第40話
水曜日。
中間試験が終わり、日常が戻ってきた学園。
俺は図書室の窓際で、新着図書のリストを眺めながら、先日実行した「GT-R艦隊計画」について反芻していた。
一〇台のGT-Rを、乗らずに塩漬けにする。
狂気の沙汰だと言われたが、これこそが最も安全な投資だ。
株式は、発行元の会社が倒産すれば紙切れになる。
だが、現物は違う。特に「二五年前の未走行の新車」となれば、それは工業製品の枠を超え、文化遺産となる。
時間が経てば経つほど、その希少性は指数関数的に跳ね上がる。
俺が買ったのは鉄の塊ではない。「一九九九年という時間そのもの」なのだ。
昼休み。
俺は中庭のベンチで、穏やかな陽光を浴びていた。
隣には、この学園における癒やしの象徴が座っている。
「ん~、いい天気だねぇ、レオくん」
花村 結衣。
十六歳の先輩であり、クレープ屋の看板娘。
彼女は購買で買ったパンを頬張りながら、日向ぼっこをしている猫のように目を細めている。
制服のブラウスが、彼女の豊満すぎるバストラインを隠しきれずに張り詰めているが、本人は全く無自覚だ。
その柔らかそうな肢体と、ふんわりとした笑顔は、見ているだけでこちらの戦意を喪失させる効果がある。
「そうですね。……先輩は、いつも幸せそうだ」
「えへへ、そうかな? だって、お日様はポカポカだし、メロンパンは美味しいし。幸せじゃない理由がないよ~」
結衣は屈託なく笑う。
この単純明快な幸福論。
複雑な金融工学や人間関係の謀略に生きる俺にとって、彼女の存在は一種の解毒剤だ。
俺は彼女との短い会話で脳をリセットし、午後の戦闘に備えた。
放課後。
俺は渋谷の書店に立ち寄った。
ビジネス書コーナーで新刊をチェックする。
棚には「インターネット革命」「ドットコムの衝撃」といった煽り文句が並んでいる。
だが、俺が探しているのは、その先にある概念だ。
「成果報酬型広告」。
一九九九年の日本には、まだこの言葉は浸透していない。Amazonのアソシエイトプログラムすら日本未上陸だ。
『バリューコマース』や『A8.net』が創業するのが、まさに今年、一九九九年。
個人のウェブサイトが「稼ぐ媒体」に変わる瞬間は、すぐそこまで来ている。
俺は関連書籍を一冊購入し、店を出た。
続いて向かったのは、裏通りのミリタリーショップ「アンタッチャブル」。
店長の源田鉄次と言葉を交わし、最新の護身グッズをチェックする。
平和な日本とはいえ、資産を持つ者は常にリスクに備えねばならない。
夕方。
俺は上野公園の噴水広場で、彼女と待ち合わせていた。
「……お待たせ、玲央くん」
柚木 沙耶。
一九歳の大学生にして女優。
今日の彼女は、美術館デートに合わせてか、シックなモノトーンのワンピースに、鮮やかなスカーフを巻いている。
その洗練された立ち姿は、通り過ぎる人々が振り返るほど美しい。
だが、以前のような危うい儚さは消え、どこか芯の通った落ち着きがある。
彼女の隣には、なぜか俺の秘書である如月 舞が立っていた。
舞は俺にファイルを渡すために合流していたのだが、二人の間に流れる空気は意外なほど穏やかだった。
「あら、舞ちゃん。またそんな難しい顔して。眉間にシワが寄るわよ?」
「……余計なお世話です、柚木様。これは仕事ですので」
「ふふ、真面目ねぇ。たまには肩の力を抜かないと、いい仕事もできないわよ? 人生の先輩からのアドバイス」
沙耶が舞の肩をポンと叩く。
舞は普段なら嫌悪感を示すところだが、小さく溜息をつくだけで受け入れている。
――奇妙な関係だ。
舞は、俺の役に立つ人間以外を排除する傾向がある。だが、沙耶のことは「社長の精神安定に必要な“友人”」として認識し、受け入れているようだ。
一方、沙耶にとって舞は、自分より年下(同い年だが精神的には沙耶が上だと思っているらしい)の堅物女子に見えるらしく、ここぞとばかりに「先輩風」を吹かせている。
花村結衣の前では毒気を抜かれる舞だが、沙耶に対しては「やれやれ」といった態度で接しており、それが沙耶の承認欲求を満たし、精神的な安定に繋がっている。
共依存ではない、健全な相互関係。悪くない。
「では社長、私はこれで」
「ええ、バイバイ舞ちゃん。また女子会しましょ」
「……検討しておきます」
舞が去った後、俺と沙耶は東京都美術館へと入った。
開催されているのは『印象派展』。
沙耶は一枚の絵の前で足を止めた。
「……光の描き方が、優しいね」
「ああ。輪郭をあいまいにすることで、空気感を描いている」
「役作りも似てるかも。……はっきりと演じるんじゃなくて、その場の空気に溶け込むように」
彼女の横顔は、展示されている絵画以上に芸術的だった。
感性を磨く時間。
それは俺にとっても、数字の羅列から離れる貴重なひとときだ。
美術館を出た後、俺はベンチで携帯を取り出し、証券会社の担当に電話をかけた。
今、世界はIT株に熱狂している。
ヤフーやソフトバンクを買えば、誰でも儲かる相場だ。
だが、俺が注文したのは、真逆の銘柄だった。
「……ああ、俺だ。注文を頼む。原油先物ETF、あるいはエクソンモービルなどの石油メジャー株だ」
「は……? 石油、ですか? 今はIT株が……」
「いいから買え。予算は四五〇〇万円だ」
電話の向こうで担当者が絶句している。
無理もない。一九九九年の原油価格は一バレルあたり一〇ドル台。底値もいいところだ。「オールドエコノミーは死んだ」と言われている時代だ。
だが、歴史は繰り返す。
二〇〇〇年代に入ると、中国やインドの台頭によりエネルギー需要が爆発する。
そして二〇〇八年、原油価格は一バレル一四〇ドルを突破する。
今仕込んでおけば、その時には一〇倍以上になる。配当再投資を含めればそれ以上だ。
何より、来たるべきITバブル崩壊時の「避難先」として、石油株は最強の防具となる。
「……人の行く裏に道あり花の山、だ。手続きを頼む」
俺は通話を切った。
これで、攻めと守りのバランスが取れた。
その後、俺は帰路についた。
駅前の広場で、いつものように演説をしている宮島寅雄に軽く挨拶をする。
「少年、今日の顔つきは一段と鋭いな。何か大きな決断をしたか?」
「ええ。少しばかり、黒い黄金を買いました」
「ほう……。相変わらず読めない男だ」
宮島と別れ、自宅近くの商店街を歩いていると、前方に妙な光景を見かけた。
幼馴染の日向 翔太だ。
彼は一人の女性にしつこくつきまとっていた。
「ねえ、遥姉ちゃん! 久しぶりじゃん! お茶しようよ!」
「……翔太くん。急にどうしたの? 久しぶりに会ったと思ったら」
女性が困ったように、しかし優雅に微笑んでいる。
高村 遥。
二〇歳。翔太とマナの幼馴染であり、現在は教育学部の大学生だ。
彼女の美しさは、遠目からでも際立っていた。
夕闇の中でも発光しているかのような白い肌。鼻筋から顎にかけての滑らかな曲線は、まさに「教科書の挿絵」にしたいほどの整い方だ。
ラフなニットにデニムという格好だが、そのスタイルの良さと上品な所作が、彼女を「ただの美人」から「高嶺の花」へと押し上げている。
長い睫毛が落とす影が、彼女の表情に憂いと知性を与えている。
「いいじゃん、大学生なんだから暇でしょ? 俺、悩みとか聞いてほしいな~なんて」
「ごめんね。私、これから教育実習の準備があるの。また今度ね」
遥は優しく、しかし毅然と断った。
その口調は、駄々をこねる子供をあしらう保母さんのようだ。
翔太は「えー、ちぇっ」と舌打ちをしている。
……逆効果だ。
遥のような聡明な女性にとって、翔太のような「成長しない子供」は恋愛対象外だ。
俺は影からその様子を冷ややかに観察し、通り過ぎた。
帰宅後、俺はキッチンに立った。
今夜の夕食は中華だ。
メインは『チンジャオロース』。
食材は妥協しない。
肉は黒毛和牛のモモ肉。これを細切りにし、酒、醤油、卵白、片栗粉で揉み込む。この下味が、肉を柔らかくし、旨味を閉じ込める。
タケノコとピーマンも、肉と同じ太さに切り揃える。この「切り揃える」という作業こそが、中華料理の美学だ。
中華鍋を煙が出るまで熱する。
油通し。
肉をさっと油にくぐらせ、色が変わったらすぐに引き上げる。
鍋に油を残し、生姜とネギを炒めて香りを出す。
肉と野菜を一気に投入。
ジャァァァッ!!
爆音と共に炎が上がる。
合わせ調味料を回しかけ、鍋を振る。
強火で一気呵成に仕上げる。水分を出さず、シャキシャキ感を残すのがプロの技だ。
サイドメニューは『中華風コーンスープ』。
クリームコーン缶に鶏ガラスープを加え、溶き卵を流し入れる。仕上げにごま油を垂らす。
ごはんは、新潟県産コシヒカリを少し硬めに炊いた。
「……完成だ」
テーブルに並ぶ、艶やかなチンジャオロース。
ピーマンの緑とタケノコの黄色、肉の茶色が美しいコントラストを描いている。
合わせるのは、最高級の中国茶『大紅袍』。
岩茶の王様と呼ばれる、濃厚な香りの烏龍茶だ。
「頂きます」
チンジャオロースを口に運ぶ。
シャキッとしたピーマンの歯ごたえ。
柔らかい牛肉から溢れる脂の甘み。
オイスターソースのコクが全体を包み込み、白飯を猛烈に欲させる味だ。
ごはんをかき込む。
……美味い。
そこに熱い中国茶を流し込むと、口の中の油がすっきりと洗い流され、茶の香りが鼻に抜ける。
完璧なローテーションだ。
食後。
満たされた気分で、俺はソファでクロスワードパズルを広げた。
静かな夜。
ペンを走らせながら、今日の出来事を整理する。
GT-Rの保管、原油への投資、沙耶と舞の関係、そして高村遥との遭遇。
すべてのピースが、あるべき場所に収まっていく感覚。
「タテの5。『未来を予見する者』……」
「……『ヨゲンシャ』、か。あるいは『トウシカ(投資家)』か」
俺は迷わず『トウシカ』と書き込んだ。
一九九九年五月一九日。
世界がITバブルに浮かれる中、俺だけが黒い黄金と青い鉄塊を抱き、静かにその時を待っている。




