、彼女の中で俺という存在は、単なる生徒以上の「支え」になっていたのかもしれない。
「礼には及びません。……先生の頑張りは、クラス全員が見ていますよ」
「……ふふ、口が上手いんだから。……でも、嬉しい」
彼女は照れ隠しにアイスティーを飲んだ。
束の間の休息。
彼女との時間は、俺の荒んだ心を洗い流してくれる。
カフェを出て、高村先生と別れた後。
俺は大通りで待機していたハイヤーに乗り込んだ。
運転席には、秘書の如月舞が座っている。
「お疲れ様です、社長」
バックミラー越しに、舞の冷静な瞳が俺を捉える。
今日の彼女は、ダークネイビーのスーツ姿だ。
陶器のように滑らかな肌と、知的な美貌。
仕事モードの彼女は、隙のない美しさを放っている。
「……高村様とは、良いお話ができましたか?」
「ああ。彼女は真面目だ。教育者としての資質がある」
「社長がそこまで評価されるのは珍しいですね」
「……不器用だが、芯が強い。そういう人間は嫌いじゃない」
俺はシートに深く身を預けた。
車が滑らかに発進する。
「報告があります。……葛城玄斎の件ですが」
舞の声色が、少し低くなった。
「ネット上の告発が功を奏し、彼の周辺が騒がしくなっています。複数の週刊誌が裏取り取材に動き出しました。……特に、過去に破門された弟子たちからのタレコミが相次いでいるようです」
「いい傾向だ。……外堀は埋まったな」
「はい。来月の個展に合わせて、決定的なスキャンダルをぶつければ、彼の権威は地に落ちるでしょう」
舞は淡々と告げた。
冷徹な仕事ぶり。
彼女は俺の剣であり、盾だ。
「……それと、社長。倉庫の管理状況についてですが」
「GT-Rと、カードのことか」
「はい。温度・湿度ともに完璧な数値を維持しております。セキュリティも強化しました」
「頼むよ。あれは25年後の俺たちへのボーナスだ」
「……ふふ、25年後、ですか。気が遠くなるような未来ですが、社長と一緒なら、あっという間かもしれませんね」
彼女は少しだけ表情を緩め、優しく微笑んだ。
その笑顔に、俺は救われる。
孤独な戦いの中で、彼女だけは常に俺の隣にいてくれる。
その事実に、改めて感謝した。
帰宅前。
俺は舞に頼んで、表参道の高級スーパー『紀ノ国屋』に寄ってもらった。
夕食の買い出しだ。
店内に入ると、野菜コーナーで見覚えのある人物がカゴを持って悩んでいた。
姉の摩耶だ。
今日の彼女は、大学帰りらしくトレンチコートを羽織っているが、中はシンプルなニットとデニムだ。
愛らしいショートボブが、店内の照明を受けて輝いている。
黙っていれば深窓の令嬢に見えるのだが、カゴの中身がスナック菓子と缶ビールばかりなのが残念だ。
「……姉さん。またですか」
「あ、玲央! 奇遇ね! ……って、待ち伏せしてたんでしょ?」
「違います。夕食の買い出しです」
俺は呆れながら、彼女のカゴからスナック菓子をいくつか棚に戻した。
「えーっ! ケチ! 私の栄養源が!」
「栄養にはなりません。……今日は僕が作りますから、まともな食事を摂ってください」
「ほんと!? やったぁ! 愛してるわ玲央!」
姉は俺の腕に抱きついた。
周囲の客が微笑ましそうに見ているが、俺としては恥ずかしい限りだ。
「……で、今日は何にするの?」
「冷製パスタです。蒸し暑くなってきましたからね」
俺は青果コーナーで、真っ赤に熟した『フルーツトマト』を選んだ。
糖度が高く、果肉がしっかりしている。
さらに、フルーツコーナーで『桃』を購入。
まだ走りの時期だが、ハウス栽培の早生種が出ている。
トマトと桃。
意外な組み合わせだが、これが驚くほど合うのだ。
「へぇ、おしゃれ。……じゃあ、私はお酒選んでいい?」
「……料理に合うものにしてくださいね」
姉はワインコーナーへ走り、イタリア産の白ワイン『ソアーヴェ』を持ってきた。
悪くないチョイスだ。
俺たちは並んでレジへ向かった。
姉との買い物は騒がしいが、日常の温かみを感じさせてくれる。
帰宅後、俺はすぐに調理に取り掛かる。
パスタは、極細の『カッペリーニ』を使う。
茹で時間はわずか2分。
氷水でしっかりと締め、水気を切る。
これが味の決め手だ。水っぽいパスタは最悪だ。
ソースを作る。
フルーツトマトを湯剥きし、ざく切りにする。
ボウルに入れ、エキストラバージンオリーブオイル、塩、ホワイトペッパー、そして少量のレモン汁を加える。
そこに、皮を剥いて一口大に切った桃を投入する。
軽く潰しながら混ぜ合わせ、乳化させる。
バジルの葉を手でちぎって加える。
冷蔵庫でキンキンに冷やしておく。
「……よし」
茹で上がって締めたパスタを、ソースのボウルに投入し、手早く和える。
冷えた器に高く盛り付け、トップに生ハムを飾る。
桃のピンク、トマトの赤、バジルの緑、そして生ハムのピンク。
見た目も鮮やかだ。
ダイニングテーブルに運ぶと、姉が歓声を上げた。
「うわぁ! カフェご飯みたい! すごーい!」
「見た目だけではありませんよ。……どうぞ」
俺は自分のグラスに、最高級の『ぶどうジュース』を注いだ。
ワイン用ブドウ「カベルネ・ソーヴィニヨン」を搾った、濃厚なジュースだ。
姉はソアーヴェを注ぎ、乾杯する。
「いただきます!」
パスタを巻いて口に運ぶ。
……衝撃だ。
フルーツトマトの凝縮された旨味と酸味。
そこに、桃の芳醇な甘みと香りが重なる。
生ハムの塩気が全体を引き締め、オリーブオイルが滑らかにまとめている。
カッペリーニの繊細な食感が、ソースを存分に絡め取る。
「んん~っ! 美味しい! 桃とトマトって、こんなに合うのね!」
「ええ。互いの香りを補完し合うんです」
姉は夢中で食べている。
俺もぶどうジュースを飲む。
濃厚な果実味が、パスタの甘みと酸味に負けていない。
至福の時間だ。
「……ねえ、玲央」
食後、ワインを傾けながら姉が言った。
「あんた、最近大人っぽくなったよね。……なんか、遠くに行っちゃいそうで、お姉ちゃん少し寂しいわ」
「……どこにも行きませんよ。僕はここにいます」
「そっか。……ならいいけど。あんたがいなくなったら、私、餓死しちゃうし」
姉は悪戯っぽく笑った。
その笑顔の下にある、弟への依存と愛情。
俺はそれを、しっかりと受け止めた。




