第36話
土曜日。
今日は第三土曜日だ。
この時代、公立校であっても「学校週五日制」はまだ完全導入されておらず、休みになるのは第二・第四土曜日のみ。つまり今日は、日本中の学生が「半ドン」のために登校している日だ。
そして今日こそが、正真正銘の、一学期中間試験・最終日である。
三限目、『物理』。
最後の科目が終わりを告げるチャイムが、校舎内に鳴り響いた。
その音色は、週末の午後という自由を手に入れた囚人たちへのファンファーレのように聞こえたことだろう。
「うおおおお! 終わったぁぁぁ!!」
「カラオケ! 渋谷! マジで歌うぞ!」
「帰って寝る……もう脳みそ溶けた……」
教室中が沸騰する。
俺は静かに筆記用具を片付けた。
物理。万物の理。
計算式通りに世界が動くなら、俺の人生計画もまた、物理法則のように確実なはずだ。
だが、人間という変数は常に予測不可能な挙動を示す。
だからこそ面白いのだが。
鞄を持ち、立ち上がる。
クラスメイトたちが青春を謳歌しに街へ繰り出す中、俺は一人、静かに校舎を後にした。
群れるのは好きではない。
俺には、俺だけの時間の使い方がある。
帰宅途中、俺は自宅マンションのエントランス付近で、一台の黒塗りのバンが停まっているのを見かけた。
スモークガラスの向こうから、一人の少女が降りてくる。
周囲を警戒するように帽子を目深に被っているが、そのシルエットだけで正体が分かってしまう。
天童 くるみ。
一八歳のトップアイドル。
仕事帰りなのだろう。彼女はふぅ、と小さく息を吐き、重そうな衣装バッグを肩にかけ直した。
その瞬間、彼女が顔を上げ、俺と目が合った。
「……あ、西園寺くん」
彼女はサングラスを少しずらし、大きな瞳で俺を見た。
オフモードの彼女は、テレビで見せる「愛嬌」を少し抑え、代わりに大人の女性特有の気怠い色気を纏っている。
私服はモノトーンのシンプルなワンピースだが、素材の上質さと、彼女自身のスタイルの良さが相まって、まるでパリの街角を歩くモデルのような洗練されたオーラを放っている。
細い足首、キュッと引き締まったウエスト。
「国民的妹」というレッテルを貼られているが、その本質は、磨き上げられたダイヤモンドのように硬質で美しい。
「お疲れ様、天童さん。……試験期間中も仕事か?」
「ええ。学生と違って、アイドルに試験休みなんてないのよ」
くるみは自嘲気味に笑い、俺の隣に並んだ。
同じマンションの住人同士、エレベーターホールへと歩く。
「……CMの撮影、順調らしいな。監督が絶賛していたぞ」
「当然よ。誰が踊ってると思ってるの?」
彼女は強気に言い放つが、その横顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。
目の下に薄っすらとクマがあるのを、コンシーラーで隠しているのが分かった。
「……無理はするなよ。君が倒れたら、俺の事業計画に傷がつく」
「ふふ、相変わらず冷たい言い方。……でも、ありがとう」
エレベーターが到着する。
二人だけの密室。
彼女から、高価な香水と、整髪料のスプレーの匂いが漂ってくる。それは「虚像」を作り上げるための戦いの匂いだ。
「ねえ、西園寺くん」
「なんだ」
「あんたってさ、悩みとかあるの? いつも涼しい顔して、何でも完璧にこなしちゃって」
「悩みか……。資産が増えすぎて、使い道に困っていることくらいかな」
「はっ、嫌味な男」
くるみは可笑しそうに笑った。
その笑顔は、カメラに向けられた営業スマイルではなく、等身大の一八歳の少女のものだった。
「私ね、才能なんてないの。だから、人の三倍練習して、五倍メンテナンスしてる。……あんたみたいな『天才』を見てると、時々心が折れそうになるわ」
チン、と到着のベルが鳴る。
彼女の階だ。
くるみは降り際、振り返って俺を見た。
「でも、負けないから。……私のこと、もっと稼がせてよね、パートナー?」
「ああ。約束しよう」
扉が閉まる。
「才能がない」か。
彼女は勘違いしている。
人の数倍の努力を続けられることこそが、最も稀有な才能だということに。
俺は上昇する箱の中で、彼女のプロ意識に敬意を表した。
自室に戻り、ネクタイを緩めてソファに倒れ込む。
試験からの解放感と、静寂。
……と思いきや、その静寂はすぐに破られた。
ピロリン、ガチャ。
電子ロックの解除音。
「やっほー! レオ! 試験おつかれ!」
西園寺 摩耶。
一八歳の姉が、我が物顔で入ってきた。
手には『マネケン』のベルギーワッフルの袋を提げている。
今日の彼女は、鮮やかなブルーのニットに、白いスキニーパンツ。
一八四センチの俺と並んでも引けを取らない長身と、驚異的な脚の長さ。
モデルとしての彼女は「クールビューティー」で売っているが、今の彼女はただの「弟好きの駄犬」だ。
「……姉さん。チャイムを押せと言ったはずだ」
「いいじゃん、家族なんだから。ほら、ワッフル買ってきたよ! チョコチップ!」
「俺は甘いものは……」
「頭使った後は糖分! ほら、食べる!」
摩耶は俺の隣に座り込み、強制的にワッフルを口に押し込んでくる。
バターの香りと、カリッとした砂糖の食感。
……美味い。
悔しいが、この姉の差し入れのセンスは悪くない。
摩耶は自分の分のワッフルを頬張りながら、テレビのリモコンをいじり始めた。
その無防備な太腿が、俺の膝に触れている。
彼女には「距離感」という概念が欠落しているらしい。
「ねえレオ、今度の休み、買い物行こうよ。レオの夏の服、私がコーディネートしてあげる」
「自分の服は自分で選ぶ。それに、姉さんの選ぶ服は派手すぎる」
「えー、レオは顔がいいんだから、もっと見せるべきだよ! 勿体無い!」
摩耶は俺の顔を覗き込み、ニシシと笑う。
天真爛漫。
天性の美貌と、愛される性格。
彼女は、生まれながらにして「持てる者」だ。
何の苦労もなく、光の中を歩いている。
先ほどのくるみの言葉を思い出す。
努力の人・くるみと、天才肌・摩耶。
対照的な二人だが、どちらも俺にはない輝きを持っている。
「……食べて満足したら帰れよ。俺はこれから映画を観るんだ」
「えー、何観るの? 一緒に観る!」
「『ガタカ』だ。……姉さんには退屈な映画だぞ」
「ガタカ? 知らなーい。じゃあ、帰る。友達とカラオケ行く約束あるし!」
摩耶は嵐のようにワッフルを食べ尽くし、「また来るね!」と言い残して去っていった。
部屋に再び静寂が戻る。
ふぅ、と息を吐く。
だが、部屋に残った甘いワッフルの香りが、不思議と心地よかった。
夜。
俺は部屋の照明を落とし、プロジェクターのスイッチを入れた。
スクリーンに映し出されるのは、蒼いフィルターのかかった近未来の世界。
一九九七年公開の映画、『ガタカ(GATTACA)』。
遺伝子操作によって優れた知能と肉体を持つ「適正者」が支配する社会。
自然妊娠で生まれた主人公・ヴィンセントは、心臓疾患の可能性が高く、寿命も短いと予測された「不適正者」だ。
彼は宇宙飛行士になるという夢を叶えるため、優秀な遺伝子を持ちながら事故で車椅子生活となったジェロームという男の生体IDを借りて、彼に成りすます。
俺はグラス片手に、画面を見つめた。
ヴィンセントが、毎朝自分の皮膚を削り落とし、他人の血液を指先に仕込むシーン。
その執念。
「遺伝子で運命が決まる」という世界観は、この「ギャルゲーの世界」に似ている。
ヒロインは主人公と結ばれる運命にあり、悪役は破滅する運命にある。
それはプログラムという名の遺伝子によって決定づけられたシナリオだ。
だが、ヴィンセントは言った。
『戻るための体力を残さない。それが僕の勝ち方だ』
持たざる者が、持てる者に勝つ方法。
それは、リスクを顧みない覚悟と、徹底的な準備、そして欺く知性だ。
俺はどうだ?
俺は「中身四一歳」というチートを使って、この世界を泳いでいる。
それはフェアではないかもしれない。
だが、運命という巨大なシステムに抗うには、使える武器はすべて使うしかない。
映画のラスト。
ロケットが宇宙へ飛び立つシーン。
銀色の機体が、蒼い空を切り裂いていく。
「……美しいな」
俺は呟いた。
ヴィンセントは運命に勝った。
ならば、俺も勝てるはずだ。
破滅フラグなど、全てへし折ってやる。
エンドロールが流れる中、俺は残っていたバーボンを飲み干した。
試験は終わった。
だが、人生という名のテストに、解答用紙回収のチャイムは鳴らない。
明日からも、俺は俺のやり方で、この世界を欺き、そして愛してやる。
一九九九年五月一五日。
蒼い光に照らされた部屋で、俺は新たな決意と共に夜を迎えた。




