第34話 歴史の因果と逃げた心理学者
一学期中間試験、2日目。
初日の緊張感が少し和らぎ、代わりに疲労感が滲み始めた教室に、カリカリという鉛筆の走る音だけが響いている。
1限目、日本史。
この科目は、単なる年号の暗記だと思われがちだが、俺にとっては、因果律のパズルに過ぎない。
『問:享保の改革における「上げ米の制」の目的と、それが幕藩体制に与えた影響について記述せよ』
俺は迷うことなくペンを走らせた。
財政再建という目的、大名への負担転嫁、そして幕府の権威低下という副作用。
歴史は繰り返す。
いつの時代も、トップダウンの強引な改革は、短期的には成果を上げても、長期的には組織の歪みを生む。
今の日本経済も同じだ。バブル崩壊後の失われた10年。
構造改革の痛みと、そこから生まれる新たな歪み。
歴史を学ぶことは、未来を予測するための羅針盤を手に入れることと同義だ。
終了のチャイムが鳴り、答案用紙が回収される。
教室の空気が一気に弛緩した。
「うっわー、漢字ド忘れした! 『墾田永年私財法』の『墾』ってどう書くんだっけ!?」
「俺なんか全部カタカナで書いたわ」
男子生徒たちが騒いでいる。
隣の席の城戸隼人は、燃え尽きたように机に突っ伏していた。
「……終わった。俺の脳みそ、平安時代で止まってるわ」
「お疲れ様。……まあ、赤点を回避するだけなら、記号問題さえ合っていればなんとかなるだろう」
「だよな! 頼むぞ、聖徳太子!」
隼人は現金を拝むように手を合わせている。
その明るさに救われる一方で、教室内には重苦しい空気を纏っている人間もいた。
日向翔太だ。
彼は誰とも答え合わせをすることなく、一人で教科書を睨みつけている。
いつもなら桜木マナの席に行って「ここ出た?」と騒ぐところだが、マナは高城藍と窓際で談笑しており、翔太の方を見ようともしない。
自業自得とはいえ、その背中は哀れだった。
孤立は人を弱くする。
彼が改心して自立するのか、それともさらに歪んでいくのか。
俺は静かに観察を続けた。
2限目、生物。
ミトコンドリア、DNAの二重螺旋構造、光合成の化学式。
生命の神秘もまた、合理的なシステムの集積だ。
無駄のない設計。
俺は淡々と正解を記入し、またしても時間が余ったため、頭の中で着メロ事業の収支シミュレーションを行っていた。
試験期間中のため、午前中で放課となった。
俺は隼人の「カラオケ行こうぜ!」という誘いを「明日の物理の勉強があるだろう」と丁重に断り、一人で渋谷の街へ出た。
目的は、気晴らしと情報収集だ。
センター街の喧騒を抜け、少し落ち着いたエリアにある大型書店『ブックファースト』へ向かう。
平日の昼間だが、店内はそれなりに混雑していた。
専門書コーナーで、行動経済学の棚を眺めていた時だった。
視界の端に、見覚えのある女性の姿が入った。
心理学のコーナーで、背表紙を目で追っている女性。
柚木沙耶さんだ。
今日の彼女は、モスグリーンのリブニットに、黒のロングスカートを合わせている。
身体のラインに程よくフィットしたニットが、彼女のスレンダーながらも女性らしい曲線を強調している。
アンニュイなショートボブが、店内の照明を受けて艶やかに光る。
手には読みかけのハードカバー。
その知的な佇まいと、どこか退廃的な色香は、書店という空間にあっても異彩を放っていた。
近くにいたサラリーマン風の男性が、本を選ぶふりをして彼女をチラチラと盗み見ているのが分かる。
俺は足を止めた。
彼女と会うのは、あのお台場でのデート以来だ。
観覧車の中で「もう会わない方がいい」と告げられ、逃げられたあの日。
正直、気まずさはある。
だが、ここで声をかけずに立ち去るのは、俺の流儀に反する。
「……柚木さん」
俺は努めて自然なトーンで声をかけた。
彼女の肩がビクリと跳ねた。
ゆっくりと振り返った彼女は、俺の姿を認めると、驚愕に見開いた目を一瞬泳がせ、それからバツが悪そうに伏せた。
「……西園寺、くん」
「奇遇ですね。大学は?」
「……午後休講だったの。レポートの資料を探しにね」
彼女の声は小さい。
いつもの余裕のある「お姉さん」の態度は鳴りを潜め、まるで悪戯を見つかった子供のように縮こまっている。
気まずい沈黙が流れた。
周囲の雑音が、やけに遠く聞こえる。
「……あの時は、ごめんなさい」
先に口を開いたのは、沙耶さんの方だった。
彼女は顔を上げず、本の表紙を指でなぞりながら言った。
「勝手に呼び出して、勝手なこと言って……逃げちゃって。……最低よね、私」
「謝る必要はありませんよ」
俺は彼女の横に並び、同じ棚の本に目を向けた。
「柚木さんの誠実さは伝わっています。……友人を大切に思う気持ちも」
「……買いかぶりよ。私はただ、自分が可愛いだけの臆病者」
彼女は自嘲気味に笑った。
舞への罪悪感と、俺への想い。
その板挟みで苦しんでいる彼女を、これ以上追い詰めるつもりはない。
今は、あえて「普通の会話」をすることが、彼女への一番の処方箋だろう。
「ところで、その本は?」
「え? ……あ、これ? 『ユング心理学入門』。……レポートのテーマが決まらなくて、迷走中」
「ユングですか。集合的無意識や元型論ですね。……面白いですが、レポートにまとめるには風呂敷を広げすぎでは?」
「うっ……痛いとこ突くわね。やっぱりフロイトの方が無難かしら」
彼女は少しだけ、いつもの調子を取り戻したようだ。
俺は微笑み、棚から一冊の本を抜き出した。
「アドラーはいかがですか? 『嫌われる勇気』……はまだ出版されていませんが、目的論の観点から人間関係を分析するのは、現代的で面白いテーマだと思いますよ」
「アドラーかぁ……。トラウマの否定ね。……今の私には、ちょっと耳が痛いかも」
彼女は苦笑しながらも、俺が差し出した本を受け取った。
指先が触れ合う。
ひんやりとした感触。
彼女は反射的に手を引っ込めそうになったが、踏みとどまった。
「……ありがとう。読んでみるわ」
「ええ。感想を聞かせてください」
俺たちはそれから、しばらくの間、当たり障りのない世間話を続けた。
最近読んだ本のこと、大学のキャンパスライフのこと、俺の試験の手応えのこと。
核心には触れない。
距離を詰めすぎず、かといって離れすぎない、薄氷の上のようなバランス。
だが、その緊張感が心地よかった。
「……ねえ、西園寺くん」
書店の出口で別れ際、沙耶さんが呼び止めてきた。
彼女は真っ直ぐに俺を見ていた。
その瞳には、迷いと、それ以上の熱が宿っている。
「私……まだ、答えは出せない。舞のことも、自分の気持ちも、整理がつかなくて」
「はい」
「でも……君と話してると、楽しいの。それは事実」
彼女は頬を染め、視線を逸らした。
「だから……また、こうやって偶然会えたら、話してくれる?」
「偶然でなくても、構いませんよ」
「……バカ。そういうとこよ」
彼女は小さく笑い、背中を向けた。
「じゃあね。……試験、頑張って」
手をひらひらと振って、彼女は雑踏の中へと消えていった。
拒絶ではない。保留だ。
それだけで十分だ。
焦る必要はない。
俺は彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送り、大きく息を吸い込んだ。
渋谷の空気は、少しだけ甘く感じられた。
帰宅途中、俺はいつものように東急本店のデパ地下に立ち寄った。
今日の夕食は何にしようか。
試験勉強の脳疲労を回復させるため、糖質とビタミンを摂りたい。
鮮魚コーナーで、初ガツオを見つけた。
赤身が鮮やかで、身が締まっている。
これをタタキにして、たっぷりの薬味と一緒に食べるのも悪くない。
新玉ねぎ、ミョウガ、大葉、そしてニンニクチップ。
ポン酢でさっぱりと。
さらに、青果コーナーで空豆と新じゃがを購入。
空豆は焼き空豆に、新じゃがは甘辛い煮っ転がしにしよう。
素朴だが、素材の味が活きるメニューだ。
酒は……今日は休肝日にするか。
代わりに、静岡産の最高級新茶を購入した。
食事の後に、熱いお茶を啜りながら明日の試験勉強をする。
完璧なプランだ。
帰宅し、手早く調理を済ませる。
カツオのタタキは、皮目を直火で炙り、氷水で締める。
香ばしさと冷たさのコントラスト。
新玉ねぎのスライスを敷き詰め、その上に厚切りのカツオを並べる。
薬味を山盛りにし、旭ポンズを回しかける。
「いただきます」
一口食べると、鉄分を含んだカツオの濃厚な旨味と、薬味の爽やかさが口の中で爆発した。
白いご飯が進む。
焼き空豆は、鞘ごとグリルで焼いただけで、ホクホクとした甘みが凝縮されている。
新じゃがの煮っ転がしも、皮まで柔らかく、懐かしい味がした。
食後、新茶を淹れて書斎へ向かう。
明日の科目は物理と古文だ。
物理は得意だが、公式の再確認は必要だ。古文は単語と文法の最終チェック。
机に向かい、参考書を広げる。
静かな部屋に、ページをめくる音だけが響く。
ふと、昼間の沙耶さんの顔が脳裏をよぎる。
『また、話してくれる?』
あの一言に込められた彼女の想い。
舞との友情と、俺への想いの間で揺れる彼女を、俺はどう導くべきか。
答えはまだ出ない。
だが、ビジネスも恋愛も、焦って手を出せば失敗する。
機が熟すのを待つ忍耐力こそが、投資家の最大の武器だ。
俺は茶を啜り、思考を物理の法則へと切り替えた。
F=ma。
力と質量と加速度。
世界はシンプルな法則で動いている。
人の心もまた、適切な力を加えれば、望む方向へと動き出すはずだ。




