第三話:感情筋トレ
「さあ、始めますわよ! あなたの、心と肉体の、再生を!」
イザベラの張りのある声が、雪のちらつく中庭に響き渡る。私の静止をその圧倒的な力で振り切った彼女は、リリアを半ば引きずるようにして、この凍てつく空気の中へと連れ出してしまったのだ。
「イザベラ様、お待ちください! リリアは、まだ、本調子では…!」
慌てて追いかけた私に、彼女はトレーナーとしての厳しい視線を向けた。
「甘やかしては、いけませんわ、セレスティーナ様。筋肉は、常に、限界を超えた負荷を、求めているのです。それは、感情を司る、特殊な筋肉とて、同じこと!」
何を言っているのか、さっぱり分からない。私の理性が理解を拒む中、イザベラはリリアに向き直り、高らかに宣言した。
「良いですか、リリア。まずは、『悲しみ』の感情から、取り戻しますわよ。そして、悲しみの感情を司る筋肉。それは、この、大胸筋です!」
ドン、と自らの豊満な胸を叩いたイザベラは、近くにあった手頃な大きさの石の彫像を両手に掴むと、その場に仰向けになった。
「涙とは、すなわち、大胸筋が収縮することで魂核から絞り出される水なのです! さあ、わたくしの完璧なフォームを、よく、ご覧なさい!」
彼女は常軌を逸した、としか言いようのない様子でむせび泣きながら、石の彫像をダンベルのように上下させ始めた。
「うっ…うっ…ズビ…この重さ!ズビ…この痛みこそが…悲しみ!」
リリアは、人形のように無表情なまま、コクン、と頷くと、驚くほど正確なフォームで、石の彫像を持ち上げる。
そして、こう言った。
「ウッ、ウッ、コノオモサ、コノイタミコソガカナシミ」
その、余りに、棒読みの復唱に、私は眩暈を覚えた。フンヌ、フンヌ、と、どこまでも平坦に繰り返しているさまは、哀愁さえ漂わせている。
「ふむ…。次は『喜び』ですわ! 喜びを司るのは、この、広背筋!」
イザベラは何事もなかったかのようにスッと立ち上がると、今度は猛禽のように腕を大きく広げてみせる。
「ご覧なさい! このポーズこそが、魂の底からの笑いを誘発するのです! さあ、あなたも!」
そして、ニイイ、と、獰猛、とでも形容すべき凄まじい笑顔を、浮かべる。「喜び」、の表情かと言われると疑問符が付くのは思考の隅に置いた。
リリアは、またしてもコクン、と頷くと、完璧にそのポーズを模倣してみせる。その小さな体には不釣り合いなほど、美しい逆三角形のシルエット。けれど、やはりその顔は能面のようだ。リリアは、どうしたものか、とほんの少し首をかしげた後、自らの人差し指を、そっと自分の口元へ持っていった。そして、物理的に、くいっと口角を持ち上げて、無理やり「笑顔」の形を作ってみせた。
「可愛い」と、不覚にも、思ってしまった自分に驚愕した。
頭が痛い。馬鹿げている。こんなことで、リリアの心が戻るはずがない。常識的に考えれば、ありえない。私の知識も、経験も、全てがこの光景を「無意味だ」と断じている。
なのに。
どうしてだろう。この常軌を逸したトレーニングと、それを曇りなき眼で指導するイザベラの、その圧倒的な熱量だけが、凍てついたこの白氷城で、唯一、生きているものの「熱」を放っているように感じられてしまうのは。
理屈ではない。理論でもない。
ただ、あの熱量だけが、私の常識では計れない奇跡を、起こしてくれるのではないか。
そんな、あまりに非合理的な期待に、すがりたくなってしまう自分がいるのだ。
私が、止めることも出来ずに、その場に立ち尽くしていると、イザベラが満足げな顔でこちらへ歩み寄ってきた。
「ご覧になりましたか、セレスティーナ様。リリアの、あの、目覚ましい成長を! わたくしの理論に基づけば、あと三日もすれば、彼女は、涙を流すための大胸筋と、笑うための広背筋を、完全に取り戻すことでしょう!」
「イザベラ様…」
何かを言おうとして、けれど言葉が見つからない。肯定も、否定も、今の私にはできなかった。
「心配には及びませんわ。もし、あなた様もご自身の繊細すぎる心の筋肉を鍛えたいとお思いでしたら、いつでもお声がけくださいな」
彼女はそう言うと、私の華奢な肩を力強く掴み、満面の笑みで言った。
「共に、汗を流せば、心と筋肉は、より、強固な絆で結ばれますわよ! さあ、あなた様も、ご一緒に、この『友情スクワット』はいかがです!?」
私は、ただ力なく、首を横に振る。
イザベラは、私のその反応を「感涙のあまり言葉も出ない」と解釈したようだった。彼女はやたらと満足げに頷くと、再びリリアの元へ戻り、さらに熱のこもった指導を再開する。
私は、そんな二人から目を逸らすことなく、ただ、じっとその光景を見つめ続けた。
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