第58話 吉祥寺の迷宮と深紅のボンゴレ
日曜日の朝。
俺――西園寺玲央は、書斎のデスクでノートパソコンを開き、ある「仕込み」の最終確認を行っていた。
画面に表示されているのは、匿名掲示板や美術関係のBBSに投稿された、いくつかの書き込みだ。
ターゲットは、日本画壇の重鎮・葛城玄斎。
先日、白鳥恒一から聞いた「ゴーストペインター」の実態。弟子の作品を自分の名義で発表し、富と名声を得ている老害。
その証拠となる画像データや、過去の告発文を、海外サーバーを経由して拡散させる。
まだSNSのない時代だが、ネットの深層に火種を撒くことは可能だ。
「……まずは小手調べだ。徐々に外堀を埋めていく」
エンターキーを押し、送信を完了させる。
「ざまぁ」の瞬間は、もっと劇的な舞台で用意してやるつもりだ。今はまだ、彼に「得体の知れない不安」を植え付けるだけでいい。
PCを閉じ、俺は外出の準備を整えた。
今日は渋谷を離れ、吉祥寺へと足を運ぶ。
サブカルチャーの発信地であり、独特の空気が流れる街。
駅を降りると、雑多な人混みと、どこか懐かしい昭和の匂いが混じり合っていた。
まずは駅前の案内所で、街の情報を収集する。
古着屋、ライブハウス、そして隠れ家的なカフェ。
雑誌やネットには載っていない「生きた情報」は、足で稼ぐのが基本だ。
俺は路地裏にある、古民家を改装したカフェに入った。
木の温かみを感じる店内。
アンティークのソファに深く腰を下ろす。
座り心地が良い。
ただコーヒーを飲むだけでなく、空間そのものを楽しむ時間。
1999年の吉祥寺には、こうした「無駄を楽しむ」文化が根付いている。
効率化を追求する渋谷とは対極にある、緩やかな時間。
それもまた、ビジネスのインスピレーションには必要だ。
カフェを出て、井の頭公園へ向かおうとした時だった。
公園の入り口付近で、困り果てた様子の草野健太を見つけた。
彼は携帯電話を握りしめ、キョロキョロと挙動不審に周囲を見回している。
「……草野?」
「あ、西園寺! うわ、マジでいた! 助かったぁ……!」
草野は俺を見るなり、泣きつきそうな顔で駆け寄ってきた。
「どうした。そんなに慌てて」
「いや、実はさ……。この辺で『変なじいさん』に絡まれてて」
「じいさん?」
「ああ。公園で絵を描いてるんだけどさ、通りかかる人に『お前の顔は死相が出てる』とか『魂の色が濁ってる』とか、わけわかんないこと言って説教すんだよ! 俺も捕まって、30分くらい人生論語られた……」
草野はげっそりとしていた。
迷惑な老人だ。だが、俺のアンテナが微かに反応した。
吉祥寺、絵を描く老人、そして毒舌。
まさかとは思うが。
「……その老人、どんな風貌だ?」
「えっと、着物着てて、髭生やしてて……偉そうな感じ。あ、画材はすげー高そうだった」
ビンゴだ。
葛城玄斎。
彼は吉祥寺にアトリエを持っているという情報があった。
休日に公園でスケッチをしているのだろう。
俺が撒いた火種に気づき、イラついているのかもしれない。
「……放っておけ。関わるとろくなことにならない」
「だよね! ……あー怖かった。西園寺に会えて浄化された気分だわ」
草野は単純に喜んでいる。
彼にはまだ、俺がその老人を社会的に抹殺しようとしていることは伏せておこう。
草野と別れた後、俺は城戸隼人と合流した。
今日は彼に誘われて、吉祥寺のダーツ&ビリヤード場に来ていた。
「よっしゃ! 今日こそ西園寺に勝つ!」
隼人は気合十分だ。
金髪にスカジャンの彼は、吉祥寺のサブカルな空気の中でも目立っている。
ダーツの矢を構える。
以前教えたフォームが、随分と様になってきている。
シュッ。
矢は吸い込まれるようにブルの近くに刺さった。
「おっ! 来たんじゃね!?」
「悪くない。だが、リリースの瞬間に肘が下がっている」
俺も矢を投げる。
ど真ん中のインナーブル。
修正点を見せつけるように。
「くっそー! なんでそんな正確なんだよ!」
「物理だよ、城戸」
その後、ビリヤードでも対戦した。
幾何学的なラインを読む俺に対し、隼人は直感とパワーで挑んでくる。
結果は俺の圧勝だったが、彼の予測不能なショットには何度かヒヤリとさせられた。
勝負を終え、店を出る。
「あー、腹減った! メンチカツ食おうぜ、メンチ!」
「『サトウ』のメンチカツか。行列覚悟だな」
俺たちは商店街の行列に並び、揚げたてのメンチカツを頬張った。
肉汁が溢れ出し、熱さと旨味が口の中に広がる。
高級フレンチもいいが、こういうB級グルメも悪くない。
隼人との時間は、俺の精神年齢を15歳に戻してくれる貴重なリセットボタンだ。
夕方。
隼人と別れた俺は、渋谷へと戻ってきた。
駅前のジューススタンドへ向かう。
喉が渇いた。
「……『小松菜とバナナのスムージー』を」
緑色の液体を受け取り、一気に飲み干す。
青臭さと甘みが混ざり合い、疲れた体に染み渡る。
ビタミン補給完了。
そのままスポーツショップへ。
トレーニング用の新しいウェアを購入するためだ。
機能性を重視した吸汗速乾素材のTシャツと、ハーフパンツ。
ついでに、プロテインシェイカーも新調した。
店を出て、公園通りを歩いていると、歩道橋の上で風に当たっている女性を見つけた。
早坂涼さんだ。
今日の彼女は、白の開襟シャツに、ネイビーのクロップドパンツという装い。
シンプルだが、その清潔感と透明感は群を抜いている。
ショートカットの黒髪が夕風に揺れ、透き通るような白い肌がオレンジ色の光を浴びて輝いている。
その凛とした佇まいは、渋谷の喧騒を切り裂く一陣の涼風のようだ。
すれ違う人々が、思わず足を止めて見惚れているのが分かる。
「……涼さん」
「ん? ……あ、レオ!」
彼女は俺に気づくと、パッと表情を輝かせた。
その笑顔には、一点の曇りもない。
「奇遇ですね。買い物ですか?」
「ううん。レポートの資料探しで本屋行ってた帰り。……レオは? すごい荷物だけど」
「トレーニング用品の買い出しです。……涼さんも、お疲れ様です」
「ありがと。……あ、そうだ。今度の学祭、ホントに来てくれる?」
彼女は少し不安そうに聞いてきた。
以前約束した、大学の学園祭のことだ。
「もちろんです。楽しみにしていますよ」
「そっか。……良かった。案内する約束、忘れてないからね」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、俺の心が洗われていくようだ。
教師を目指す彼女のひたむきさは、俺にとっても刺激になる。
「……じゃあ、またね。ボン」
「ええ。お気をつけて」
手を振って去っていく彼女を見送り、俺は駅前へ向かった。
駅前広場。
いつもの場所に、宮島寅雄の姿があった。
だが、今日は演説をしていない。
彼はベンチに座り、遠くを見つめていた。
「……先生」
「おお、少年か。……今日は静かなもんだろ?」
宮島は苦笑した。
喉を痛めたらしい。
俺は持っていたのど飴を差し出した。
「無理は禁物ですよ。……身体が資本ですから」
「違いない。……だが、叫ばずにはいられないのが、政治家の性でな」
彼は飴を口に含み、目を細めた。
「……ところで少年。君は『赤』が好きか?」
「赤? ……色のですか?」
「そうだ。情熱の赤、革命の赤、そして……血の赤だ」
「……料理のトマトソースなら好きですが」
俺が答えると、彼は豪快に笑った。
「ハッハッハ! そうか、トマトか! ……いや、それでいい。日常の中にこそ、真実はある」
宮島は立ち上がり、俺の肩を叩いた。
「……今日はもう帰るよ。君の顔を見たら、元気が出た」
彼は雑踏の中へと消えていった。
その背中は、以前よりも少し大きく見えた。
「赤」という言葉に込められた意味。
それは、これからの激動の時代を予感させるものだったのかもしれない。
帰宅前に、東急本店のデパ地下へ。
宮島の言葉に触発されたわけではないが、今日の夕食は「赤」をテーマにしよう。
鮮魚コーナーで、昨日と同じく大粒のあさりを見つけた。
だが、今日は白ワインベースのビアンコではない。
完熟トマトを使った『ボンゴレ・ロッソ』だ。
青果コーナーで、真っ赤に熟したトマトを箱買いする。
ホールトマト缶もいいが、フレッシュなトマトを煮詰めたソースは格別だ。
さらに、サラダ用に有機栽培のベビーリーフ、ルッコラ、クレソン。
ガーリックトースト用に、フランスパンと青森県産のニンニク、無塩バター。
ワインセラーでは、イタリア・トスカーナ産の赤ワイン『キャンティ・クラシコ』を選んだ。
サンジョヴェーゼ種主体の、軽やかで酸味のある赤ワイン。
トマトソースとの相性は抜群だ。
重すぎないボディが、あさりの旨味を邪魔しない。
帰宅後、俺はキッチンに立った。
まずはトマトソース作りから。
トマトを湯剥きし、ざく切りにする。
オリーブオイルでニンニクと玉ねぎをじっくり炒め、香りを出す。
そこにトマトを投入し、弱火で煮詰める。
水分を飛ばし、旨味を凝縮させる。
コンソメや化学調味料は一切使わない。トマトの力だけで勝負する。
あさりは白ワインで酒蒸しにし、殻が開いたら一度取り出す。
残った煮汁をトマトソースに加え、乳化させる。
これがあさりの旨味を全体に行き渡らせるポイントだ。
パスタは表示時間より1分短く茹でる。
ソースの中で煮込むように絡めるためだ。
並行して、ガーリックトーストを作る。
バターを室温に戻し、すりおろしたニンニク、パセリ、塩を混ぜてガーリックバターを作る。
スライスしたフランスパンにたっぷりと塗り、オーブンでカリッと焼く。
香ばしい匂いがキッチンに充満する。
サラダは、洗った葉野菜をボウルに入れ、オリーブオイル、バルサミコ酢、塩、黒胡椒でシンプルに和える。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
深紅のソースを纏った『ボンゴレ・ロッソ』。
あさりの白と、パセリの緑が映える。
山盛りのグリーンサラダ。
黄金色に焼けたガーリックトースト。
そして、ルビー色に輝くキャンティ。
「いただきます」
まずはパスタから。
フォークで巻き取り、口に運ぶ。
……濃厚だ。
完熟トマトの甘みと酸味、そしてあさりの強烈な旨味が、口の中で爆発する。
ニンニクのパンチが効いているが、トマトの酸味が後味をさっぱりとさせる。
そこにキャンティを流し込む。
ワインの酸味がトマトと共鳴し、旨味をさらに引き上げる。
至福のマリアージュ。
ガーリックトーストをソースに浸して食べる。
パンの香ばしさとソースの旨味が合わさり、ワインが進む。
サラダの苦味が、口の中をリセットしてくれる。
一人静かな食卓だが、満足感は高い。
吉祥寺での情報収集、隼人との遊戯、涼さんとの再会、そして宮島の言葉。
今日一日の出来事を反芻しながら、俺はゆっくりと食事を楽しんだ。




