第43話
土曜日。
週末の通学電車は、平日とは違う緩やかな空気を孕んでいる。
俺は吊り革に掴まり、文庫本を開いていた。
コンスタンチン・スタニスラフスキー著『俳優修業』。
『役を生きるとは、その人物の「超目標」を理解し、内面から動機づけることである』
……なるほど。
俺にとっての今の「一五歳の西園寺玲央」という役割もまた、一種のメソッド演技だ。
中身は四一歳の老獪な経営者だが、それを悟られずに青春を演じ、同時に周囲を支配する。
この演技論は、ビジネスにおける交渉術や、敵を欺くブラフにも応用できる。
俺はページをめくり、自己のペルソナを再定義した。
二限目、『現代文』。
教壇に立っているのは、今週から教育実習生として戻ってきている高村 遥だ。
二〇歳。大学三年生。
グレーのタイトスカートのスーツに身を包んだ彼女は、教室の空気を一変させていた。
黒板にチョークを走らせる指先。少しタレ気味の瞳にかかる長い睫毛。
彼女が動くたびに、男子生徒たちの視線が磁石のように吸い寄せられる。
「綺麗なお姉さん」という言葉がこれほど似合う女性もいないだろう。
「……では、この傍線部における主人公の心情。『諦念』の中に含まれる『微かな希望』について、説明できる人はいますか?」
遥が教室を見渡す。
誰も手を挙げない中、彼女の視線が俺に止まった。
「西園寺くん。……お願いできるかしら?」
指名された俺は、静かに立ち上がった。
教科書を一瞥もしない。答えは明白だ。
「主人公は現状を受け入れていますが、それは敗北ではありません。彼は『変わらない日常』の中にこそ、自己の存在証明を見出そうとしています。それは消極的な諦めではなく、意志を持った停滞、すなわち『静的な希望』と言えるでしょう」
教室が静まり返る。
遥は目を見開き、それから花が咲くように微笑んだ。
左の頬に、愛らしいえくぼが浮かぶ。
「……素晴らしいわ、西園寺くん。私の想定していた模範解答以上の解釈ね。文章の行間を、とても深く読めているわ」
彼女の声は、教師としての称賛であり、一人の読書家としての共感だった。
俺は一礼して着席した。
その時だ。
背後から、焼けるような視線を感じた。
振り返らずとも分かる。
日向 翔太だ。
彼の幼馴染である遥が、公衆の面前で、あろうことか「敵」である俺を絶賛した。
その事実が、彼のちっぽけなプライドを焦がしているのだ。
放課後。
俺は図書室へ向かい、借りていた『競争の戦略』と『俳優修業』を返却カウンターに置いた。
そして新たに、物流システムに関する専門書と、国際金融の実務書を借りた。
帰りのタクシーの中で、俺は二つの巨大な事業計画を脳内で組み立てていた。
一つは、「オンラインFX取引プラットフォーム」。
これには五〇〇〇万円を投じる。
内訳はシステム構築と銀行提携に三〇〇〇万円、マーケティングに二〇〇〇万円だ。
現在のドル円相場は一ドル一〇〇円から一〇二円のレンジで推移しているが、これから円安トレンドに入る。
当時の外貨預金は手数料が高すぎる。
そこに「手数料無料」「二四時間取引可能」というキラーコンテンツをぶつける。
ターゲットは、後に「ミセス・ワタナベ」と呼ばれることになる、日本の主婦や個人投資家層だ。彼女たちが目覚める前に、受け皿を作っておく。
数年後、この事業は数百億円の利益を生むモンスターになるだろう。
そしてもう一つ。
FXが「虚業」の極みなら、こちらは「実業」の極みだ。
「ネット宅配買取サービス」。
ターゲットは、家の押し入れに眠るトレーディングカード、ゲーム、古本。
これを「箱に詰めて送るだけ」で買い取る。
立ち回りはこうだ。
1.物流・倉庫確保
埼玉や千葉の郊外に、格安の巨大倉庫を借りる。ここを拠点とし、大量のアルバイトを雇用する。
2.データベース構築
ここが勝負の分かれ目だ。
当時の「ブックオフ」などは、店員の目利きで査定していたため、レア物が二束三文で買い叩かれたり、逆に安く売られたりしていた。
俺はバーコードを読み取るだけで、瞬時に市場価格と連動した査定額が出るシステムを開発する。
これにより、専門知識のないバイトでも高速かつ正確な査定が可能になる。
3.iモード連携
集客は自社の着メロサイトで行う。「要らないゲームを売って、着メロ代を稼ごう」という広告は、若年層に強烈に刺さる。
そして、仕入れた商品はどうするか?
国内ならサービス開始直後の「ヤフオク」、海外なら「eBay」で販売する。
特に日本のゲームやアニメグッズは、海外で高値で売れる。
国内で安く仕入れ、海外で高く売る。アービトラージだ。
今の「駿河屋」や「まんだらけ」のようなポジションを、一〇年前倒しで確立する。
FXで金を回し、宅配買取で物を回す。
カネとモノ。両方の流通を支配する。
午後三時。
俺は物件視察の帰り、浅草・押上エリアにいた。
隅田川の東岸。
まだ何もない、古い操車場の跡地。
一三年後、ここには世界一の塔『スカイツリー』が立つことになる。
だが今は、下町の風情が残る雑多な街並みが広がっているだけだ。
その路地裏で、見覚えのある二人組を見かけた。
日向翔太と、高村遥だ。
「ねえ、遥姉ちゃん! ここ、今度新しいカフェができるんだって! 行こうよ!」
「翔太くん、離して。……私、今は実習中で忙しいの。それに、学校の外で生徒と二人きりは良くないわ」
遥は困惑していた。
彼女は教育実習生としての立場を重んじ、節度ある距離を保とうとしている。
だが、翔太にはそれが通じない。
「なんだよそれ! 俺たちは幼馴染だろ? 教師とか生徒とか関係ないじゃん!」
「関係あるの。……翔太くん、あなたももう高校生なんだから、もう少し大人になりなさい」
遥が諭すように言う。
その横顔は、美しくも冷ややかだった。
かつて近所の優しいお姉さんとして、翔太を甘やかしてくれた「遥ちゃん」は、もういない。
そこにいるのは、教師としての責任感を持った大人の女性だ。
だが、翔太の目には、その現実が映っていない。
彼の脳裏には、今日の授業の光景――遥が俺を褒め称えたシーン――が焼き付いているのだろう。
(なんでだよ……。遥姉ちゃんは、俺の味方だろ? なんであんなスカした野郎を褒めるんだよ……)
翔太の歪んだ瞳が、遥の腕を掴む手に力を込めさせた。
「……分かったよ。じゃあ、約束して。実習が終わったら、俺とデートするって」
「翔太くん、痛い……!」
「約束してよ! 俺のものだって、証明してよ!」
――所有欲。
それは愛ではない。
自分のおもちゃが他人に奪われそうになった幼児の癇癪だ。
俺は物陰からその様子を見ていたが、これ以上は危険と判断し、携帯を取り出して警察に通報するふりをした。
わざと大きな声で話す。
「……はい、押上二丁目の路上で、女性が男に絡まれています。……ええ、制服姿の」
翔太がビクリと肩を震わせ、パッと遥の手を離した。
周囲を見回し、逃げるように走り去っていく。
残された遥は、乱れた袖を直し、深く溜息をついた。
その表情には、幼馴染への失望と、得体の知れない恐怖が刻まれていた。
俺は姿を見せずに立ち去った。
今の彼女に必要なのは、俺という新たな異物との接触ではない。
翔太という「かつての庇護者」が、「現在の加害者」になり得るという認識を植え付けることだ。
種は蒔かれた。
夕方。
俺は渋谷のオフィス近くのカフェテラスで、天童 くるみと合流した。
彼女はアイスラテを飲みながら、少し退屈そうに頬杖をついていた。
「……ねえ、西園寺くん。さっき電話で言ってた『おもちゃ』って何?」
「これだ」
俺は鞄から一枚のカードを取り出した。
『ポケモンカードゲーム』のリザードン。
「は? カード? ……子供の遊びじゃない」
「今はな。だが、アメリカでは今まさにポケモンブームが爆発しようとしている。向こうではまだ品薄で、日本のカードが高値で取引され始めているんだ」
一九九九年。
日本ではブームが定着し、おもちゃ屋に行けば定価で買える。
だが、海の向こうではゴールドラッシュが起きている。
この温度差を利用しない手はない。
「宅配買取で集めたカードを、アメリカへ流す。紙切れがドル札に変わる錬金術だ」
「……あんた、本当に何でも金に変えるのね」
「金じゃない。価値の移動だ」
くるみは呆れつつも、その瞳には「また面白いことを始めた」という期待の色が宿っていた。
帰宅した夜。
俺はベランダに出て、育てている観葉植物に水をやった。
仕上げに、試験的に導入した「天然・植物栄養剤」を一滴垂らす。
葉が青々と輝く。
植物も、ビジネスも、人間関係も同じだ。
適切な環境と、適切な栄養、そして適切な剪定。
これさえ間違わなければ、必ず望む形に育つ。
俺は夜空を見上げた。
日向翔太の心に芽生えた黒い執着。
高村遥の心に生まれた警戒心。
そして、俺が構築する巨大な経済圏。
すべてが動き出している。
一九九九年五月二二日。
未来のスカイツリーが見下ろす街で、俺は静かに次の手を考えた。




