第41話 成果報酬の罠と芸術家の飢餓
昨日の雨が嘘のように晴れ渡り、初夏の陽気が戻ってきた東京。
私立桜花学園の1年A組の教室では、古典の授業が行われていた。
教壇に立つ老教師が、黒板に『源氏物語』の一節を書き写している。
「……さて。ここの『あはれ』という言葉だが、単なる感嘆ではない。光源氏の複雑な心情、すなわち罪の意識と無常観が入り混じった感情を表している。……西園寺、現代の倫理観と照らし合わせて、この場面の特異性を説明できるか?」
またしても指名された。
俺は、手元の洋書から顔を上げ、静かに席を立った。
光源氏と藤壺の禁断の関係。
それは、平安時代の貴族社会におけるタブーでありながら、物語の根幹を成す悲劇的要素だ。
「はい。現代の倫理観では、義理の母との関係は近親相姦的であり、道徳的に断罪されるべき行為です。しかし、当時は母系制の名残があり、また『もののあはれ』という美的価値観が倫理よりも上位に置かれる傾向がありました。作者である紫式部は、この禁忌を犯すことで生じる苦悩こそが、人間の業であり、美しさであると描こうとしたのではないでしょうか。現代におけるコンプライアンス重視の視点とは対極にある、文学的真実です」
俺は淡々と、しかし核心を突く回答を述べた。
教師は眼鏡の奥で目を細め、深く頷いた。
「……うむ。文学の本質を捉えた良い回答だ。座りなさい」
着席すると、隣の席の城戸隼人が「お前、マジで何なんだよ……平安貴族の生まれ変わりか?」と小声で囁いてきた。
俺は苦笑する。
貴族ではないが、修羅場をくぐってきた数は彼らにも負けないつもりだ。
◇
放課後。
俺は学校を出て、青山方面へ向かって歩いていた。
新しいビジネスのヒントを探すためのフィールドワークだ。
表参道の交差点に差し掛かった時だった。
奇妙な視線を感じて、足を止めた。
「……待ってくれ! 君だ!」
背後から、芝居がかった大声が聞こえた。
振り返ると、一人の少年が息を切らして駆け寄ってくる。
見覚えのない制服。おそらく、近くにある都立蒼山芸術高校の生徒だろう。
そして何より、その容姿が異様だった。
陶器のように白い肌と、切れ長の瞳を持つ、浮世離れした美少年。
黒髪を無造作に流し、背筋をピンと伸ばした立ち姿は、まるで彫像のようだ。
だが、着ている私服が酷い。
季節外れのベルベットのジャケットに、ペンキで汚れたスラックス。
美貌と服装のギャップが、彼を「残念なイケメン」に仕立て上げている。
「……僕に何か用ですか?」
「動かないでくれ! その角度、その光の陰影……完璧だ!」
彼は俺の目の前で立ち止まり、両手の指でフレームを作って俺を覗き込んだ。
瞳が怪しく輝いている。
「美しい……。君という存在は、まさに生きた芸術だ。その憂いを帯びた瞳、計算された指先の動き……。頼む、僕のモデルになってくれないか? ヌードでも構わないのだが?」
「……お断りします。そして警察を呼びますよ」
俺は冷たく言い放ち、歩き出そうとした。
関わってはいけないタイプだ。
だが、彼はしつこく食い下がってきた。
「待ってくれ! 僕は怪しい者じゃない! 白鳥恒一、しがない画学生だ! 君を描きたいという情熱が爆発しそうで……ぐぅ」
自己紹介の途中で、盛大な腹の虫が鳴った。
美少年の顔が、苦痛に歪む。
「俺は西園寺玲央だ。大丈夫ですか?」
「……美を語るには、カロリーが不足しているようだ。西園寺、そこの草は食べられるだろうか?」
「……はぁ」
俺は深く溜息をついた。
芸術家というのは、なぜこうも生活能力が欠如しているのか。
だが、彼の目――獲物を見定める鋭い観察眼には、無視できない輝きがあった。
俺のビジネスには、論理だけでなく「美学」が必要だ。
特に、これから始める広告事業やECサイトのデザインには、常識に囚われない感性が不可欠になる。
「……ついて来てください。草よりはマシなものを奢りましょう」
「本当か!? 感謝する! 君は美の守護神か!」
俺たちは近くのカフェに入り、彼にサンドイッチとコーヒーを注文した。
白鳥恒一は、優雅な手つきで、しかし猛烈な勢いでサンドイッチを平らげた。
食べている姿すら絵になるのが腹立たしい。
「生き返ったよ。……で、君は西園寺玲央というのか。良い名前だ。響きに気品がある」
「どうも。……白鳥くん、君は絵を描くと言いましたね。デザインはできますか?」
「デザイン? 商業美術のことか? ……興味はないが、美の法則に従うなら造作もないことだ」
彼はナプキンを取り出し、懐から出したペンでさらさらと何かを描き始めた。
それは、カフェの店内のスケッチだったが、驚くべきことに、空間のバランスと光の配置が完璧に捉えられていた。
そして、その横に即興でロゴのようなものを描く。
洗練されたタイポグラフィ。
一目見て分かった。彼は本物だ。
「……合格だ。白鳥くん、僕の会社で働きませんか?」
「会社? サラリーマンになれと言うのか? 断る。僕は自由な芸術家だ」
「給料は出しますよ。画材も買い放題です」
「……画材、買い放題?」
彼の目が欲望に揺れた。
「君の芸術的才能を、ビジネスというキャンバスで発揮してほしいのです。……君のセンスが必要だ」
俺は名刺を差し出した。
彼は名刺をまじまじと見つめ、そしてニヤリと笑った。
「……面白い。君というパトロンの元でなら、新しい美が生まれるかもしれないな。……いいだろう、契約成立だ」
こうして、俺の会社に「アートディレクター」が加わった。
彼の独特な感性が、無機質なITビジネスに彩りを与えることになるだろう。
カフェを出た後、俺は白鳥を連れて画材屋『世界堂』へ向かった。
約束通り、彼に必要な画材を買い与えるためだ。
彼は水を得た魚のように店内を飛び回り、高級な絵具や筆をカゴに入れていく。
「このウルトラマリンの色味……素晴らしい! これで君の瞳の深淵を描ける!」
「僕を描くのは禁止です。……サイトのロゴと、バナーのデザイン案を描いてください」
俺は彼にスケッチブックを一冊買い与えた。
『マルマン』の図案スケッチブック。
これが彼の、そして俺たちの武器になる。
白鳥と別れた後、俺は渋谷へと戻った。
駅前のドラッグストアに立ち寄る。
柚木沙耶さんがアルバイトをしている店だ。
店内に入ると、レジカウンターに気だるげな美女の姿があった。
今日の彼女は、白衣の下に黒のタートルネックを着ている。
アンニュイなショートボブと、口元のホクロ。
生活感はあるが、彼女の周りだけ空気が違う。
昨日の雨のバス停での一件を経て、俺たちの距離は確実に縮まっている。
「……いらっしゃいませー。ポイントカードは……あら」
彼女は俺に気づくと、パッと表情を明るくした。
昨日見せた涙の痕跡はなく、いつもの余裕のある大人の女性の顔だ。
だが、その瞳には親愛の色が混じっている。
「こんにちは、社長さん。……また来たの?」
「ええ。必要なものがありましたので」
俺がカゴに入れたのは、栄養ドリンクの『ユンケル』と、ホットアイマスクだ。
自分用ではない。
「……これ、差し入れです。昨日は雨に濡れましたから、風邪を引かないように」
「えっ……?」
「それと、目の疲れにはこれが効きます。……レポート、大変なんでしょう?」
俺は会計を済ませ、商品をそのまま彼女に手渡した。
沙耶さんは目を丸くし、それから頬を染めて笑った。
「……もう。本当に生意気なんだから」
彼女は嬉しそうに商品を受け取った。
「ありがと。……大事に使うわ」
「ええ。……では、また」
俺は短く別れを告げ、店を出た。
背中に感じる彼女の視線が、心地よい熱を帯びていた。
帰宅後。
俺は自室の書斎で、舞と電話を繋いでいた。
テーマは新規事業、『アフィリエイト・サービス・プロバイダ』の立ち上げだ。
「……広告主とサイト運営者を仲介するシステム、ですね」
『そうだ。従来の「枠売り広告」ではなく、「成果報酬型」の広告モデルだ』
俺は熱っぽく語った。
1999年現在、ネット広告といえばバナーを貼って終わり、という単純なものが主流だ。
だが、広告主は「本当に効果があるのか?」と疑心暗鬼になっている。
そこで、クリック数や購入数に応じて報酬を支払うシステムを提供する。
Google AdSenseが日本に上陸するのはまだ先の話。
A8.netやバリューコマースが産声を上げるこの時期に、市場を一気に押さえる。
「システム開発に2,000万円。広告のトラッキングを正確に行うための堅牢なシステムが必要だ」
『承知いたしました。優秀なエンジニアをアサインします』
「次に営業部隊に1,000万円。『ネットで商品を売りたいがノウハウがない』企業を開拓しろ。健康食品、金融、そして出会い系……いや、コンプライアンス的にグレーなものは排除しつつ、利益率の高い商材を集める」
そして、俺には必勝の策がある。
「自社活用」だ。
「我々には、すでに数万人の会員を持つ『着メロサイト』がある。ここに自社ASPの広告を貼りまくり、圧倒的な実績データを作るんだ」
『なるほど……! 自給自足で黒字化を確定させ、その実績を元に他社へ営業をかけるのですね』
「その通りだ。鶏と卵の問題を、自前の鶏で解決する」
これがコングロマリットの強みだ。
メディアと広告代理店を両方持つことで、利益を最大化できる。
「このASP事業は、将来的に我々の収益の柱になる。……頼んだぞ、舞」
『はい。必ず成功させます、玲央様』
彼女の力強い返事を聞き、俺は通話を終えた。
窓の外には、東京の夜景が広がっている。
この無数の光の向こうに、未知なる広告市場が眠っている。
それを掘り起こすのは、俺だ。
仕事を終え、リビングでくつろいでいると、テレビから聞き覚えのある声が流れてきた。
ゴールデンタイムのクイズ番組だ。
画面には、回答席に座る天童くるみの姿があった。
アイドル衣装に身を包んでいるが、その表情は真剣そのものだ。
『さあ、第3問! 鎌倉幕府の成立年は!?』
司会者の問いに、くるみさんが早押しボタンを叩いた。
『はい! 1192年です! ……でも、最近は1185年説も有力なんですよね!』
おお。
以前、俺が教えた知識を完璧に使いこなしている。
「イイクニ」という定説を答えつつ、補足知識を披露することで「勉強しているアイドル」というポジションを確立する。
完璧な立ち回りだ。
司会者も「おぉ~! よく知ってるねぇ!」と感心している。
『正解! 天童ちゃん、賢いねぇ!』
『えへへ、猛勉強しましたから!』
画面の中で、彼女は満面の笑みでピースサインをした。
その笑顔は、自信に満ち溢れている。
彼女はもう、誰かに作られた人形ではない。
自分の言葉で、自分の価値を証明できるプロフェッショナルだ。
「……よくやった」
俺は画面に向かってグラスを掲げた。
彼女の活躍は、俺のビジネスにとっても追い風となる。
全てが上手く回っている。
白鳥という新たな才能、沙耶さんとの進展、そしてビジネスの拡大。
1999年の5月は、俺にとって飛躍の月になりそうだ。




