第101話 銀幕の逃避行と祭りの余韻
午後。俺は、都内のシネマコンプレックスのプレミアムシートに深く腰を下ろしていた。
館内の照明が落ち、巨大なスクリーンに新作サスペンス映画の予告編が映し出される。
隣の席には、目深に被ったキャスケットと、顔の半分を覆う大きな黒縁の伊達メガネで完璧に変装した女性が座っていた。
天童くるみだ。
「……ふふっ、本当に誰も気づかないわね」
彼女はスクリーンを見つめたまま、俺の方へ少しだけ身を傾け、楽しそうに耳打ちしてきた。
周囲の観客は映画に夢中で、隣に国民的トップアイドルが座っていることなど夢にも思っていない。
ゆったりとしたプレミアムシートの暗闇の中、彼女の腕が微かに俺の肩に触れる。シャンプーの甘い香りが、ポップコーンの匂いに混じって漂ってきた。
どんなに変装で隠そうとも、彼女の放つ華やかなオーラと、男性を惹きつける天性の魅力は消し去ることはできない。
「僕が手配した動線ですから。最後まで、ただの『普通の女の子』として映画を楽しんでください」
「うん。……ありがとう、レオ」
本編が始まり、俺たちは静かにスクリーンに意識を向けた。
複雑な伏線が絡み合うサスペンス。だが、俺の脳の半分は、並行して進めているビジネスの盤面を計算し続けていた。
映画が終わり、彼女を人目につかない地下駐車場の迎えの車に乗せた後。
俺はオフィスにいる舞と、ビジネスチームの城戸、白鳥にメールで指示を一斉送信した。
『ストリートブランドのヤフオク転売と並行して進める、【特化型メルマガ事業】の初期投資を実行する。予算は300万円』
ネットビジネスにおいて、最も価値のある資産は「顧客リスト」だ。
だが、無名のメルマガに登録する物好きな人間はいない。だからこそ、金でリストを買う。
『懸賞プレゼントとして、「登録者から抽選でiMacや、プレステ2をプレゼント」と大々的に打ち出す。広告媒体の手配を急げ』
300万円の「餌」をバラ撒くことで、何万という生きたメールアドレスを合法的に収集する。
一度巨大なリストを構築してしまえば、あとはそこに広告を流すだけで、初期投資など一瞬で回収できる。
1999年現在、この「リストビルディング」の破壊力に気づいている人間は極めて少ない。
俺の投下した弾薬は、確実に市場をハックするはずだ。
夕方。俺は情報収集を兼ねて、青山通りを歩いていた。
ふと、神宮外苑の方向へ向かう人の波がいつもより多いことに気づく。浴衣姿の男女の姿も目立つ。
今日は、この近辺で大規模な花火大会が開催される日だった。
「あら、西園寺くん。奇遇ね」
不意に、凛とした声が横からかかった。
振り返ると、涼しげな紺地の浴衣に身を包んだ、霧島セイラ先輩が立っていた。
「ごきげんよう、霧島先輩。……花火大会ですか?」
「ええ。親戚の集まりの帰りでね。せっかくだから、少しだけ見ていこうかと思って」
彼女は手にした涼しげな団扇で、静かに風を送っている。
普段の隙のない制服姿とは違う、艶やかで少し大人びた浴衣姿。うなじにかかる黒髪が色っぽく、すれ違う男性たちが次々と彼女に目を奪われていく。
誰もが振り返るほどの「完璧な美人」だが、彼女自身はその視線を意に介する様子もない。
「貴方は? まさか、こんなお祭り騒ぎの日にまでビジネスの算段をしているわけじゃないでしょうね?」
「半分はそうですね。人の集まる場所には、常に消費のヒントがありますから」
「……本当に、可愛げのない後輩。でも、貴方らしいわ」
彼女は小さく笑った。氷の女王と呼ばれていた頃の彼女からは想像もつかない、柔らかく穏やかな表情だった。
俺たちの周囲だけ、都会の喧騒から切り離されたような静寂がある。
「ドンッ……!」
その時、ビルの谷間の向こう側で、重低音が響いた。
夜空に、巨大な大輪の華が咲き乱れる。
「……綺麗ね」
セイラ先輩は足を止め、夜空を見上げた。花火の極彩色が、彼女の白い横顔を美しく照らし出している。
俺も彼女の隣で、ただ静かにその光の軌跡を追った。
「霧島先輩。生徒会の仕事も、秋の文化祭に向けて佳境に入りますね」
「ええ。色々と問題は山積みだけれど……今の私なら、冷静に対処できる気がするわ」
「貴女なら問題ありません。もし壁にぶつかった時は、いつでも合理的な助言を提供しますよ」
「ふふっ。頼りにさせてもらうわ、西園寺くん」
花火の音が、俺たちの会話を心地よくかき消していく。
彼女との穏やかな世間話は、ビジネスの緊張感を解きほぐす、上質な休息だった。
セイラ先輩と別れ、俺は花火大会の熱気が及ばない麻布十番のスーパー『ナニワヤ』へと足を向けた。
花火を見たせいか、無性に「祭りの味」が食べたくなった。
カゴに新鮮なスルメイカ、枝豆、そして焼きおにぎり用の米と醤油を入れる。
さらに、酒類コーナーへ向かう。
俺は未成年だ。ビジネスや社交の場で、アルコールを口にすることは避けている。
だが、今日のように盤面が完璧に進行し、なおかつ祭りの余韻が残る夜くらいは、41歳の精神の渇きを潤す「例外」を設けても悪くはない。
冷蔵ケースから、最高級のプレミアムビール『ヱビスビール』の大瓶を一本、静かにカゴに入れた。
帰宅後。
静寂なペントハウスのキッチンに立つ。
まずは枝豆だ。
たっぷりの湯に多めの塩を入れ、サッと茹で上げる。茹ですぎは禁物だ。ザルに上げ、うちわで一気に風を送って急冷する。こうすることで、鮮やかな緑色が保たれ、豆の甘みが引き立つ。
次に、イカの丸焼き。
新鮮なスルメイカの下処理をし、胴体に浅く切れ目を入れる。
フライパンに薄く油をひき、強火で一気に焼き上げる。
イカが丸まり始めたところで、醤油、酒、みりん、そして隠し味のおろし生姜を合わせた特製ダレを回し入れる。
ジャアアアァァッ!
醤油が焦げる、強烈に香ばしい匂いが弾ける。屋台の匂いそのものだ。
最後に、焼きおにぎり。
固めに炊いたご飯を三角に握り、魚焼きグリルで表面を軽く焼く。
刷毛で特製の出汁醤油を何度も重ね塗りし、香ばしい焦げ目がつくまでじっくりと焼き上げる。
「……完成だ」
ダイニングテーブルに、イカの丸焼き、枝豆、そして焼きおにぎりを並べる。
そして、キンキンに冷やしたヱビスビールの大瓶の栓を抜く。
グラスに注ぐと、きめ細かい黄金色の泡がふわりと盛り上がった。
「いただきます」
一人きりの静寂な空間で、グラスを傾ける。
「……っ、美味い」
麦芽100%の深いコクと、キリッとした苦味が、夏の乾いた喉を強烈に潤していく。
五臓六腑に染み渡る、大人の特権。
すかさず、イカの丸焼きを頬張る。
プリプリとしたイカの食感に、生姜の効いた甘辛い醤油ダレが完璧に絡んでいる。噛み締めるほどに海の旨味が溢れ出し、ビールの苦味を最高潮に引き立てる。
枝豆の塩気で口の中をリセットし、再びビールを流し込む。
そして、表面がカリッと香ばしく焼けた焼きおにぎり。出汁醤油の焦げた風味が、日本人のDNAを直接刺激してくる。
完璧な三重奏だ。
祭りの喧騒に行かずとも、このペントハウスには俺だけの最高の祭りが存在している。
食後。
ビールの心地よい酔いを冷たいミネラルウォーターで醒まし、俺は書斎のレザーチェアに深く腰を沈めた。
デスクの上の真鍮製のランプを点け、書斎の本棚から春先に購入しておいた二冊の専門書を抜き出す。
『e-コマース革命』と『Java言語プログラミング』。
1999年の今、インターネットはまだ情報の閲覧が主体の「静的」なものだ。
だが、遠からず全ての商取引がネット上で完結する「e-コマース」の時代が到来する。
そして、その動的なシステムを支える中核技術となるのが、プラットフォームに依存しないプログラミング言語『Java』だ。
今日仕掛けた特化型メルマガ事業を見据え、活字の森に飛び込み、未来のインフラの構造を改めて脳内に叩き込んでいく。
「……懸賞メルマガでのリスト構築は、あくまで序章に過ぎない。集めたリストに、何を売り、どう決済させるか。独自のe-コマースプラットフォームの構築を急ぐ必要があるな」
ページをめくる音が、静かな夜の部屋に響く。
神宮寺レイという不確定ノイズは依然として存在しているが、俺の進むべき道に迷いはない。




