第41話
木曜日。
五月の風が教室のカーテンを揺らしている。
二限目、『世界史』。
教壇に立つ教師は、黒板に一七世紀のヨーロッパ地図を描きながら、気怠げな生徒たちを見渡した。
「……さて。三十年戦争の講和条約である『ウェストファリア条約』。これによって確立された、現代の国際関係の根幹となる概念は何か? ……おい、そこの西園寺。答えてみろ」
また指名か。
俺は読んでいた洋書に栞を挟み、立ち上がった。
「『主権国家体制』の確立です。教皇や皇帝という超国家的な権威が否定され、対等な独立国家同士が外交を行うシステムが生まれました。もっとも、現代ではグローバル経済という新たな『超国家的権威』が、その国境を溶かし始めていますが」
俺が皮肉交じりに付け加えると、教師は眼鏡の位置を直し、「……後半は余計だが、正解だ」と唸った。
教室中から「また西園寺かよ」「あいつ辞書食ったんじゃねえの」という囁きが漏れる。
俺は意に介さず着席した。
国境など、インターネットの前では無意味だ。俺がこれから作ろうとしているのは、そのデジタルな国境さえも支配するシステムなのだから。
昼休み。
俺は校内の喧騒を避け、少し離れた公園のベンチでサンドイッチを食べていた。
そこで、奇妙な光景に出くわした。
公園の噴水の縁に、一人の少年が座り込んでいる。
制服は見慣れないブレザー。近くにある芸術系の高校、聖鳳芸術学院の生徒だろう。
彼はスケッチブックを膝に置き、鉛筆を走らせているのだが……その顔色が、死人のように青白い。
「……おい。大丈夫か」
俺が声をかけると、少年はゆっくりと顔を上げた。
深い藍色に近い黒髪。手入れされていない無造作な髪が、澄み切った瞳にかかっている。
端整な顔立ちだが、生気がない。
彼は俺を見ても驚きもせず、ただ事実を述べた。
「……線が、歪む。エネルギーが足りない」
「空腹か?」
「うん。昨日から、絵の具を買うかパンを買うかで迷って、ウルトラマリンブルーを選んだから」
……常軌を逸している。
俺は手元のコンビニ袋から、予備のサンドイッチを取り出し、彼に放ってやった。
「食え。死なれたら目覚めが悪い」
「……いいの? ありがとう」
少年――白鳥 恒一は、包装を不器用に破り、サンドイッチを頬張った。
モグモグとリスのように食べる姿は、どこか幼く、無防備だ。
だが、彼が食べ終え、少し生気を取り戻した瞳で俺を見た瞬間、空気が変わった。
「君、面白い構造をしているね」
「構造?」
「うん。外側はすごく硬いグレーの箱なのに、中には燃えるような赤と、冷たい青が混ざってる。……描いてもいい?」
彼は俺の許可も待たずに、サラサラと鉛筆を走らせ始めた。
その手つき。
迷いがない。対象を見る目線と、手が直結しているかのような速度。
数分後、彼が見せたスケッチブックには、ベンチに座る俺の姿があった。
だが、それは写実的なデッサンではない。
俺が纏う「威圧感」や「孤独」、そして内にある「野心」までもが、数本の線だけで完璧に表現されていた。
天才だ。
俺は直感した。
一九九九年のウェブサイトは、テキストと画像の羅列に過ぎない。だが、これからの時代、ユーザーを惹きつけるのは「UI/UX」、つまりデザインの力だ。
論理だけでは届かない領域。そこに、この感性が必要になる。
「……白鳥、だったか。お前、バイトに興味はないか?」
「バイト? お金がもらえるの?」
「ああ。画材も、飯も、好きなだけ買えるくらいのな」
「やる。……君のそばにいれば、面白いものが描けそうだし」
交渉成立。
俺は「学外の親友」にして、最強のデザイナーを手に入れた。
放課後。
俺は渋谷のスポーツショップに向かう途中、交差点で一人の女性とすれ違った。
柚木 沙耶だ。
一九歳の女優。
彼女は変装用の伊達眼鏡をかけていたが、その滲み出るオーラは隠せていない。
シンプルなトレンチコートを着ているだけなのに、まるで映画のワンシーンのように周囲の空間を切り取っている。
信号待ちをするサラリーマンたちが、ちらちらと彼女を盗み見ている。
「……奇遇だな、沙耶」
「あ、玲央くん!」
俺の声に、彼女がパッと顔を輝かせる。
クールな女優の仮面が剥がれ、恋する乙女の顔になる瞬間。
「今、オーディションの帰りなの。……ねえ、少し時間ある?」
「すまない、これから用事があるんだ。また今度、ゆっくり話を聞く」
「う……残念。でも、玲央くんが忙しいのはいいことだもんね。……無理しないでね?」
沙耶は少し残念そうに、でも物分かり良く微笑んだ。
以前のような依存的な粘着質さはなく、適度な距離感を保てるようになっている。舞との「友人関係」が、彼女の精神的安定に寄与しているようだ。
俺は彼女の美しい髪を一度だけ撫でてやり、その場を離れた。
彼女の頬が朱に染まるのを背中で感じながら。
スポーツショップで、俺はプロテインの大袋を購入した。
『SAVAS』のホエイプロテイン。
一五歳の成長期の体だ。脳だけでなく、肉体というハードウェアもアップデートし続けなければ、俺の野望には耐えられない。
その足で、近くの診療所へ向かう。
定期検診だ。
身長、体重、血圧、血液検査。
前世では不摂生で体を壊し、四一歳で死んだ。その轍は踏まない。
医師から「極めて健康。アスリート並みですね」というお墨付きをもらい、俺は診療所を後にした。
夜。
渋谷のオフィス。
俺はホワイトボードの前に立ち、相棒の城戸隼人と、秘書の如月舞に新たな事業構想を説明していた。
先ほどスカウトした白鳥恒一も、部屋の隅で興味なさげにオフィス内の観葉植物をスケッチしている。
「いいか。次に仕掛けるのは『ASP』だ」
俺はボードに図解する。
広告主と、サイト運営者を仲介するシステム。
成果報酬型広告。
「一九九九年の今、ネット広告といえば『バナーの枠売り』が主流だ。だが、これからは違う。サイト経由で『商品が売れた時だけ』報酬が発生する仕組み……これが爆発的に普及する」
Amazonアソシエイトはまだ日本に来ていない。
バリューコマースやA8.netが創業するのも、まさに今年だ。
つまり、市場はガラ空きのブルーオーシャン。
「立ち回りはこうだ」
1.システム開発
クリック数や購入コンバージョンを正確にトラッキングするシステムを構築する。ここには金を惜しまない。不正クリックを排除し、信頼性を担保することがASPの生命線だ。
2.営業部隊
「ネットで商品を売りたいが、ノウハウがない」企業を開拓する。カタログ通販会社、金融、資料請求系の企業がターゲットだ。
3.自社活用
ここが最大の強みだ。
俺たちが運営する「着メロサイト」や「待ち受け画像サイト」は、既に膨大なトラフィックを持っている。
そこに、自社ASPの広告を貼りまくる。
他社のメディアが育つのを待つ必要がない。「自給自足」で、初月から圧倒的な実績データと売上を作れる。
「Google AdSenseが日本に来る前に、この国の広告ネットワークを押さえる。iモード市場の拡大と共に、我々のASPは自動的に巨大化する」
完璧なシナリオだ。
舞が静かにメモを取り、隼人が「よく分かんねーけど、師匠が言うなら間違いねえ!」と拳を握る。
そして、隅で絵を描いていた白鳥が、ボソリと言った。
「……そのシステム、画面がダサいと誰も使わないよ。僕が色を塗ってあげる」
俺はニヤリと笑った。
論理に、感性が加われば、鬼に金棒だ。
帰宅後。
俺はソファでプロテインを飲みながら、テレビのクイズ番組を眺めていた。
『平成教育委員会』。
難問が出題され、タレントたちが頭を抱えている。
『問題。一九世紀、イギリスで起こった機械打ちこわし運動を何という?』
「……ラッダイト運動」
俺が呟いた三秒後、テレビの中の東大生タレントが同じ答えを口にして正解した。
知識があることは前提だ。
重要なのは、その知識から何を学び、どう未来に応用するか。
ラッダイト運動は、新しい技術への恐怖から生まれた。
今、インターネットという新しい技術に恐怖し、拒絶する企業は多い。
だが、俺は知っている。
技術の進歩は誰にも止められないことを。
俺はその「進歩」の波に乗り、その頂点に立つ。
アフィリエイト事業。
それは、俺がこの国の「デジタルの流通網」を支配するための、次なる布石だ。
一九九九年五月二〇日。
新たな仲間と、新たな地図を手に入れた夜。
俺は静かにテレビを消し、明日の戦略を練り始めた。




