第十九話:炉辺の賢者とお茶会
リアノーンの『根渡りの森』を抜けた瞬間、悪夢の囁き声は、ぴたりと止んだ。
私たちが足を踏み入れた先は、それまでの陰湿な森が嘘のような、穏やかな野原だった。
けれど、その穏やかさは、あまりにも不自然だった。極北の地であるにも関わらず、地面は柔らかな緑の草で覆われ、季節外れの小さな花々が咲き乱れている。風は一切なく、一本だけ立つ樫の木の葉は、ぴくりとも動かない。鳥の声も、虫の羽音も聞こえない、絶対的な静寂。まるで、世界から切り取られた、一枚の完璧な絵画のようだった。
その絵画の中心に、ぽつんと、一軒の小さな家が立っていた。
私たちがその家の木製の扉に近づくと、それは、軋む音もなく、内側へと開かれた。
中から漏れ出してきたのは、燃え盛る暖炉の炎の温もりと、焼きたてのパンのような、優しい香り。
そして、その暖炉の傍らで、深い皺の刻まれた老婆が、一人でお茶会を開いていた。テーブルには、不揃いなティーカップがいくつも並べられているのに、客は、彼女以外、誰もいない。
「まあ、いらっしゃい。ちょうど、昨日のお茶会が、終わったところよ」
老婆は、私たちを見ると、悪戯っぽく笑った。第七の大魔女、ゲルダ。
「私は、『眠りの蒼苔』を探しに…」
私がそう言うと、ゲルダは、私の言葉を遮るように、空のティーカップを一つ、私に差し出した。
「苔は眠るもの。眠りは忘れるもの。けれど、お嬢ちゃんは、思い出すために、ここへ来たんだろう?」
老婆は、訳の分からないことを言いながら、何もないティーポットから、私のカップへと、見えないお茶を注ぐ真似をした。
「さあ、お飲みなさいな。今日の特別なお茶は、『失くしたものの味』がするよ」
その、あまりにも奇妙なやり取りに、私はどう反応していいか分からず、ただ立ち尽くす。
ゲルダは、そんな私を面白そうに眺めると、壁に掛かった、針が逆さに回る時計を、ちらりと見上げた。
「苔が目を覚ますのは、時間が、正しく歩き始めた時。けれど、困ったことに、今は、時間が、悪戯好きの子供に、ぐちゃぐちゃに書き換えられている最中なのさ」
「時間が…書き換えられている?」
「そうとも。とっても古くて、とっても綺麗な、壊れたお人形が、悪夢にうなされながら、滅茶苦茶に、踊っているのよ」
老婆の言葉は、まるで、子供に語り聞かせる、意味の分からないおとぎ話のようだった。
けれど、その瞳だけは、この世界の、何か、恐ろしい真実を、映しているように見えた。
私は、訳が分からないまま、手の中にある、空っぽのティーカップを、ただ、見つめることしかできなかった。
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