第146話 インフラの輪郭と南仏への翼
放課後の渋谷。俺はハイヤーを降り、センター街から駅地下の商業施設にかけて、実体経済の最前線を視察して回っていた。
オークションサイトが安定稼働に入り、次なる標的は「現場資材のBtoB専用ECサイト」の構築に移行している。だが、企業間の取引プラットフォームであっても、最終的に画面を操作するのは人間だ。消費者が今、どのような視覚情報に惹かれているのかを把握しておくことは無駄にならない。
路上の巨大なビルボード広告で使われている配色のコントラストや、駅地下モールのコスメショップで新商品のパッケージに用いられているフォントの可読性を観察する。
大衆の消費意欲を煽るノイズの中から有益なデータだけを抽出し、俺は大型書店へと向かった。ビジネス書のフロアで、現在の海外EC市場の潮流を掴むための3冊の専門書を抜き出し、レジで購入する。
その後、通り沿いのスポーツショップに立ち寄り、日々のトレーニングで消費が激しいホエイプロテインを補充した。
最後に足を運んだのは、渋谷の裏路地にある隠れ家的なリサイクルショップだ。
古いアメリカ製の家具や雑貨が所狭しと並ぶ店内で、俺はヴィンテージのデスクランプ、年代物のタイプライター、そして真鍮の壁掛け時計の3点を購入した。
これらはCtoCオークションサイトの次期アップデートに向け、アートディレクターである白鳥のインスピレーションを刺激するための、物理的な「質感」のサンプルとしての投資だ。店主には、直接彼のアトリエへ配送するよう手配した。
視察のタスクをすべて終えた夕暮れ時。
俺は道玄坂の落ち着いたカフェで、柚木沙耶さんと向かい合っていた。
「……お待たせ、玲央くん。大学のゼミが少し長引いちゃって」
秋らしいマスタードカラーのニットを着た沙耶さんが、少し急ぎ足で席に着いた。
「構いませんよ。俺もちょうど、市場調査を終えたところですから」
注文したアールグレイの紅茶が運ばれてくる。彼女は温かいカップを両手で包み込み、少しだけ疲れたように息を吐いた。
「最近、NPOの活動で色々な企業に協賛のお願いに行っているんだけど……大人の社会って、本当に理不尽ね。どんなに子供たちの現状を訴えても、最終的には数字の話になっちゃうの」
彼女はカップの縁を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「企業は営利組織ですから、株主に対する説明責任があります。純粋な善意だけで資金を動かすことはできません」
「……頭では分かってるの。ボランティアじゃなくて、企業には利益が必要だって。でも……いざ担当者の人に『で、ウチにはどんな見返りがあるの?』って冷たく言われると、上手く返せなくて言葉に詰まっちゃって……。私、理想ばかり高くて、現実の現場では全然ダメダメね」
彼女は自嘲するように唇を噛んだ。社会の壁にぶつかり、自分の無力さに苛立つ等身大の葛藤がそこにあった。
「言葉に詰まるのは、相手の言語で話せていないだけです。嘆くのではなく、相手に協賛することが『自社の利益になる』と思わせる合理的なリターンの提示……例えば、CSR活動を通じた企業イメージの向上と、それによる採用コストの削減効果などをロジックとして組み立てればいい」
俺が具体的なアプローチを示すと、沙耶さんはハッとして顔を上げ、真剣な眼差しで俺の言葉をメモに書き留め始めた。社会の構造を理解し、しなやかに適応しようとする彼女の知性は、着実に磨かれている。
翌木曜日。
放課後。俺は神保町の古書店街にいた。
BtoBサイトに組み込む数十万点の商品のデータベース構築は、カタログのOCR読み込みというマクロな手法で進めているが、各業界の規格や専門用語の体系的な仕様を俺自身が深く理解していなければ、外注先の作業精度をコントロールできない。
専門書を扱う大型書店に入り、必要な書籍を次々とピックアップしていく。
建築資材の規格集から、特殊工具の専門事典、労働安全衛生法の解説など、計12冊。物理的な質量だけでもかなりの重さになるため、これも会計後に直接オフィスへと配送手配を済ませた。
そのまま地下鉄に乗り、秋葉原へと移動する。
中央通りの喧騒を抜け、電気街の端にある老舗の工具専門店へ足を踏み入れた。
油の匂いが漂う店内には、プロの職人たちが使う本物の道具が整然と並んでいる。
俺はショーケースの中から、精巧な作りで知られるスイス製の精密ドライバーセットを購入した。
データベースの構築はデジタルの作業だが、現場の職人たちが「本当に信頼する道具」の重量感や金属の質感を、経営者である俺自身の手で確かめておくためだ。実体のないプラットフォームだからこそ、現場のリアリティへの解像度を下げてはならない。
さらに駅の反対側へと足を伸ばし、マニアックな品揃えのレトロゲームショップに立ち寄った。
中古ソフトの棚から、『ストリートファイターII』『餓狼伝説』『ファイナルファイト』『サムライスピリッツ』『ヴァンパイア』の5本を抜き出す。
これらはペントハウスに遊びに来る城戸隼人との対戦用であり、同時に、裏サイトの監視作業で目を酷使している草野健太へのささやかな息抜き用の差し入れだ。
予定していたインフラ構築の材料集めを完了させ、俺は足早に秋葉原の街を後にした。
夜。
俺は手配したハイヤーに乗り、千葉県の成田空港に到着していた。
これから一ヶ月間、南フランスでの映画ロケへと旅立つ母を見送るためだ。
出発ロビーのVIPラウンジで待っていると、大きなサングラスに高級なトレンチコートを羽織った母が、マネージャーを伴って現れた。
「Leo! わざわざ見送りに来てくれたのね、嬉しいわ!」
母は大げさな身振りで軽くハグをしてきた。
俺は軽く肩を叩いて応え、ラウンジに併設された落ち着いたレストランへと彼女を案内した。フライト前の軽いディナーだ。
注文した白身魚のカルパッチョと、温かいコンソメスープが運ばれてくる。
「本当に一ヶ月も家を空けるのは久しぶりね。Mayaのことも心配だけど、Leoもちゃんとご飯を食べているの?」
「俺の食生活については、母さんが一番よく知っているはずですが」
「ふふっ、そうね。アナタの料理は私が保証するわ。……でも、身体の栄養と心の栄養は別よ。あまり根を詰めすぎないようにね」
母はコンソメスープをスプーンで掬いながら、ふと、女優としての真剣な眼差しをこちらに向けた。
「今回のロケは、私のキャリアにとっても大きな分岐点になる作品なの。絶対に妥協できないわ。……Leoも今、何か大きなものと戦っているんでしょう?」
「……ええ。春に向けて、少し大きめの盤面を動かしています」
「そう。なら、お互いに最高のパフォーマンスを出せるように頑張りましょう。マミーが帰ってきたら、最高に美味しいフレンチをご馳走してあげるわ」
彼女は力強く微笑み、グラスのミネラルウォーターで俺のグラスと軽く乾杯した。
食事を終え、出発ゲートへと向かう。
全面ガラス張りの窓の外には、ライトアップされた滑走路と、巨大な機体が並んでいる。
「じゃあね、Leo。Mayaにもよろしく言っておいて」
「気をつけて。良い作品になることを期待しています」
母はサングラスをかけ直し、颯爽とした足取りでゲートの奥へと消えていった。
静かな空港のロビーに一人残された俺は、ガラス越しに夜の闇へ飛び立っていく機体の光を見つめていた。
彼女が世界で戦っている間、俺もまた、東京という戦場で自らの資本を研ぎ澄まし、来るべき激突に向けてすべての準備を整えなければならない。
俺は小さく息を吐き、静かに反転して帰路のハイヤーへと向かった。




