第100話 電脳の祭典と屋台の三重奏
容赦ない真夏の太陽が、幕張メッセの巨大なコンクリート建築を白く照らし出していた。
国内最大級のIT・ゲーム総合展示会『サマー・デジタル・エキスポ』。
開場前から、最新のテクノロジーとエンターテインメントを求める何万人もの人々が、熱気と共に長蛇の列を作っている。
「うおおおっ! 人すっげぇ! 西園寺、急ぐぞ! 新作アクションゲームの試遊整理券がなくなっちまう!」
俺の隣で、Tシャツ姿の城戸隼人が鼻息を荒くしていた。
彼は開場と同時に、目的のゲームメーカーのブースへと猪突猛進していった。
俺は彼の背中を見送り、一人でビジネス向けのソリューションエリアを歩いた。
周囲には、Pentium IIIプロセッサを搭載した最新のデスクトップPCや、普及の兆しを見せているISDNルーター、そして「2000年問題完全対応」を謳うセキュリティソフトの巨大な看板が立ち並んでいる。
(……ハードウェアの進化は凄まじいが、本質的なインフラはまだ貧弱だ)
俺は各ブースで配られるパンフレットを受け取りながら、市場の熱量を分析した。
コンパニオンの派手な衣装と大音量のBGMに惹きつけられる一般客の裏で、背広姿の男たちが真剣な顔でネットワーク構築の商談をしている。
この混沌とした熱気こそが、IT黎明期特有のエネルギーだ。
年明けからの本格稼働に向け、秋から営業を仕掛ける「社内SE代行サービス」のターゲットは、こうした華やかな技術に乗り遅れまいと焦る中小企業にこそ存在する。
数時間後。
両手に紙袋を抱え、満足げな顔をした隼人と合流した。
「……試遊はできたようですね」
「おう! マジでグラフィックやべぇ! それに、コンパニオンのお姉さんも超可愛かったぜ!」
彼は満面の笑みで親指を立てた。
目的は果たした。俺たちは熱気に満ちた幕張を後にし、電車で渋谷へと戻った。
渋谷駅に着く頃には、午後の日差しがさらに凶暴さを増していた。
あまりの暑さに、俺たちはスペイン坂のドリンクスタンドに立ち寄った。
「『フレッシュ・レモンスカッシュ』を二つ。氷多めで」
俺はカウンターで注文した。
搾りたてのレモン果汁に、強炭酸水と少量のガムシロップを合わせたものだ。
「はぁぁ……! 生き返るわぁ……!」
隼人がストローで勢いよく吸い込み、天を仰ぐ。
俺も冷たい炭酸を喉に流し込む。レモンの強烈な酸味と炭酸の刺激が、歩き回って熱を持った体に染み渡り、疲労を洗い流してくれた。
その時、見覚えのあるショートカットの女性が、路地の向こうから歩いてくるのが見えた。
「おっ、涼さんだ」
隼人が声を上げる。
白のノースリーブに細身のデニムというボーイッシュな装いの早坂涼だ。19歳の現役早大生であり、俺たちの会社の頼れる人事担当でもある。
「よっ。……お前ら、こんな暑い中ご苦労なこったな。幕張帰りか?」
涼さんは俺たちの持つ紙袋を見て、呆れたように笑った。
「ええ。城戸の付き合いと、市場の視察です。涼さんは?」
「アタシは大学のゼミの集まり。……ま、花屋のおっさんたちの様子も見に行ってきた帰りだけどな。あいつら、暑い中ちゃんと水やりしてて、偉いもんだよ」
彼女は保護者のような優しい顔で言った。
元極道たちの更生プロジェクトは、彼女の指導のもとで完全に軌道に乗っている。
「それは重畳です。……涼さんの指導力の賜物ですね」
「へへん、だろ? ……じゃあな、アタシはこれで。あんまフラフラしてると熱射病になるぞ、ボン」
彼女はひらひらと手を振り、駅の方へと歩いていった。
風通しの良い、心地よい関係性。彼女が仲間にいてくれることの価値を、改めて実感する。
その日の夜。
麻布のペントハウスでシャワーを浴び、リビングで冷たいミネラルウォーターを飲んでいると、携帯電話が鳴った。
『……もしもし、レオ?』
電話の主は、天童くるみだった。
深夜に近い時間だが、彼女の声は少し興奮しているように聞こえた。
「こんばんは、くるみさん。まだ仕事中ですか?」
『ううん、今帰りの車の中。……ねえ、明後日、8月12日って空いてる?』
「明後日……ええ、特に大きな予定はありませんが」
『ほんと!? じゃあさ、映画観に行こうよ! ずっと観たかったサスペンス映画があってさ!』
トップアイドルからの、直球のデートの誘い。
「……構いませんが、パニックになりますよ」
『大丈夫! 絶対バレない完璧な変装で行くから! ……お願い、最近ずっと休みなかったから、息抜きしたいの』
甘えるような、縋るような声。
俺の存在が彼女の精神安定剤として機能している以上、断る理由はない。
「分かりました。では、チケットの手配と、人目につかない劇場の動線は僕が確保しておきます」
『やったぁ! ありがとレオ、大好き! おやすみ!』
電話が切れ、俺は手帳の12日の欄に予定を書き込んだ。
ファントムという物理的な脅威が消え去った今、多少の外出は問題ない。だが、万全の準備はしておくべきだろう。
午後。俺は恵比寿ガーデンプレイスの奥にある、『東京都写真美術館』を訪れていた。
隣を歩いているのは、聖カトレア女学院の瀬名愛理先輩だ。
黒のサマーニットに、シックなグレーのロングスカート。高校2年生とは思えない、洗練された大人の雰囲気を纏っている。
「……ごめんなさいね、西園寺くん。わざわざ付き合わせちゃって」
「いえ。俺もこの報道写真展には興味がありましたから」
俺たちは、薄暗く静謐な展示室をゆっくりと歩いた。
壁に掛けられているのは、20世紀を記録したモノクロームの報道写真の数々。
戦争、飢餓、そして歓喜の瞬間。
「……写真って、不思議よね」
愛理先輩が、ある一枚の写真の前で足を止めた。
それは、戦火の中で抱き合う親子の写真だった。
「ただの一瞬を切り取っただけなのに、そこに写っている人たちの人生とか、感情の全てが流れ込んでくるみたい」
「ええ。レンズを通すことで、現実は時に、現実以上の質量を持ちます」
「……西園寺くんは、どういう瞬間を残したいと思う?」
彼女は顔を向け、理知的な瞳で俺を見つめた。
「俺は……そうですね。未来を予測し、盤面を支配するプロセスは好きですが。……写真に残すなら、予測不可能な、誰かの心からの笑顔がいいですね」
「……意外とロマンチストなのね、貴方」
彼女は小さく笑い、再び写真へと向き直った。
その横顔は、静かな美術館の空気と完璧に調和していた。
彼女との知的な時間は、常に俺の思考をクリアにしてくれる。
美術館を出た後、愛理先輩と別れ、俺は一人で渋谷へと移動した。
向かったのは、宇田川町にある大型書店『大盛堂書店』だ。
夏休みに入り、多くのビジネス書やIT関連の新刊が出版されている。
俺は経営・経済のフロアを巡り、数冊の専門書を手に取った。
特に、アメリカの金融工学に関する翻訳書と、インターネットの暗号技術に関する専門書は、今後の事業展開において必須の知識だ。
レジに向かおうとした時、携帯電話が震えた。
姉の摩耶からだ。
『玲央! 今どこ?』
「渋谷の書店ですが」
『ナイス! あのね、今マミーと話してたんだけど、近いうちに3人でどっか遊びに行こうってことになって! 海とか温泉とか!』
「……急ですね。スケジュールを調整しておきます」
『うん! でね、それとは別に、今日の夕飯のお願いなんだけど!』
姉の声が一段と明るくなる。
『マミーがね、「日本のトラディショナルなジャンクフードが食べたい」って言い出して。……屋台の焼きそばとか、そういうの!』
「……なるほど。縁日の味ですか」
『そう! 玲央、お願い! 材料買ってきて!』
「分かりました。最高のものを用意しましょう」
電話を切り、俺は書店を出た。
女優である母・ソフィアも、東大生の姉も、食に対する好奇心だけは旺盛だ。
俺はそのままハイヤーを呼び、麻布十番へと向かった。
麻布十番の高級スーパー『ナニワヤ』。
「屋台の味」を、最高級の食材で再構築する。
俺はカゴを手に、迷うことなく食材を選んでいった。
まずは麺。製麺所が作っている、コシの強い極太の蒸し麺。
肉は、脂の甘みが強い鹿児島県産の『黒豚バラ肉』。
野菜は、群馬県産の有機キャベツと、シャキシャキのモヤシ。
さらに、縁日の定番である『トウモロコシ』は、生でも食べられるほど糖度の高いフルーツコーンを選ぶ。
フランクフルトは、本場ドイツ製法の無塩せきの粗挽きソーセージだ。
そして忘れてはならないのが、飲み物だ。
酒コーナーで、母と姉のために、きめ細かい泡が特徴の『ヱビスビール』の瓶を購入。
俺自身のペアリングには、昔ながらのガラス瓶に入った『ラムネ』を選んだ。
帰宅後。
静寂なペントハウスのアイランドキッチンに、大型のホットプレート(鉄板)をセットする。
今日はフライパンではなく、鉄板の広い面積を使って一気に火を通す。
「ただいまー! 玲央、いい匂いさせてるじゃない!」
「Oh! Leo, 待ちきれないわ!」
姉と母がリビングに顔を出した。
「今から仕上げます。座って待っていてください」
鉄板を限界まで熱し、まずは黒豚バラ肉を炒める。
ジュワァァッ!
豚の脂が溶け出し、香ばしい匂いが弾ける。この良質なラードこそが、焼きそばの旨味の要だ。
そこにザク切りにしたキャベツとモヤシを投入し、強火で一気に煽る。
野菜の水分が出ないうちに麺を加え、少量の酒でほぐす。
そして、特製ソースの出番だ。
ウスターソース、中濃ソース、オイスターソース、そして少量のカレー粉をブレンドした俺のオリジナル。
ジャアアアァァッ!!
ソースが焦げる強烈な匂いが、キッチンはおろかリビング中を支配する。
青のりと削り粉をたっぷりとかけ、紅生姜を添える。
隣のコンロでは、茹でたトウモロコシにハケで醤油を塗り、直火で炙っている。醤油の焦げる匂いが追い討ちをかける。
フランクフルトは、表面にパリッと焼き目がつくまで丁寧に転がす。
「……完成です」
テーブルの中央に、湯気を立てる山盛りの焼きそば。
焦げ目のついた黄金色のトウモロコシと、肉汁が弾けそうなフランクフルト。
俺はよく冷えたヱビスビールの栓を抜き、二人のグラスに注いだ。
そして、自分のラムネのビー玉を、手のひらで押し込む。
カシュッ、シュワワ……!
炭酸の爽やかな音が響く。
「かんぱーい!」
母と姉がビールを煽り、早速焼きそばに箸を伸ばす。
「……んんっ! なにこれ! 屋台の味なのに、すっごく高級!」
姉が目を丸くする。
「豚の脂の甘みと、特製ソースの焦げた香りが麺に絡んでいるからです。麺も太麺を使っているので、負けていません」
「Wonderful! トウモロコシも甘いわ! 醤油の焦げた匂いがたまらない!」
母も手づかみでトウモロコシにかぶりついている。世界的女優の面影はないが、それがいい。
俺もフランクフルトを齧る。
パリッという心地よい音と共に、粗挽きの肉汁が溢れ出す。マスタードの酸味が肉の旨味を引き締める。
すかさず、ガラス瓶のラムネを流し込む。
強めの炭酸と、どこか懐かしいラムネの甘さ。それが、ソースの濃厚な味と脂を、清々しく洗い流してくれる。
ビールにも劣らない、B級グルメに対する究極のペアリングだ。
「……美味いな」
「でしょ? 玲央の料理は世界一よ!」
姉がビールのおかわりを要求しながら笑う。
ビジネスの冷徹な盤面、仲間たちとの熱気、そして愛理先輩との静かな時間。
様々な色を持つ日常が、このペントハウスの食卓で一つに収束していく。




