第1章 呼びかけ
声は本来、空気を震わせるだけのもの。
けれどもその声に意志が宿るとき、それは刃物よりも鋭く、人を切り裂くことがある。
――忘れられた声は、ただ呼びかけるだけでは終わらない。
雨上がりの夕方、教室は湿った匂いに包まれていた。
窓を開け放しても、じっとりとした空気は逃げていかない。
放課後の時間を告げるチャイムはとっくに鳴り終え、教室には和也ただ一人が残っていた。
黒板に書き残されたチョークの線を眺めながら、彼は何度もノートに書いては消す。
「このまま家に帰りたくない」――理由はない。ただ、何かに追い立てられるように席に座り続けていた。
そのときだった。
「……和也」
背後から、自分の名前を呼ぶ声がした。
はっと振り返る。しかし、誰もいない。
雨粒の残る窓と、使い古された机が並んでいるだけだ。
気のせいかと思い、息を整える。
けれど、耳に残ったその声は、あまりにも生々しかった。
懐かしさと、薄気味悪さがないまぜになって胸を締めつける。
再びノートに視線を落とした瞬間――。
「……どうして、忘れたの?」
今度ははっきりとした声。女の声だ。
耳元で囁かれたかのような生々しさに、全身の毛穴が開く。
同時に、左手に焼けつくような痛みが走った。
見ると、何も触れていないはずの皮膚に、赤い線が浮かび上がっていく。
まるで爪で引っかかれたように、血がにじんだ。
「誰だ……!」
振り返るが、教室には誰もいない。
ただ、一番後ろの窓際の席の椅子だけが、ほんの少し引かれていた。
まるで、ついさっきまで誰かが座り、そこから手を伸ばしてきたかのように――。
痛みはじわじわと広がり、血が机にぽたりと落ちた。
赤い染みは、教科書の文字をゆっくりと覆い隠していった。
声はただ聞こえるだけではなく、触れ、刻み、血を流させる。
和也が耳にしたのは、記憶の幻ではない。
それは確かに、彼に触れ、忘れられたことを告げに来た存在だった。
最初の傷は警告にすぎない。
これから深く抉られるのは、彼の身体か、それとも心か――。