第十六話:生ける国境『鳴骸の帳』
荒れ狂う北の海を越え、私たちが寒冷北州の地に第一歩を印した時、待っていたのは、生命の温もりを拒絶するような、どこまでも続く凍てついた大地だった。
船倉で見た、あの不吉な鉱石のことは、私の心に重くのしかかっていた。敵もまた、この地を目指している。一刻も早く、私たちは目的地である魔女領へと向かわなければならない。
数日間の過酷な行軍の末、私たちは、ついにその場所に辿り着いた。
魔女領を外界から隔てる、生ける国境――『鳴骸の帳』。
それは、天を突くほどの高さにまで積み上げられた、巨大な獣たちの骨で出来た、延々と続く壁だった。骨と骨の間を吹き抜ける風が、まるで亡者のむせび泣きのように、不気味な音を奏でている。
そして、その帳に一歩足を踏み入れた瞬間、私は、愕然とした。
体内のマナの流れが、ぴたりと、止まったのだ。私の力の源である、環流マナ術が、この結界の中では、一切使えない。
私は、ただの、非力な少女になった。
どうすれば。この、広大で、方向感覚さえ失わせる骨の迷宮を、どうやって進めばいいというの。
絶望に、足が竦みかけた、その時だった。
私の手を、リリアが、くい、と引いた。
彼女は、感情のない硝子玉のような瞳で、ただ前を見つめている。そして、迷いのない足取りで、骨の壁の間にある、僅かな隙間へと、私を導き始めたのだ。
驚くべきことだった。
リリアは、まるで、この地を知り尽くしているかのように、安全な道を選び、食べられるという凍った木の実を見つけ、夜を越すための風を凌げる岩陰を、的確に探し当ててみせた。
それは、貴族の侍女が持つはずのない、あまりにも実践的なサバイバル知識。魂は失われても、彼女の前世が培った記憶の残滓が、今、この極限の状況で、私を救ってくれている。
私は、初めて、リリアに「頼った」。
私が彼女を守るのではない。彼女が、私を、生かしてくれている。
この旅は、もはや、私の一方的な救済劇ではない。私と彼女が、二人で共に生き抜くための戦いなのだ。その事実は、私の歪んだ庇護欲を、真の意味での「絆」へと、静かに変え始めていた。
その夜、岩陰で。
リリアが用意してくれた寝床で、私たちは凍える体を寄せ合った。火がなければ、このまま凍え死んでしまうかもしれない。
私は、体内でかろうじて制御できる、ほんの僅かな凍晶‐シアンの魔力を、指先に集中させた。そして、空気中の水分を凍らせ、月光を収束させるための、小さな、完璧な氷のレンズを作り出す。
か弱い月明かりが、レンズを通して、一点に集まる。乾いた苔の上に落ちた光が、熱を帯び、やがて、ぽっ、と、小さな炎が生まれた。
「…あなたがいつも、私の世界に光をくれた。今度は、私の番よ、リリア」
揺らめく炎を、ただ無感動に見つめる彼女の横顔に、私は、そっと語りかける。
その声が、彼女に届かなくとも、今は、それで良かった。
私たちは、今、確かに、二人で、ここにいた。
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