第十話:老犬の洞察と封印の真実
リリアが香りに反応した。
その事実は、私の世界に、確かな光を灯してくれた。希望に打ち震えるとは、まさにこのこと。私は、日記の新しいページを開くたびに、胸が高鳴るのを感じていた。道は拓かれたのだ、と。
その日も、私は自室で、次なる計画に思考を巡らせていた。隣には、リリアが静かに佇んでいる。
私は、ふと、そんな彼女の姿に目をやった。感情を失い、ただそこに在るだけの、美しい人形。
あの微かな反応は、確かにあった。けれど、彼女の心が戻るまでには、どれほど遠い道のりが待っているのだろう。彼女が失ってしまった、たくさんの笑顔や、穏やかな時間。それを思うと、喜びの光の裏側から、深い悲しみが、暗い影のように忍び寄ってきた。
(私が、あなたから、全てを奪ってしまった…)
その、深い絶望に心が沈んだ、瞬間だった。
部屋の隅で丸くなっていた、城の老犬――父の代から仕えるバルタザールが、「クゥン」と、か細い悲鳴を上げたのだ。
「バルタザール?」
名を呼ぶと、バルタザールは苦しげに身を震わせ、その場にぐったりと倒れ込んでしまった。私は慌てて駆け寄る。その灰色の毛は逆立ち、浅く、速い呼吸を繰り返している。
何が起きたというの。
私は、バルタザールの体にそっと手を触れ、自らの魔力を流し込んで、その状態を探った。
そして、戦慄した。
彼の体を蝕んでいたのは、病でも、老いでもない。微かだが、しかし、私が決して忘れることのない、あの禍々しい力の奔流。
三日前、この城の全てを喰らい尽くさんとした、私の、暴走したマナの残滓だった。
なぜ。どうして。
リリアが、その身と魂を賭して、完全に封印してくれたはずではなかったのか。
思考を巡らせ、そして、一つの、あまりにも残酷な事実に思い至る。
バルタザールが苦しみだしたのは、いつ?
――私が、リリアを想い、深い絶望に沈んだ、あの瞬間だ。
まさか。
リリアの施した封印は、完璧ではなかった。それは、術者である私の精神状態に、深くリンクしているのだ。私の心が、悲しみや絶望といった負の感情に揺らぐたび、封印に綻びが生じ、その隙間から、災厄の力が漏れ出してしまう。
リリアを救いたいと願えば願うほど、彼女の現状を悲しむ。
その悲しみが、彼女が命を賭して施した封印を揺るがし、周囲の無垢な命を脅かす。
なんという、救いのない循環。
私は、震えが止まらなかった。
リリアを救うためには、まず、この私自身が、心を律しなければならない。どんな悲しみにも、絶望にも、決して揺らがない、鋼の精神を持たなければ。
希望の光を見つけたと、喜んでいたのも束の間。
私の前には、さらに険しく、そしてあまりにも重い宿命が、横たわっていた。
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