第38話
月曜日。
中間試験明けの気怠さが、澱のように校舎の底に溜まっている。
窓の外は五月晴れ。初夏の光が降り注いでいるが、生徒たちの目は死んだ魚のように濁っていた。
祭りの後の虚無感。それが月曜日の朝と重なり、教室の空気は重い。
一限目、『政治・経済』。
教壇に立つのは、定年間近の老教師だ。彼は黒板にゆっくりと『欧州単一通貨ユーロ』と書き込んだ。
今年の一月に導入されたばかりの新しい通貨概念。まだ現金流通は始まっておらず、決済通貨としてのスタートを切った段階だ。
「……さて。ヨーロッパが一つになるというこの壮大な実験。諸君はどう見るかな?」
教師が教室を見渡す。誰も目を合わせようとしない。
面倒ごとは避けたいという集団心理。
教師は溜息をつき、出席簿に視線を落とした。
「では……試験の成績が良かった、西園寺。君の意見を聞こう」
またか。
俺は内心で苦笑しながら、席を立った。
周囲の生徒たちが「助かった」という安堵の表情を浮かべる。
「通貨統合は、経済圏の拡大という意味では合理的です。為替リスクの消失、価格の透明性、金利の低下。これらは欧州経済を活性化させるでしょう」
俺は教科書通りのメリットを並べた後、一拍置いて続けた。
「ですが、致命的な欠陥があります。それは『金融政策の一元化』に対し、『財政政策がバラバラ』であることです。ドイツのような強国と、財政規律の緩い南欧諸国が同じ通貨を使えば、いずれ歪みが生じます。好況時はいいですが、不況になれば、独自の為替調整ができない弱小国は破綻の危機に瀕するでしょう」
教室が静まり返る。
教師が目を見開いた。
「……君は、ユーロが失敗すると?」
「失敗とは言いません。ですが、十年後、二十年後に必ず『構造的な危機』が訪れます。その時、この通貨が真価を問われることになるでしょう」
二〇一〇年のギリシャ危機、そしてユーロ危機。
未来を知る俺には、そのシナリオが鮮明に見えている。
教師は「……末恐ろしい生徒だ」と呟き、俺を着席させた。
斜め後ろの席から、城戸 隼人が「師匠、何言ってるか全然わかんねぇけどスゲェ!」と小声で崇めてくる。
俺は肩をすくめた。ただの事実を述べたまでだ。
昼休み。
俺は喧騒を逃れ、静寂を求めて図書室へと向かった。
その奥まった窓際、いつもの特等席に、先客がいた。
霧島 セイラ。
一六歳のトップモデルにして若手女優。
彼女は分厚いハードカバーの本を膝に乗せ、窓の外の木漏れ日をぼんやりと眺めていた。
その横顔は、あまりにも完成されすぎている。
透き通るような色素の薄い肌は、光を吸い込んで内側から発光しているかのようだ。亜麻色の髪が、微風に揺れてサラサラと流れる。
長い睫毛が落とす影さえも、計算された芸術のように美しい。
彼女は人間というより、精巧に作られた「ビスクドール」だ。触れれば冷たく、強く握れば壊れてしまいそうな、硝子の少女。
「……ここ、いいですか?」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。
ガラス玉のような瞳が、俺を映す。
「……どうぞ。ここは誰の場所でもないわ」
俺は向かいの席に座り、持ってきた洋書を開いた。
会話はない。
だが、居心地の悪さはなかった。
彼女もまた、言葉を必要としていない。ただ、隣に誰かがいるという「体温」だけを確認しているようだった。
一〇分ほど経った頃、セイラがぽつりと呟いた。
「……ユーロの話、凄かったらしいわね」
「盗み聞きですか?」
「噂よ。……西園寺くんは、未来が見えているみたい」
「予測と分析の結果ですよ」
セイラはふふ、と寂しげに笑った。
「私の未来も見通せるのかしら。……いつか、壊れて消えてしまう未来が」
「壊れはしませんよ。貴女は、貴女が思っているよりずっと強い」
「……買い被りね」
彼女は再び窓の外へ視線を戻した。
その背中が、以前よりも少しだけ小さく見えた。
鷹森という重石が取れ、彼女は自由になったはずだ。だが、鳥籠から出た鳥は、飛び方を知らない。
いずれ、彼女にも「飛ぶための翼」を与える必要があるだろう。だが、今はまだ、この静寂なシェルターを提供するだけで十分だ。
放課後。
俺はタクシーを飛ばし、先日も訪れた日産ディーラーへと向かった。
店に入ると、前回の担当営業マンが、飛ぶようにして駆け寄ってきた。
「さ、西園寺様! お待ちしておりました! 先日のGT-R、納車準備は順調に進んでおりまして……」
「ああ、その件だが」
俺は彼の言葉を遮り、懐から一枚のメモを取り出した。
そこには、俺が欲しいスペックと台数が記されている。
「追加注文だ」
「は……? つい、か……?」
「BNR34 スカイラインGT-R V-spec。色はベイサイドブルー、ホワイト、ミッドナイトパープルⅡ。合わせて九台だ」
営業マンが口をパクパクさせている。酸欠の金魚みたいだ。
「きゅ、九台!? ぜ、全部GT-Rですか!? トラックや営業車ではなく!?」
「そうだ。全部で一〇台になるな。……予算は四五〇〇万円を用意した。足りるか?」
俺はブラックカードを提示する。
一九九九年現在、GT-Rの新車価格は約五〇〇万円。九台で四五〇〇万円。
とんでもない散財に見えるだろう。
だが、これは消費ではない。「投資」だ。
R34 GT-Rは、二〇年後には一台三〇〇〇万円から五〇〇〇万円で取引される。
限定色のミッドナイトパープルⅡや、状態の良いV-specなら、億を超える値がつくこともある。
つまり、今の四五〇〇万円は、将来的に三億円から五億円に化ける。
利率一〇〇〇%の金融商品が、今なら定価で買えるのだ。買わない理由がない。
「保管場所は確保してある。港区の空調完備の倉庫だ。納車はすべてそちらへ頼む」
「は、はいぃぃッ!! た、ただちにメーカーの在庫をすべて抑えますッ!!」
営業マンは震える手で電話に飛びついた。
俺はショールームに飾られた青いGT-Rを見つめた。
美しい。
この鉄の塊たちは、俺の資産を守る最強の防波堤となる。
夜。
大量のGT-Rを購入した高揚感を鎮めるべく、俺は自室で静かにスコッチを傾けようとしていた。
だが、俺の安息は、いつものように物理的な侵入によって破られた。
ガチャリ。
「レオー! 遊びに来たわよー!」
「あら、玲央ちゃん。こんばんは」
玄関から現れたのは、二人の美女。
姉の西園寺 摩耶と、母の西園寺 ソフィアだ。
最強にして最凶の西園寺家の女たちが、揃って襲来したのだ。
摩耶は今日もモデルオーラ全開だ。
オフショルダートップスに、ダメージデニム。露わになった鎖骨と、デニム越しでも分かる脚の長さが、狭い玄関ホールをランウェイに変えている。
手には、高級焼肉店『叙々苑』のテイクアウト弁当が大量に入った袋を提げている。
そして、母・ソフィア。
伝説の大女優である彼女は、シンプルな黒のワンピースに、大粒のパールのネックレスを合わせているだけなのに、その場が発光しているかのような華やかさを放っている。
四〇代とは思えない若々しい肌、理知的な瞳。
彼女の手には、年代物の赤ワイン『オーパス・ワン』が握られていた。
「……二人揃ってどうしたんだ。俺の家は宴会場じゃないぞ」
「何言ってるのよ! レオが車を一〇台も買ったって聞いて、お祝いに来たのよ!」
摩耶が靴を脱ぎ捨ててリビングに突入してくる。
……情報が漏れるのが早すぎる。
おそらく、ディーラーの決済情報が父の会社を経由して、母の耳に入ったのだろう。
「一〇台って、玲央ちゃん。あなた、中古車屋でも始めるつもり?」
母さんがワイングラスを棚から取り出しながら、悪戯っぽく微笑む。
「投資だよ、母さん。あの車は将来、芸術品と同じ価値を持つようになる」
「あら、そうなの? まあ、玲央ちゃんが言うなら間違いないわね。パパも『あいつの金使いは豪快でいい』って笑ってたわよ」
さすが西園寺家。
高校生の息子が四五〇〇万円使っても、「豪快でいい」で済ませる度量。
一般家庭なら勘当ものだ。
「ほらほら、難しい話はナシ! 肉食べるよ、肉!」
摩耶がテーブルに叙々苑弁当を広げる。
カルビ、ロース、タン塩。
部屋中に焼肉の甘美な匂いが充満する。俺の無菌室が……。
「カンパーイ!」
母さんがオーパス・ワンを注ぎ、摩耶がコーラを持ち、俺はスコッチのグラスを掲げる。
「レオ、その車が届いたら私にも運転させてよね! 首都高飛ばしたい!」
「絶対にお断りだ。姉さんの運転は荒すぎる。あれは鑑賞用だ」
「ケチー! じゃあ助手席!」
「それなら考えてやる」
騒がしい夜。
テレビではバラエティ番組が流れ、姉が笑い転げ、母が優雅にグラスを揺らす。
ビジネスの冷徹な計算も、未来の知識も、この空間では意味を成さない。
ただの「家族」という、温かくも騒々しい時間が流れていく。
ふと、母さんが俺を見て、優しく目を細めた。
「……玲央ちゃん。最近、いい顔するようになったわね」
「そうか?」
「ええ。昔はもっと、大人ぶって寂しそうな顔をしてたけど。……今は、ちゃんと『生きている』って感じがするわ」
母の直感。
やはりこの人には敵わない。
俺は照れ隠しに、上カルビを口に放り込んだ。
一九九九年五月一七日。
ガレージには一〇台の怪物が並ぶ予定だ。
そしてリビングには、二人の美女が居座っている。
俺の城は、ますます賑やかに、そして強固になっていく。




