第56話 猫の視点とアイドルの逃避行
6月に入り、東京の空気は少しずつ湿度を増していた。梅雨の足音が聞こえる木曜日の朝。
俺は、通学中のハイヤーの中で一冊の専門書を読んでいた。
『猫の行動学』。
先日、高城藍と迷い猫を探した際に興味を持ち、購入したものだ。
猫のマーキング、発情期の行動、そして人間に対するコミュニケーション。
それらは気まぐれに見えて、全て生存本能に基づいた合理的なプログラムだ。
「……計算高い生き物だ。人間よりもよほど合理的かもしれない」
学校に到着し、午前中の授業をこなす。
4限目は体育だったが、俺は見学を届け出ていた。
昨日のジムでのトレーニングで筋肉痛が残っている……というのは建前で、単に時間を有効活用したかったからだ。
誰もいない静寂の図書室。
俺は窓際の席で、夏目漱石の『吾輩は猫である』を開いていた。
『吾輩は猫である。名前はまだ無い』
有名な書き出し。
人間社会を猫の視点から風刺したこの小説は、今の俺の境遇とどこか重なる。
15歳の少年の皮を被り、41歳の精神で世界を観察する俺。
周囲の高校生たちの青春群像劇を、一段高い場所から眺めている感覚。
それは優越感であると同時に、決して彼らの輪には入れないという孤独の証明でもある。
「……だが、猫には猫の生き方がある」
俺はページをめくった。
苦沙弥先生の滑稽な日常に、俺自身の「演技」を重ね合わせて苦笑する。
昼休み。
俺は桜木マナと連れ立って、昼食を……ではなく、学校を抜け出し、渋谷の『東急ハンズ』に来ていた。
『キッチン・チェリー』の新メニューに使う、特殊な調理器具を探すためだ。
「わぁ、すごい種類! これなら可愛いハンバーグ作れるかな?」
マナが目を輝かせている。
ショートボブの黒髪と、弾けるような健康的な笑顔。
制服の上からカーディガンを羽織っているが、その動きは小動物のように愛らしい。
彼女は星型やハート型の抜き型を手に取り、真剣に吟味している。
「お子様ランチ用のプレートも新調しましょう。……この飛行機の形など、レトロで良い」
「うん! あと、旗も立てたいな。……西園寺くん、センスいいよね」
「機能美を追求しているだけですよ」
俺たちは業務用キッチン用品のフロアを回った。
マナはもう、完全に「店を支える看板娘」の顔をしている。
翔太のことで悩んでいた頃の暗い影は微塵もない。
自分の足で立ち、自分の手で未来を掴もうとしている。
「……ありがとう、西園寺くん。付き合ってくれて」
「構いませんよ。コンサルタントの仕事の一環ですから」
「もう、素直じゃないなぁ。……あ、お礼にクレープ奢るね!」
彼女はハンズの出口にあるクレープ屋で、チョコバナナクレープを買ってくれた。
甘いクリームの味が、午後の活力になる。
彼女を学校まで送り届けた後、俺の携帯電話が震えた。
舞からだ。
『……社長。緊急です』
舞の声は、いつになく緊迫していた。
『天童様が……スタジオで倒れそうです。過労とプレッシャーで、限界が近いかと』
俺は即座にハイヤーを回させ、都内のテレビ局へと急行した。
スタジオの裏口。
そこには、蒼白な顔で壁に寄りかかっている天童くるみの姿があった。
マネージャーが心配そうに声をかけているが、彼女の耳には届いていないようだ。
連日のテレビ出演、取材、そしてCM撮影。
再ブレイクの波に乗るため、彼女は睡眠時間を削り、極限まで自分を追い込んでいたのだ。
圧倒的な美貌も、今は生気を失い、壊れかけの人形のように見えた。
「……くるみさん」
俺が声をかけると、彼女は虚ろな目でこちらを見た。
「……レオ? ……なんで、ここに……」
「迎えに来ました。……帰りましょう」
俺はマネージャーに目配せをし、くるみさんを抱きかかえるようにして車に乗せた。
「……まだ、仕事が……」
「キャンセルしました。違約金なら僕が払います。……今のくるみさんに必要なのは、仕事ではなく休息だ」
俺は強い口調で言った。
彼女は抵抗する力もなく、シートに沈み込んだ。
車が向かった先は、自宅でも事務所でもない。
南青山にある、会員制の隠れ家ホテルだ。
看板もなく、紹介制でしか入れないその場所は、マスコミはおろか、一般人の目にも触れることのない完全なプライベート空間だ。
俺は最上階のスイートルームを確保していた。
部屋に入り、彼女をソファに座らせる。
広々としたリビング、落ち着いた間接照明。
都会の喧騒が嘘のような静寂。
「……ここは?」
「僕の隠れ家です。誰も来ません。……携帯も切ってください」
俺は彼女に温かいハーブティーを渡し、隣に座った。
彼女はカップを両手で包み込み、震えていた。
温かさが指先から伝わり、少しずつ身体の緊張が解けていく。
「……怖かった」
ぽつりと、彼女が呟いた。
「期待されるのが、怖かった。……また失敗したらどうしようって。……みんなが褒めてくれるけど、それが全部嘘みたいで……」
再ブレイクのプレッシャー。
高まる期待値と、それに応えなければならないという強迫観念。
18歳の少女が背負うには、あまりに重すぎる荷物だ。
俺は何も言わず、彼女の頭を自分の膝に乗せた。
膝枕だ。
「……えっ、ちょっ……」
「じっとしていてください。……何も聞いていませんし、何もしません」
俺は彼女の髪を、ゆっくりと撫でた。
子供をあやすように。
あるいは、猫を愛でるように。
そこにあるのは、異性としての劣情ではなく、ただ純粋な「守りたい」という感情――父性にも似た庇護欲だった。
41歳の精神が、18歳の少女の痛みを包み込もうとしていた。
「……レオの手、おっきいね」
「そうですか?」
「うん。……なんか、お父さんみたい」
彼女は小さく笑い、そして――泣いた。
堰を切ったように、涙が溢れ出した。
俺の太ももに、温かい雫が染み込んでいく。
「……うぅ……辛かったぁ……! 怖かったよぉ……!」
彼女は声を上げて泣いた。
アイドルの仮面を脱ぎ捨て、ただの弱い女の子に戻って。
俺はずっと、彼女の髪を撫で続けた。
彼女が泣き止み、安らかな寝息を立て始めるまで。
数時間後。彼女は憑き物が落ちたような顔で目覚めた。
「……ごめん。服、ぐちゃぐちゃにしちゃった」
「構いませんよ。……スッキリしましたか?」
「うん。……ありがと。なんか、充電できた」
彼女はニッと笑った。
その笑顔には、もう迷いはない。
俺は彼女を自宅まで送り届けた。
彼女は別れ際に、「次はあたしが癒してあげるからね」と耳元で囁いた。
その言葉をお守りに、俺は帰路についた。
くるみさんを送り届け、一息ついた俺は、夕食の買い出しのために東急百貨店本店のデパ地下へと向かった。
今日の夕食は、心と体を優しく満たす和食にしよう。
鮮魚コーナーで、長崎県産の最高級『真アジ』を見つけた。
目が澄んでいて、背中の青さが鮮やかだ。身がパンパンに張っている。
これを「たたき丼」にする。
青果コーナーでは、皮が薄く瑞々しい『新じゃが』を。
泥付きのまま売られているそれを、甘辛い煮っ転がしにする。
さらに、お吸い物用にハマグリと三つ葉を購入。
飲み物は、酒ではなく炭酸水だ。
フランス産の天然発泡水『ペリエ』の瓶。
それに、国産の無農薬レモンを添える。
シュワッとした刺激で、一日の疲れをリセットする。
両手に食材を抱え、マンションに帰宅する。
エレベーターホールに向かうと、そこに見覚えのある人物が立っていた。
姉の摩耶だ。
今日の彼女は、大学帰りらしく少し大人びたトレンチコートを着ているが、手にはコンビニ袋ではなく、有名デパ地下の紙袋を持っている。
愛らしいボブカットが、俺を見て弾んだ。
「あ、玲央! お帰り! 待ち伏せ成功!」
「……姉さん。またですか」
俺は呆れて溜息をついた。
「『また』とは何よ! 可愛い弟が一人で寂しくご飯食べてるんじゃないかと思って、駆けつけてあげたのよ!」
「余計なお世話です。……と言いたいところですが、一人分作るのも二人分作るのも手間は変わりません。どうぞ」
「やった! さすが玲央! 愛してる!」
姉は俺の腕に抱きつき、一緒に部屋に入った。
リビングに入ると、彼女はすぐにコートを脱ぎ捨て、くつろぎモードに入る。
「で? 今日のメニューは何?」
「アジのたたき丼と、新じゃがの煮っ転がしです」
「最高じゃない! 和食食べたかったのよ~!」
姉が冷蔵庫からビールを取り出し、プシュッと開ける。
俺はキッチンに立ち、調理を開始した。
まずは新じゃがだ。
タワシで皮をこそげ落とし、一口大に切る。
油でさっと炒めてから、出汁、酒、砂糖、醤油で煮込む。
落とし蓋をして、強火で一気に。
水分が飛んで、煮汁が飴色に絡まるまで。
最後にバターをひとかけら。これでコクが出る。
次にアジ。
三枚におろし、皮を引く。
中骨を丁寧に抜き、細切りにする。
大葉、ミョウガ、生姜、万能ネギを刻み、アジと混ぜ合わせる。
包丁で叩くようにして味を馴染ませる。
隠し味に味噌を少し。これがアジの旨味を引き立てる。
炊きたての土鍋ご飯に、アジのたたきを山盛りに乗せる。
真ん中に卵黄を落とし、白ごまを振る。
醤油を回しかければ、完成だ。
ダイニングテーブルに並べる。
『アジのたたき丼』。
『新じゃがの煮っ転がし』。
『ハマグリのお吸い物』。
そして、氷を入れたグラスにペリエを注ぎ、レモンを絞る。
「いただきまーす!」
姉が豪快に丼をかき込む。
「んん~っ! 美味しい! このアジ、ぷりぷり!」
「新鮮ですからね。……ゆっくり食べてください」
俺も一口。
アジの食感と薬味の香り、そして卵黄のコク。
……美味い。
シンプルだが、贅沢な味だ。
新じゃがは、ホクホクとしていて甘い。バターの風味がビールに合うだろう。
「……ねえ玲央。あんた、今日なんかあった?」
姉が唐突に聞いてきた。
箸を止め、真剣な眼差しで俺を見ている。
「……何故です?」
「なんとなく。……なんか、優しい顔してるから」
姉は照れくさそうに笑った。
くるみさんを癒やした余韻が、残っているのかもしれない。
「誰かを守る」という行為は、自分自身の心も柔らかくする。
「……別に。ただ、良い一日だっただけですよ」
「ふーん。ま、いいけどさ。……あんたが幸せなら、お姉ちゃんは満足よ」
姉はビールを飲み干し、豪快に笑った。
この屈託のなさが、俺の救いだ。
姉が嵐のように帰った後。
俺はリビングでパズルに向かった。
1000ピースの『ゲルニカ』。ピカソの名画だ。
白と黒、そして灰色の断片。
混沌としたその絵は、今の俺の心象風景に近いかもしれない。
一つ一つのピースを埋めながら、思考を整理する。
パズルを解き終えた後、俺は書斎のPCに向かった。
検索エンジンに打ち込む名前は『葛城 玄斎』。
日本画壇の重鎮にして、白鳥恒一の師匠とされる人物だ。
画面に表示されたのは、着物を着た好々爺然とした老人の写真。
「清貧の画聖」と称賛される記事が並ぶ。
だが、舞の調査によれば、その裏の顔は醜悪だ。
弟子の作品を自分の名義で発表するゴーストペインター・システム。
才能の搾取。
そして、白鳥恒一に対する精神的な支配。
白鳥の才能を食い物にしている元凶。
「……美しい絵を描く人間が、美しい心を持っているとは限らないか」
俺は画面を睨みつけた。
鷹森の次は、この老害か。
芸術の世界は閉鎖的で、権威主義が蔓延っている。
切り崩すには、骨が折れそうだ。
だが、白鳥という才能を埋もれさせるわけにはいかない。
俺は新たな戦いの予感に、静かに闘志を燃やした。




