第50話 黒トリュフの香りと電子の首輪
1999年のカレンダーにおいて、第5土曜日は授業日だ。
桜花学園の午前授業を終えた俺は、昼食もそこそこに学校を後にした。
クラスメイトの城戸隼人が「カラオケ行かね? 新しい曲覚えたんだよ!」と誘ってきたが、「先約がある」と丁重に断った。
今日の俺には、ビジネスパートナーとの重要なミッションがある。
向かった先は、下町にある洋食屋『キッチン・チェリー』。
桜木マナの実家だ。
今日は土曜日だが、店の定休日。
シャッターが下ろされた店の裏口から入ると、厨房には熱気と、焦げた肉の匂いが充満していた。
「……う~ん、なんか違う。肉汁が足りないのかなぁ」
厨房の中央で、エプロン姿のマナが首を傾げていた。
ショートボブの黒髪をバンダナでまとめ、額には玉のような汗が浮いている。
白いコックコート風の作業着は、彼女の健康的なスタイルには少し大きすぎるが、それがかえって一生懸命さを際立たせている。
大きな瞳は真剣そのもので、15歳の少女というよりは、一人の料理人の顔をしていた。
「お疲れ様です、桜木さん。進捗はいかがですか?」
「あ、西園寺くん! いらっしゃい!」
彼女は俺を見ると、パッと表情を明るくした。
「あのね、限定ハンバーグの試作をしてるんだけど……。どうしても、西園寺くんが言ってた『特別感』が出なくて」
彼女が指差したのは、試作のハンバーグだ。
見た目は悪くない。だが、どこかパンチに欠ける。
近所の大手ファミレスチェーンに対抗するためには、家庭料理の延長では勝てない。「わざわざ足を運んで食べる価値のある味」が必要だ。
「……なるほど。努力の跡は見えます」
俺は持参した保冷バッグをテーブルに置いた。
「ですが、戦うための武器が足りません。……これを使ってください」
バッグから取り出したのは、竹皮に包まれた牛肉の塊と、小さな桐箱だ。
マナが目を丸くする。
「えっ……これ、松阪牛!? しかもA5ランク……?」
「ハンバーグにA5ランクの霜降りを使うのは邪道だと言われますが、赤身と脂のバランスを調整すれば最強の武器になります。……そして、これです」
俺は桐箱を開けた。
中には、黒いダイヤモンドのような塊が鎮座している。
黒トリュフだ。
芳醇で、どこか官能的な香りが厨房に広がる。
「と、トリュフ!? 本物!?」
「ええ。フランス産の最高級品です。……これをソースに使いましょう。香りで客を呼ぶのです」
マナは震える手で食材を見つめ、それから俺を睨むように見上げた。
「……西園寺くん。これ、材料費いくらするの? お店じゃ出せないよ?」
「初期投資です。まずは『味の頂点』を知ってください。原価計算は後で調整すればいい。……さあ、始めましょう」
俺はジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくった。
エプロンを借り、手洗い消毒を済ませる。
ここからは、共同作業だ。
まずはミンチ作りから。
市販の挽き肉は使わない。松阪牛のブロックを、包丁で粗く叩く。
機械で挽くよりも繊維が潰れず、肉本来の食感が残る。
つなぎのパン粉は、食パンをミキサーにかけた生パン粉。牛乳に浸してふやかしておく。
炒め玉ねぎは、飴色になるまでじっくりと時間をかけて甘みを引き出す。
「手早く、冷たいうちに混ぜるのがコツです。手の熱で脂が溶け出す前に」
「うん、わかった!」
マナの表情は真剣だ。
ボウルの中で肉と向き合う彼女の横顔は、美しく、そして頼もしい。
成形し、空気を抜く。
フライパンで表面を焼き固め、オーブンでじっくりと火を通す。
その間に、ソース作りだ。
赤ワインとフォンドボーを煮詰め、バターでモンテ(乳化)する。
最後に、刻んだ黒トリュフを惜しげもなく投入する。
――ジュウウゥゥ……。
ハンバーグが焼き上がる音。
オーブンを開けた瞬間、肉の香ばしさとトリュフの香りが爆発的に広がった。
「……すごい。匂いだけで、お腹が鳴りそう」
マナがごくりと喉を鳴らす。
皿に盛り付け、艶やかなソースを回しかける。
完成だ。
『松阪牛と黒トリュフの究極ハンバーグ』。
1999年の下町の洋食屋で出すには、オーバースペックかもしれない。だが、この「伝説」が店を救う起爆剤になる。
試食。
ナイフを入れると、肉汁がダム決壊のように溢れ出した。
口に運ぶ。
粗挽き肉の圧倒的な肉感、脂の甘み、そしてトリュフの香り。
それらが口の中で渾然一体となり、脳髄を揺さぶる。
「……おいしい……っ! 何これ、魔法みたい!」
マナが瞳を潤ませて叫んだ。
成功だ。
この味をベースに、原価を抑えた普及版を作ればいい。
俺たちは顔を見合わせ、ハイタッチをした。
その時だった。
「あっ、熱っ!」
マナが鉄板の端に触れてしまい、指を引っ込めた。
指先が赤くなっている。
「見せてください」
俺は即座に彼女の手を取り、流水に晒した。
冷たい水が患部を冷やす。
華奢で、働き者の手だ。小さな傷や火傷の跡がいくつかある。
それは彼女が料理人として努力してきた勲章だが、見ていて胸が痛む。
「……大丈夫ですか? 痛みは?」
「う、うん。平気。……ごめんね、ドジで」
「ドジではありません。名誉の負傷です。……ですが、大事な手です。もっと大切にしてください」
俺はタオルで優しく水を拭き取り、ポケットから取り出した軟膏を塗った。
さらに、丁寧に絆創膏を貼る。
至近距離。
マナの顔が、火傷のせいだけでなく赤く染まっているのが分かる。
上目遣いで俺を見つめる瞳が、潤んでいる。
「……西園寺くんって、過保護だよね」
「投資家は、資産のメンテナンスを怠らないものです」
「……もう。素直じゃないなぁ」
彼女は小さく笑い、貼られたばかりの絆創膏を愛おしそうに撫でた。
その空気感は、もはやビジネスパートナーの枠を超え、甘やかな熱を帯びていた。
夕方。
試作と片付けを終えた俺たちは、気分転換に外出することにした。
「新しいお皿を見に行きたい」というマナのリクエストで、自由が丘へ。
おしゃれな雑貨屋やインテリアショップが立ち並ぶ街だ。
「わぁ、これ可愛い! ハンバーグ乗せたら映えそう!」
マナは白い大皿を手に取り、目を輝かせている。
制服姿の彼女は、店内の雰囲気によく馴染んでいた。
等身大の15歳の少女。
だが、その視点は常に「店のため」に向いている。
「いいですね。余白を活かした盛り付けができそうです」
「でしょ? ……あ、こっちのカップもいいな。コーヒー用に」
俺たちは並んで店内を見て回った。
傍から見れば、休日のデートを楽しむ高校生カップルにしか見えないだろう。
翔太がこれを見たら発狂するかもしれないが、今のマナの心に彼の入る隙間はない。
「……今日はありがとう、西園寺くん。すごく自信がついた」
帰り道、駅の改札前でマナが言った。
夕日が彼女の笑顔を照らしている。
「私、頑張るね。お店も、勉強も。……西園寺くんに、置いていかれないように」
「君なら大丈夫です。……期待していますよ、パートナー」
俺たちは握手を交わし、別れた。
彼女の手は温かかった。
店も、彼女の恋心も、順調に育っている。
夜。
俺は一度帰宅し、着替えてから再び外出した。
向かったのは、芝公園。
ライトアップされた東京タワーの真下だ。
オレンジ色の光が、夜空を焦がすように輝いている。
ベンチに、深く帽子を被った小柄な女性が座っていた。
天童くるみだ。
変装用の黒縁メガネをかけているが、その圧倒的な小顔と、モデルのようなバランスの良さは隠しきれていない。
勝気でキュートな美貌。
彼女は携帯電話をいじりながら、退屈そうに足をぶらつかせている。
「……お待たせしました、くるみさん」
「遅い! 5分も待ったわよ!」
彼女は顔を上げ、頬を膨らませた。
だが、その目は笑っている。
再ブレイクの兆しが見え始め、多忙を極める彼女だが、俺との時間は無理やりにでも作ってくれる。
「申し訳ありません。……その代わり、良いものをお持ちしました」
「なになに? スイーツ?」
俺はポケットから、一台の携帯電話を取り出した。
まだ市場には出回っていない、最新機種のプロトタイプだ。
カラー液晶、和音着メロ対応、そして軽量化されたボディ。
開発中の端末を、特別ルートで入手したものだ。
「……新しい携帯?」
「ええ。くるみさんに渡しておきます。……これには、特別な機能がついています」
俺は端末を彼女の手のひらに乗せた。
シルバーのボディが、東京タワーの光を反射する。
「登録されている番号は、俺の直通回線だけです。……この端末からの発信は、いかなる時も最優先で俺に繋がります。回線が混雑していても、強制的に割り込む仕様になっています」
GPS機能も内蔵されているが、それは言わないでおく。
彼女の身に何かあった時、即座に駆けつけるための命綱だ。
芸能界という魔窟。
権藤のような輩は排除したが、リスクはゼロではない。
くるみさんは携帯をまじまじと見つめ、それからニヤリと笑った。
「……なにこれ。首輪?」
「人聞きが悪いですね。ホットラインと言ってください」
「ふふっ。……でも、悪くないわね」
彼女は携帯を胸に抱きしめた。
「なんか……守られてるって感じがする。あんたが繋がってるってだけで、怖いものなしな気がするわ」
「その通りです。君がどこにいても、僕が必ず見つけ出します。だから、安心して前に進んでください」
「……うん。ありがと、レオ」
彼女は少し顔を赤らめ、はにかんだ。
その表情は、トップアイドルの仮面を脱いだ、ただの恋する少女のものだった。
束縛めいているが、彼女にとってはそれが絶対的な安心感となる。
俺たちは並んで東京タワーを見上げた。
巨大な鉄塔が、俺たちの未来を照らしているようだった。
帰宅後。
俺はシャワーを浴び、リビングでくつろいでいた。
窓の外には、先ほどまで見ていた東京タワーが小さく見える。
携帯電話が鳴った。
城戸隼人からのメールだ。
『件名:暇か? 明日、暇なら遊びに行かね? 新しいゲーセン見つけたんだよ! 真田の悪口でも言いながら遊ぼうぜ!』
文字面から、彼の明るい声が聞こえてくるようだ。
悪友からの誘い。
普段なら二つ返事でOKするところだが、明日はダメだ。
明日は日曜日。
そして、俺にはどうしても外せない「予定」が入っていた。
それは、ビジネスでもなければ、ヒロインたちとのデートでもない。
もっと個人的で、そして重要な用事だ。
俺は返信を打った。
『すまない。明日は先約がある。また来週にしてくれ。追伸:英語の課題は終わったのか?』
送信ボタンを押す。
すぐに『うげっ! 忘れてた! 勉強するわ!』という返信が来た。
やはり単純だ。
俺は携帯を置き、キッチンへ向かった。
夕食の準備だ。
今日は魚介の気分だ。
東急本店の鮮魚コーナーで仕入れたのは、今が旬の『イサキ』。
産卵前のこの時期、身に脂が乗って最も美味しくなる「梅雨イサキ」の走りだ。
これを丸ごと一匹使い、『和風アクアパッツァ』にする。
まずはイサキの下処理。
鱗と内臓を取り除き、皮目に切れ込みを入れる。塩を振り、少し置いて臭みを抜く。
フライパンにオリーブオイルと潰したニンニクを熱し、香りを出す。
イサキを投入。
皮目をパリッと焼き上げる。
そこに、砂抜きしたアサリ、ミニトマト、ブラックオリーブを加える。
通常は白ワインを使うところだが、今日は日本酒を注ぐ。
さらに、昆布出汁を少々。
これが「和風」の決め手だ。
蓋をして蒸し煮にする。
数分後、アサリの口が開き、イサキのふっくらとした身から旨味が溶け出す。
仕上げに、イタリアンパセリではなく、木の芽を散らす。
山椒の爽やかな香りが、魚の脂を引き締める。
副菜は『焼き野菜のマリネ』。
ズッキーニ、パプリカ、エリンギをグリルパンで焼き色がつくまで焼き、熱いうちに特製の出汁酢に漬け込む。
和風の酸味が、疲れた体に染み渡る。
酒は、宮城県の銘酒『浦霞 禅』。
純米吟醸。
上品な吟醸香と、柔らかい口当たり。
魚介の繊細な旨味を邪魔せず、引き立ててくれる最高の一本だ。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
大皿の真ん中に鎮座するイサキのアクアパッツァ。
アサリとトマトの彩りが美しい。
一人静かに手を合わせる。
「いただきます」
イサキの身を箸でほぐし、口に運ぶ。
ふっくらとした白身に、アサリと昆布の出汁が染み込んでいる。
トマトの酸味とオリーブの塩気がアクセントになり、日本酒のコクが全体をまとめる。
そこに冷えた『浦霞』を流し込む。
……完璧な調和だ。
洋食の技法と和の食材の融合。
それは、既存の枠組みにとらわれない、俺の生き方そのもののようだ。
テレビをつけると、深夜のニュース番組が流れていた。
ITバブルの株価高騰、新興企業の台頭。
世界は目まぐるしく動いている。
だが、この食卓だけは、俺の揺るぎない聖域だ。




