第40話 雨音の告白と黒い黄金
昨日の興奮がまだ冷めやらぬまま、俺は、通学中の車内で昨日の投資について反芻していた。
地下ガレージに眠る9台の日産スカイラインGT-R。
金融商品とは違い、これら実物資産には「会社倒産」というリスクが存在しない。日産自動車がどうなろうと、あの車の価値は変わらないどころか、希少性は増すばかりだ。
25年後、内燃機関が過去の遺物となる時代において、あの車は単なる乗り物ではなく、20世紀末の技術と情熱を封じ込めた「文化遺産」レベルの価値を持つことになる。
「……良い買い物をした」
俺は手帳に記された資産リストを眺め、満足げに頷いた。
守りの資産はこれで盤石だ。
次は、攻めと守りを兼ね備えた、より巨大な市場に目を向ける必要がある。
車窓の外、空には重たい雲が垂れ込めていた。天気予報は下り坂だ。
昼休み。
俺は図書室を訪れた。
新着図書のコーナーをチェックするためだ。
ビジネス書や専門書の新刊に目を通し、情報のアップデートを行う。
静寂に包まれた館内を歩いていると、閲覧席の窓際で、ふわふわとしたオーラを放つ女子生徒を見つけた。
花村結衣先輩だ。
今日の彼女は、少しサイズの合わないブラウスのボタンを一番上まで留め、真剣な表情でファッション誌を読んでいる。
艶やかな黒髪が肩にかかり、長い睫毛が伏せられている。
その横顔は、いつもの天然な雰囲気とは少し違い、年頃の少女らしい可憐さに満ちていた。
窓からの柔らかな光が、彼女を聖女のように照らし出している。
「……花村先輩」
声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、パッと顔を上げた。
俺を認めると、花が咲くような笑顔になる。
「あ! 西園寺くん! 王子様だぁ!」
静かな図書室に、彼女の鈴を転がすような声が響く。
「こんにちは。……また『王子様』ですか」
「だってぇ、王子様だもん。……ねえねえ、これ見て! この服、セイラちゃんに似合うと思わない?」
彼女は雑誌のページを指差した。
シックなモノトーンのワンピース。確かに、霧島セイラのクールな美貌に合いそうだ。
「ええ、よくお似合いになると思いますよ。……先輩は、ご自分の服は?」
「私はいいの。セイラちゃんが可愛くなれば、私が嬉しいから!」
彼女は屈託なく笑った。
自分よりも友人を優先する、その純粋な献身。
計算高い人間ばかりを見てきた俺にとって、彼女の存在は心のオアシスだ。
「……先輩のそういうところ、素敵だと思いますよ」
「えへへ、照れるなぁ。……あ、予鈴鳴っちゃう! またね、西園寺くん!」
彼女は雑誌を棚に戻し、手を振って去っていった。
その無邪気な後ろ姿を見送りながら、俺は少しだけ心が軽くなるのを感じた。
放課後。
予報通り、空からポツポツと雨が落ちてきた。
俺は傘を差し、渋谷の街へ出た。
まずは『ブックファースト』へ。
新刊のラインナップを確認し、今後のITトレンドを予測する手がかりを探す。
一冊の本を購入した。『インターネット・マーケティングの衝撃』。
まだ「アフィリエイト」という言葉すら定着していないこの時代、ネット広告の未来を予見する内容は興味深い。
続いて、センター街にある『HMV』へ。
CDショップの視聴機で、最新のヒットチャートをチェックする。
宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、鈴木あみ。
J-POP黄金期の熱気は凄まじい。
着メロ事業のラインナップを考える上で、このトレンド把握は欠かせない。
俺は数枚のシングルCDを手に取り、レジへ向かった。
買い物を終え、帰路につこうとした時だった。
雨脚が強まってきた。
通り沿いのバス停に、一人の女性が佇んでいるのが見えた。
屋根はあるものの、吹き込む雨で足元が濡れている。
彼女は傘を持たず、ただぼんやりと雨に煙る街を見つめていた。
柚木沙耶さんだ。
今日の彼女は、ベージュのトレンチコートを羽織っているが、その背中はどこか小さく、心細げに見えた。
アンニュイな美貌が、雨の冷たさと相まって、触れれば壊れてしまいそうな儚さを帯びている。
お台場での逃走、そして書店での再会。
彼女の中で、答えはまだ出ていないのだろうか。
俺は静かに近づき、彼女の頭上に傘を差し出した。
雨音がふっと遠のく。
「……え?」
沙耶さんが顔を上げた。
濡れた前髪の隙間から、驚きに見開かれた瞳が俺を捉える。
「……西園寺、くん?」
「奇遇ですね。傘はお持ちでないのですか?」
「……うん。予報、見てなくて」
彼女は力なく笑った。
その笑顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
俺は彼女の隣に立ち、傘を傾けた。
「……舞から聞きましたよ。貴女が、彼女のことをどれだけ大切に思っているか」
俺が切り出すと、沙耶さんは身体を強張らせた。
「舞は言っていました。『沙耶が幸せなら、私はそれを応援する』と。……彼女は、貴女が思っている以上に、貴女の幸せを願っています」
「……っ」
「貴女が舞を裏切りたくないように、舞もまた、貴女に我慢してほしくないと思っている。……違いますか?」
俺の言葉に、沙耶さんは唇を噛み締めた。
そして、堰を切ったように瞳から涙が溢れ出した。
「……ずるいわよ、二人とも」
彼女は両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
「私だって……舞のこと、大好きだもん。……でも、気持ちが止められないの。……どうすればいいか、分かんないのよ……!」
雨音に混じって、彼女の嗚咽が響く。
初めて見せる、大人の女性の弱音。
心理学で武装した彼女の、素っ裸の心。
俺は何も言わず、彼女の肩を抱き寄せた。
濡れたコート越しに、彼女の体温と震えが伝わってくる。
しばらくして、彼女は泣き止んだ。
充血した目で俺を見上げ、照れくさそうに鼻をすする。
「……ごめん。服、濡らしちゃった」
「構いません。……少し、温かいものでも飲みに行きましょうか」
「ううん。……ちょっと、遊びたい気分」
彼女は強がって見せた。
その瞳には、吹っ切れたような光が宿り始めていた。
「付き合ってくれる? 社長さん」
「ええ。どこへでも」
俺たちは近くのダーツバーに入った。
薄暗い店内。ジャズが流れる大人の空間。
沙耶さんはカクテルを、俺はジンジャーエールを頼み、ダーツの前に立った。
「勝負よ。負けた方が願い事を一つ聞く」
「いいでしょう」
ゲームが始まる。
沙耶さんのフォームは美しいが、今日は少し荒れている。
感情の揺れが、指先に伝わっているのだろう。
俺は冷静に、確実にブルを射抜いていく。
「……強いわね、君は。何でもできちゃうんだから」
「練習の結果ですよ」
「ふふ、可愛くない」
彼女は笑い、ダーツを投げた。
矢は的を外れ、壁に当たって落ちた。
「……あーあ。完敗ね」
彼女はソファに座り込み、カクテルを煽った。
「願い事、決まった?」
「ええ。……今度、舞と三人で食事に行きましょう」
「……え?」
「それが僕の願いです。……逃げずに、向き合ってください。僕とも、舞とも」
俺の言葉に、沙耶さんは目を丸くし、それから観念したように息を吐いた。
「……分かったわよ。君には敵わないわ」
彼女は微笑んだ。
その笑顔は、雨上がりの空のように澄んでいた。
沙耶さんをタクシーに乗せて見送った後、俺は帰路についた。
車内で、舞に電話をかける。
『お疲れ様です、社長。……沙耶と会われていたのですね』
「ああ。……彼女、近いうちに君に連絡すると思うよ」
『そうですか。……ありがとうございます、玲央様』
舞の声が弾んでいた。彼女もまた、親友との関係修復を望んでいたのだ。
プライベートな報告を終え、俺はビジネスモードに切り替えた。
「さて、次の投資だ。……手元資金4,500万円を動かす」
『はい。投資先は?』
「原油先物ETF、あるいはエクソンモービルなどの石油メジャー株だ」
1999年、原油価格は1バレル10ドル台という歴史的安値水準にあった。
だが、新興国の経済成長に伴うエネルギー需要の増大は避けられない。
2008年には140ドルを突破するほどの高騰を見せる。
10倍以上の値上がり益に加え、石油メジャーの高配当も期待できる。
何より、来年のITバブル崩壊時、実物資産に裏付けされたエネルギー株は避難先として機能する。
「全額、エネルギーセクターへ振り向けてくれ」
『承知いたしました。……リスクヘッジも完璧ですね』
舞の手際の良さに感謝しつつ、通話を終えた。
駅前広場を通ると、いつものように宮島寅雄が演説をしていた。
雨の中でも、彼は立っている。
その姿に、俺は敬意を抱かずにはいられない。
「……こんばんは、先生」
「おお、少年。雨の中ご苦労だな」
宮島はタオルで顔を拭いながら笑った。
「先生こそ。……風邪を引きますよ」
「ハッハッハ! 政治家にとって風邪は油断の証だ。気合で吹き飛ばすさ」
俺たちは少しの間、日本のエネルギー政策について言葉を交わした。
資源のない日本がどう生き残るか。
彼の視点は鋭く、そして現実的だ。
「……金も大事だが、最後は『人』と『資源』だ。それを忘れるなよ、少年」
「肝に銘じます」
彼との対話は、常に俺の視座を高めてくれる。
帰宅前に、東急本店のデパ地下へ。
今日の夕食は中華だ。
『最高級のチンジャオロース』を作る。
精肉コーナーで、黒毛和牛のモモ肉ブロックを購入。脂が少なく、肉の旨味が強い部位だ。
野菜コーナーでは、肉厚のピーマンと、有機栽培の筍の水煮を。
さらに、中華風コーンスープのために、生のトウモロコシとクリームコーンの缶詰も。
飲み物は、中国茶専門店で『東方美人』という最高級の烏龍茶を選んだ。
蜂蜜のような甘い香りが、中華の油をさっぱりと流してくれる。
帰宅後、調理開始。
牛肉、ピーマン、筍を全て同じ太さの千切りにする。
この「切り揃える」作業が、食感の統一感と見た目の美しさを生む。
牛肉には下味をつけ、片栗粉をまぶして油通しする。
これで肉の旨味を閉じ込め、柔らかく仕上げる。
中華鍋を煙が出るほど熱し、油を馴染ませる。
生姜とネギを炒め、香りが立ったら具材を一気に投入。
――ジャァァァッ!
強火で煽る。
合わせ調味料を鍋肌から回し入れ、全体に絡める。
仕上げに化粧油を垂らし、完成。
調理時間はわずか数分。スピード勝負だ。
コーンスープは、生のトウモロコシの芯から出汁を取り、粒とクリームコーンを加えて煮込む。
溶き卵を流し入れ、ふんわりと仕上げる。
炊きたてのご飯と共にテーブルに並べる。
チンジャオロースの艶やかな照りが食欲をそそる。
「いただきます」
シャキシャキのピーマンと筍、そして柔らかい牛肉。
オイスターソースの濃厚な味が、白飯を無限に進ませる。
そこに香り高い東方美人を流し込む。
……完璧だ。
一人の食事だが、心は満たされている。
食後、俺はリビングでパズルに向かった。
1000ピースの「バベルの塔」。
崩れ去る塔を組み上げながら、俺は新たなビジネスモデルについて思考を巡らせた。
1999年現在、日本にはまだ「成果報酬型広告」の概念が希薄だ。
Amazonアソシエイトも日本には上陸していない。
だが、バリューコマースやA8.netが創業したのが、まさに今年だ。
インターネット広告の潮流が変わる。
クリック保証型から、成果報酬型へ。
個人のウェブサイトや、俺が作ろうとしている「日記サイト」が、メディアとして収益を生む時代が来る。
「……囲い込んだユーザーを、広告塔に変える」
俺のサーバー事業と、アフィリエイトシステムの融合。
それが実現すれば、俺の支配領域はさらに盤石になる。




