第55話 紙の宝石と冷たいスープの温度
6月に入り、東京の空気は次第に湿度を帯び始めていた。
梅雨入り前の、気まぐれな晴れ間。
放課後、俺は、移動中のハイヤーの後部座席で、手帳に記された資産リストを見返していた。
『Pokémon Card Game Base Set Booster Box - 400 units』
先日、秋葉原の視察を経て購入を決定し、独自ルートで輸入・確保した米国版ポケモンカードの未開封ボックスだ。
取得単価は1箱あたり約100ドル。総額でおよそ500万円の投資。
現在の俺の総資産からすれば微々たる金額だが、このアイテムが持つポテンシャルは、他の金融商品を遥かに凌駕する。
2024年、2025年といった未来において、この「初期版・未開封」という条件を満たしたボックスは、もはやカードではなく「文化遺産」として扱われる。
状態が良いものであれば、1箱あたり3,000万円から5,000万円。2020年代のピーク時には、オークションで億単位の値がついたケースさえある。
仮に控えめに1箱5,000万円で計算したとしても、400箱で200億円。
500万円が200億円に化ける。倍率は4,000倍だ。
どんなベンチャー株も、仮想通貨も敵わない、異常なリターン率。
「……紙の宝石、か。言い得て妙だな」
俺は手帳を閉じた。
温度と湿度が完全に管理された倉庫で、それらは25年の眠りにつく。
俺が40歳になる頃、このタイムカプセルを開封するのが楽しみだ。
車は渋谷の雑踏へと滑り込んでいく。
未来の資産も大事だが、今は現在の肉体をメンテナンスする必要がある。
渋谷の会員制スポーツジム。
平日の夕方ということもあり、フロアは比較的空いていた。
俺はいつものようにトレーニングウェアに着替え、ストレッチエリアで入念に体をほぐした。
15歳の関節は柔らかく、可動域も広い。
だが、油断は怪我の元だ。41歳の慎重さで、筋肉のコンディションを確認していく。
今日は下半身を中心に追い込む日だ。
スクワット、レッグプレス、レッグカール。
大腿四頭筋とハムストリングスに、的確な負荷をかけていく。
限界まで追い込み、オールアウトさせる。
脳内麻薬が分泌され、思考がクリアになっていく感覚。
ビジネスの戦略も、人間関係の悩みも、バーベルの重さの前では単純な物理法則に還元される。
1時間のワークアウトを終え、シャワーで汗を流した俺は、ラウンジのカウンターに向かった。
「……『ミックスベリーのプロテインスムージー』を」
注文を受けてから、スタッフが冷凍のベリーとプロテインパウダー、そして低脂肪乳をミキサーにかける。
鮮やかな紫色の液体がグラスに注がれる。
受け取り、一口飲む。
ベリーの強烈な酸味と、ミルクのまろやかさ。プロテイン特有の粉っぽさは全くない。
冷たい液体が、火照った食道を滑り落ち、枯渇した筋肉にアミノ酸を届ける。
「……ふぅ」
息をつくと、全身の細胞が喜んでいるのが分かった。
自己管理。
それは、他者を管理する前に果たすべき、最低限の義務だ。
俺はグラスの結露を指で拭いながら、窓の外の渋谷の街を見下ろした。
人々が蟻のように行き交っている。
その一人一人に人生があり、物語がある。
俺はその物語の、ほんの一部に関与しているに過ぎない。
だが、その関与が彼らの運命を少しでも良い方向へ変えられるなら、それは意味のあることだ。
ジムを出て、火照った体を冷ましながら公園通りを歩いていた時のことだ。
オープンテラスのあるカフェの前で、見覚えのある女性の姿を見つけた。
柚木沙耶さんだ。
今日の彼女は、初夏らしい涼しげな装いだった。
透け感のあるネイビーのシフォンブラウスに、白いタイトスカート。
足元は華奢なストラップサンダル。
アンニュイな肢体が、午後の日差しの中で気怠げに、しかし圧倒的な美しさを放って存在している。
シャギーの入ったショートボブが風に揺れ、憂いを帯びた切れ長の瞳が、通りを行き交う人々を観察するように彷徨っている。
その口元にある小さなホクロが、彼女のミステリアスな魅力を一層引き立てていた。
「……柚木さん」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を向け、俺を認めると、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
「あら。……社長さんじゃない」
「奇遇ですね。大学の帰りですか?」
「ええ。ゼミで絞られて、ちょっと糖分補給してたところ」
彼女のテーブルには、食べかけのレアチーズケーキとアイスティーが置かれている。
「西園寺くんは? ……またジム?」
「はい。定期的なメンテナンスです」
「ふふ、相変わらずストイックね。……座れば? 奢ってあげるわよ」
彼女は向かいの席を顎で示した。
俺は失礼して腰を下ろした。
まだプロテインを飲んだばかりだが、アイスコーヒーくらいなら入るだろう。
「……お言葉に甘えて。アイスコーヒーをお願いします」
「オッケー」
沙耶さんは店員を呼び、手慣れた様子で注文した。
待っている間、彼女は頬杖をつき、上目遣いで俺を見てきた。
「……ねえ。最近、舞の様子はどう?」
「至って順調ですよ。仕事も完璧ですし、体調も崩していません」
「そっか。……あの子、君の話するときだけ、すごく楽しそうな顔するのよね」
「……そうですか」
俺は少し照れくささを感じて視線を逸らした。
沙耶さんはクスクスと笑う。
「嫉妬しちゃうわ。……私の親友を奪った罪な男の子」
「奪ったわけではありません。彼女は彼女の意志で、僕の隣にいるだけです」
「はいはい。……でも、感謝してるわ。あの子、昔よりずっと生き生きしてるもん」
彼女の声は優しかった。
舞への友情と、俺への信頼。
そして、その奥にある微かな恋心。
それらが複雑に混ざり合い、彼女独特のアンニュイな雰囲気を作り出している。
「柚木さんも、無理はしないでくださいね。……レポート、手伝いましょうか?」
「バカ言わないで。年下に頼るほど落ちぶれてないわよ」
彼女はツンと澄ました顔をしたが、その耳は赤くなっていた。
素直じゃないところが、彼女の魅力だ。
「……あ、そういえば。もうすぐ梅雨入りね」
「そうですね。アジサイが咲き始めています」
「私、雨って嫌いじゃないの。……世界が静かになる気がして」
彼女は遠くを見るような目をした。
雨の日のバス停で泣いていた彼女を思い出す。
あの時、俺が差し出した傘が、彼女の心を守る盾になれたのなら幸いだ。
「……雨の日も悪くありませんね。柚木さんとこうして話せるなら」
「……っ! さらっとそういうこと言う……」
沙耶さんは顔を真っ赤にして、ストローをかき回した。
勝利だ。
俺はアイスコーヒーを飲み干し、席を立った。
「では、俺はこれで。夕食の準備がありますので」
「うん。……またね、 坊や」
彼女は手を振った。
その表情には、以前のような迷いはなく、清々しい色が浮かんでいた。
沙耶さんと別れた後、俺はいつものように東急百貨店本店のデパ地下へと向かった。
今日の夕食は、初夏の湿気を吹き飛ばすような、爽やかで洗練されたメニューにしたい。
鮮魚コーナーで、長崎県産の『イサキ』を見つけた。
「梅雨イサキ」とも呼ばれるこの時期のイサキは、産卵前で脂が乗っている。
皮目の美しい縞模様。目が澄んでいて、身に張りがある。
これをポワレにする。皮をパリッと焼き上げ、身はふっくらと仕上げる。
次に青果コーナー。
新じゃがと長ネギ、そして玉ねぎ。
これらを使って、冷製スープ『ヴィシソワーズ』を作る。
滑らかな舌触りと、ジャガイモの優しい甘みが、疲れた体に染みるはずだ。
さらに、付け合わせとしてスナップエンドウとミニトマトも購入。
最後に、ワインセラーへ。
……いや、今日は休肝日にしよう。
代わりに、ジューススタンドのようなフレッシュな飲み物が欲しい。
果物コーナーで、完熟の『ブラッドオレンジ』を見つけた。
イタリア・シチリア産。
これを絞って、炭酸で割る。
『ブラッドオレンジソーダ』。
ルビー色の液体が、食卓を華やかに彩るだろう。
両手に食材を抱え、俺は帰宅した。
すぐに調理に取り掛かる。
まずはヴィシソワーズから。
玉ねぎと長ネギを薄切りにし、バターでじっくりと炒める。焦がさないよう、弱火で甘みを引き出すのがポイントだ。
そこに薄切りにした新じゃがとブイヨンを加え、柔らかくなるまで煮込む。
粗熱が取れたらミキサーにかけ、滑らかなピュレ状にする。
これをさらに裏ごしする。このひと手間が、舌触りを劇的に変える。
牛乳と生クリームを加え、塩で味を調える。
冷蔵庫でキンキンに冷やす。器も冷やしておくのを忘れない。
次にイサキのポワレ。
三枚におろしたイサキに塩胡椒を振り、皮目に小麦粉を薄くはたく。
フライパンにオリーブオイルと潰したニンニクを入れ、香りを移す。
イサキを皮目から入れる。
ターナーで軽く押さえつけ、皮全体を均一に焼く。
皮がパリッとしてきたら、スプーンで熱い油を身にかける「アロゼ」。
身を裏返さず、油の熱だけで火を通すことで、ふっくらとした食感に仕上げる。
仕上げにバターをひとかけら落とし、風味をつける。
ソースは、フライパンに残った焼き汁にバルサミコ酢と醤油、少しのハチミツを加えて煮詰めたもの。
酸味とコクが、白身魚の脂とよく合う。
付け合わせのスナップエンドウは塩茹でに、ミニトマトは湯剥きしてオリーブオイルでマリネにする。
ブラッドオレンジを絞り、強炭酸で割る。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
ガラスの器に注がれた、純白のヴィシソワーズ。
香ばしい焼き色のついたイサキのポワレ、バルサミコソースの黒いライン。
そして、ルビー色に輝くソーダ。
色彩のバランスも完璧だ。
「いただきます」
まずはヴィシソワーズを一口。
……冷たい。
そして、驚くほど滑らかだ。
新じゃがの大地の香りと、玉ねぎの甘み、クリームのコクが一体となり、喉を滑り落ちていく。
上品で、優しい味。
レストランの味だ。
次にイサキ。
ナイフを入れると、パリッという小気味よい音がする。
口に運ぶと、皮の香ばしさと、身から溢れ出る脂の旨味が広がる。
バルサミコソースの酸味が、全体を引き締める。
……美味い。
素材の良さを最大限に引き出した調理法だ。
ブラッドオレンジソーダを流し込むと、爽やかな柑橘の香りが鼻に抜ける。
一人静かな食卓。
窓の外には、東京の夜景が広がっている。
贅沢な時間だ。
自分の手で作り出した料理と、空間。
それが俺の心を満たしていく。
食事をしながら、テレビをつける。
ゴールデンタイムのクイズ番組が放送されていた。
画面の中には、天童くるみの姿があった。
今日の衣装は、知的なイメージを意識したのか、ブレザー風のジャケットにチェックのスカートだ。
メガネをかけているのが、あざといが可愛い。
『問題。現在、世界で最も多くの人が使用している言語は?』
司会者の問いに、くるみさんがボタンを押す。
『中国語です! 人口比で言えば圧倒的ですね!』
正解。
英語と答えがちなひっかけ問題だが、彼女は冷静に統計データを把握している。
以前、俺が雑談の中で教えた知識だ。
彼女の記憶力と応用力には驚かされる。
『正解! 天童ちゃん、最近冴えてるねぇ!』
『えへへ、世界進出狙ってますから!』
彼女はカメラに向かってガッツポーズをした。
その笑顔は、自信と野心に満ちている。
彼女はもう、俺が守らなければならない「か弱い少女」ではない。
共に戦う「パートナー」として、確実に成長している。
「……頼もしい限りだ」
俺は画面に向かってソーダのグラスを掲げた。
彼女の活躍は、俺のビジネスにとっても最高の宣伝になる。
着メロサイトの会員数も、彼女の露出と共に右肩上がりだ。
食後、俺はリビングでくつろぎながら、パズルを手に取った。
先日完成させた『ニューヨークの摩天楼』。
それを崩し、箱に戻す。
完成したものを壊すのは惜しいが、執着してはいけない。
次は、もっと難解なパズルに挑むのだ。
例えば……この世界の経済という、巨大なパズルに。




