第59話 琥珀色の投資とビリヤードの幾何学
6月最初の月曜日。
梅雨入りを間近に控えた空は低く、生温かい風が教室の窓から吹き込んでいた。
1限目、公民。
教壇には、今日も今日とてスパルタ教師・真田厳が立っている。
出席簿を武器のように構え、鋭い眼光で生徒たちを威圧するその姿は、ある種の様式美すら感じさせる。
「……いいか、法の支配とは権力者の恣意的な支配を排除する概念だ。だが! 教室における法とはこの俺だ! たるんでいるぞ城戸ォ!」
理不尽な怒号と共に、真田の右腕が唸りを上げた。
白いチョークが弾丸のように射出される。
標的は、俺の隣で教科書を立てて居眠りをしていた城戸隼人だ。
だが、その射線軸上には俺の頭部が存在する。
これはもはや、毎朝の恒例行事だ。
俺は、手元のノートパソコンから視線を外すことなく、首をわずか3センチ、右に傾けた。
ヒュッ。
風切り音が耳元を掠める。
そして背後で「痛ってぇ!!」という隼人の悲鳴が響いた。
教室中が笑いに包まれる中、俺は何食わぬ顔でキーボードを叩き続けた。
無駄な被弾はしない。それがリスク管理の基本だ。
休み時間。
廊下に出ると、挙動不審な小柄な男子生徒が近づいてきた。
草野健太だ。
彼は俺の顔を見ると、安堵したように息を吐き、声を潜めた。
「……西園寺。ちょっといいか?」
「どうした、草野。改まって」
「いや、その……相談っていうか」
草野は周囲を気にしながら言った。
「実はさ、俺のやってる裏サイトの掲示板に、妙な書き込みが増えてるんだよ。『蒼山芸術高校の天才画家、パトロンに魂を売る』とか『才能のないクズ』とか……」
「……ほう」
「で、個人名も出てるんだ。『白鳥恒一』って。……これ、西園寺がこないだ連れてた変人だよな?」
俺の眉がぴくりと動いた。
白鳥恒一への誹謗中傷。
十中八九、師匠である葛城玄斎の差し金だ。
俺が仕掛けたネット工作への報復措置か、あるいは白鳥を孤立させて連れ戻すためのガスライティングか。
どちらにせよ、陰湿で卑劣なやり口だ。
「……さらにさ、白鳥が学校で絵具を隠されたり、作品を汚されたりしてるって噂もあるんだ。これって、いじめだろ?」
「なるほど。情報感謝する、草野」
俺は冷徹な声で答えた。
才能ある若者を、大人の都合で潰そうとする行為。
鷹森の時と同じだ。許容できるラインを超えている。
「……西園寺、どうするんだ?」
「心配には及ばない。害虫駆除の準備は進めている。……君は引き続き、ネットの動向を監視していてくれ」
「お、おう! 任せとけ! 参謀として完璧な仕事をしてやるぜ!」
草野は意気揚々と去っていった。
俺は手帳を取り出し、舞への指示事項を書き込んだ。
葛城玄斎。
この老害には、芸術的な「死」を用意する必要がありそうだ。
移動教室の途中、渡り廊下で霧島セイラ先輩とすれ違った。
今日の彼女は、いつにも増して儚げな美しさを漂わせていた。
日本人離れした彫りの深い顔立ち。
腰まで届く艶やかな黒髪が、湿った風に重たげに揺れている。
完璧に着こなした制服姿は凛としているが、その切れ長の瞳には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
「……ごきげんよう、霧島先輩」
俺が声をかけると、彼女は足を止め、力なく微笑んだ。
「……おはよう、西園寺くん。今日は静かね」
「嵐の前の静けさかもしれませんよ。……先輩こそ、顔色が優れませんが」
「……少し、家のことでね。債権者との話し合いが長引いて」
彼女は自嘲気味に言った。
没落寸前の霧島家。
資産の切り売りで延命しているが、限界は近い。
「……西園寺くん。貴方、投資家なんでしょう?」
「ええ。一応は」
「なら教えて。……価値のないものに、すがりつくのは愚かなこと?」
「価値の定義によります。市場価値がないとしても、本人にとって譲れない『誇り』なら、守る価値はあります」
俺の言葉に、彼女はハッとして顔を上げた。
その瞳に、一瞬だけ強い光が戻る。
「……そうね。誇りまで売り渡したら、私は私でなくなってしまう」
「その通りです。……困った時は、いつでも言ってください。僕には、価値あるものを守るための『道具』がありますから」
「……ありがとう。覚えておくわ」
彼女は背筋を伸ばし、歩き出した。
その背中は、以前よりも少しだけ強くなっているように見えた。
放課後。
俺は学校を抜け出し、渋谷の東急百貨店本店にあるリカーショップを訪れていた。
目的は、ワインではない。
ウイスキーだ。
「いらっしゃいませ、西園寺様。……例の品、確保しております」
顔馴染みの店長が、恭しく木箱を出してきた。
『軽井沢 1960年』。
そして、『響 30年』。
1999年現在、ジャパニーズウイスキーは世界的な評価を得ておらず、知る人ぞ知る存在だった。
『軽井沢』蒸留所は閉鎖の危機にあり、『響 30年』も定価8万円程度で棚に並んでいた。
だが、俺は知っている。
20数年後、これらが「液体の宝石」と呼ばれることを。
特に『軽井沢』は、蒸留所閉鎖後に伝説となり、オークションで数千万円、時には億単位の値がつくことになる。
『響 30年』もまた、原酒不足により価格が高騰し、入手困難な幻の酒となる。
「……将来、とてつもない化け物になる銘柄への投資の話です」
俺は店長に微笑みかけ、決済を済ませた。
総額で数百万円。
だが、これもまた200億円に化ける可能性を秘めたタイムカプセルだ。
温度管理された倉庫へ直送する手配を済ませ、俺は店を出た。
夕方。
俺は電車に揺られ、吉祥寺へと向かった。
駅前のダーツ&ビリヤード場『バグース』。
そこで待っていたのは、奇妙な組み合わせの3人だった。
「おーい西園寺! 遅えぞ!」
金髪の城戸隼人が手を振る。
その隣には、変装用の帽子を被った天童くるみ。
そして、場違いなベルベットのジャケットを着た美少年、白鳥恒一だ。
「……どういう組み合わせだ、これは」
「いや、こいつが駅前で腹減って倒れてたから拾ったんだよ。そしたら天童とも会ってさ」
隼人が説明する。
類は友を呼ぶというが、俺の周りには引力が働いているらしい。
「西園寺! 感謝する! この城戸という男、粗野だが魂の色は黄金だ! 牛丼を奢ってくれた!」
「……お前、いい加減その喋り方直せよ」
「レオ、助けて。こいつらの会話、全然噛み合ってないのよ」
くるみさんが呆れ顔で俺に助けを求めてくる。
美貌は、薄暗い店内でも隠しきれない。
「まあまあ。……せっかく集まったんです。遊びましょう」
俺たちはビリヤード台を囲んだ。
ナインボール。
隼人のパワープレイ、くるみさんの意外と器用なショット。
そして白鳥は……。
「美しい……! この球体の配置、緑のラシャとのコントラスト! 打つのが惜しい!」
「早く打てよ!」
隼人に急かされ、白鳥が適当にキューを突く。
カコン、カコン。
奇跡的なマグレ当たりで、9番ボールがポケットに吸い込まれた。
「……計算通りだ。美の女神が微笑んだな」
「嘘つけ!」
笑いが絶えない。
いじめの噂など微塵も感じさせない白鳥の能天気さに、少し救われる。
だが、彼を守るための手は打たなければならない。
俺はポケットの中で携帯を握りしめ、舞に「作戦」の実行合図を送った。
吉祥寺から渋谷へ戻り、俺はスポーツショップへ立ち寄った。
購入したのは、プロテインの大袋と、新しいランニングシューズだ。
自分用ではない。隼人へのプレゼントだ。
「勉強のご褒美」という名目なら、彼も受け取るだろう。
店を出て、公園通りのカフェに入ろうとした時だった。
テラス席で、書類を広げて溜息をついている女性を見つけた。
高村遥先生だ。
3週間限定の教育実習生。
清純派の美貌を持つ彼女だが、今はその美しい顔に疲労の色が濃い。
実習期間も残りわずか。指導案の作成や、生徒との関係構築に悩んでいるのだろう。
特に、日向翔太の幼稚な振る舞いには手を焼いているはずだ。
「……高村先生」
「あ、西園寺くん! ……こんばんは」
彼女は俺に気づくと、慌てて書類を隠そうとしたが、間に合わなかった。
真っ赤に添削された指導案。
「……お疲れのようですね」
「ううん、全然! ……と言いたいところだけど、ちょっと自信なくしちゃって」
彼女は弱々しく笑った。
その笑顔は、守ってあげたくなるような儚さを帯びている。
「生徒に教えるって、難しいね。……私の言葉、届いてるのかなって」
「届いていますよ。少なくとも、僕は先生の授業、好きです」
俺は素直に言った。
彼女の授業は拙いが、一生懸命だ。
「古典を好きになってほしい」という情熱は、技術を超えて伝わってくる。
「……ありがとう。西園寺くんにそう言ってもらえると、すごく嬉しい」
彼女は頬を染め、コーヒーカップを両手で包み込んだ。
俺は彼女の向かいに座り、少しの時間、話し相手になった。
教師としての理想と現実。
彼女の悩みを聞き、大人の視点からさりげなくアドバイスをする。
別れ際、彼女の表情はずっと明るくなっていた。
「ありがとう、西園寺くん。……君って、本当に不思議な生徒ね」
「ただの、生意気な年下ですよ」
俺は微笑み、彼女と別れた。
帰宅前に、東急本店のデパ地下へ。
今日の夕食は、初夏の活力を取り戻すメニューだ。
鮮魚コーナーで、千葉県勝浦産の『初ガツオ』を見つけた。
鉄分を含んだ赤身が、ルビーのように輝いている。
これをレアステーキにする。
表面だけを香ばしく焼き上げ、中はレアに仕上げることで、カツオの旨味と血の香りを最大限に引き出す。
ソースは、バルサミコ酢と醤油、ニンニクを煮詰めた特製ソースだ。
付け合わせには、旬のアスパラガス。
北海道産の極太サイズ。これをバターでソテーする。
さらに、新玉ねぎのスライスと、薬味のミョウガ、大葉をたっぷりと。
飲み物は、酒ではない。
『アラン・ミリア』の赤グレープジュース。
フランスの高級ホテルで提供される、ワイン用のブドウを早摘みして作られたジュースだ。
濃厚な甘みと酸味、そして渋み。
アルコールが入っていないのが信じられないほどの複雑な味わいは、カツオの鉄分にも負けない。
帰宅し、重厚な玄関ドアを開ける。
すると、リビングから賑やかな話し声が聞こえてきた。
この明るいトーンは、間違いなくあの二人だ。
「Leo! お帰りなさい!」
「お帰り、玲央。遅かったじゃない」
リビングに入ると、ソファには母・ソフィアと、姉・摩耶がくつろいでいた。
圧倒的なオーラを放つ母と、愛らしさを持つ姉。
二人が揃うと、部屋の空気が一気に華やぐ。
だが、母がここにいるのは、5月中旬のGT-R契約の日以来、約3週間ぶりだ。
「ただいま、母さん、姉さん。……姉さんはともかく、母さんは久しぶりですね。まだ日本にいらしたのですか?」
「Oh, Leo... 冷たいわね! マミー、寂しくて死にそうだったのよ!」
ソフィアは大げさに嘆いてみせ、俺を抱きしめた。
甘い香水の香り。変わらない、母の匂いだ。
「仕事の合間を縫って、どうしてもレオの顔が見たくて飛んできたのよ。……摩耶に頼んで、合鍵で入らせてもらったわ」
「また勝手なことを……。まあ、構いませんが」
「でしょ? ほら、お腹空いたわ! 今日は何を作ってくれるの?」
母は悪びれもせず、期待に満ちた目でキッチンを見ている。
俺は苦笑しながら、買ってきた食材を広げた。
「……今日はカツオのレアステーキです。口に合うと良いのですが」
「あら、素敵! 赤ワインに合いそうね!」
「今日はノンアルコールですが、ワインに負けないジュースを用意しました」
俺はキッチンに立ち、手際よく調理を始めた。
カツオに塩胡椒を振り、小麦粉を薄くはたく。
フライパンにオリーブオイルと潰したニンニクを入れ、香りを移す。
強火で一気に焼く。
表面が白くなり、焼き目がついたらすぐに引き上げる。
余熱で火が入りすぎないよう、素早くカットする。
断面は鮮やかな赤。
完璧なレアだ。
アスパラは、根元の硬い部分をピーラーで剥き、ハカマを取る。
バターでじっくりと焼き、塩のみで味付けする。
素材の甘みが際立つ。
ダイニングテーブルに並べる。
深紅のカツオと、鮮やかな緑のアスパラ。
そして、ワイングラスに注がれた紫色のジュース。
「いただきます!」
三人で食卓を囲む。
久しぶりの家族団欒だ。
カツオを一口。
香ばしい皮目と、ねっとりとした赤身の食感。
バルサミコソースの酸味が、カツオの野趣溢れる旨味を引き立てる。
そこにグレープジュースを流し込む。
ブドウのタンニンが、口の中の脂を洗い流し、次の一口を誘う。
「……Delicious! このソース、最高ね!」
「アスパラも甘い! ……玲央、あんた本当に何者なのよ。弟にしておくには勿体ないわ」
姉が感心したように言う。
母も満足げに頷いている。
ビジネスの戦場、学園での駆け引き、そしてヒロインたちとのドラマ。
それら全てを忘れ、ただの息子、弟に戻れる時間。
俺にとって、この食卓こそが最強のセーフティネットだ。
食後。
母たちが帰った後、俺はリビングで観葉植物のパキラに目をやった。
少し葉が乾燥している。
俺は霧吹きで葉水をやり、土に『植物用活力液』を挿した。




