水かがみ
鏡に向かって屈むんだ。
単純なダジャレだよ。
信じるか信じないかはどうでもいい。でも、おれにとっては、目の前のラーメンが醤油ラーメンだってことと同じくらい確かな話だ。
観察をした限り、恵まれているやつは屈まない。屈むのは恵まれないやつら、いかにも無職そうなやつ、まれに見る不細工なやつ、パンツを奪われてフルチンで下校するいじめられっ子。
そいつらが屈むんだ。水の鏡に。
それは水たまりだ。水は博物館の裏手のコンクリートでできた小屋からちょろちょろ流れ落ちるから、消えることは絶対にない。
恵まれたやつらはみんな、その水たまりを踏む。何も変なものが映っていないからだ。
だが、恵まれないやつらには見える。異世界。ロープレ風の世界。そこに見える自分の顔は飛び切り美形で、女の子たち、あるいはイケメンたちが待っている。
恵まれないやつらは屈んだ姿勢からどんどん前のめりになって、――なんとなく、わかってきただろ? そのまま水たまりの向こうの世界に行っちまうんだ。
なんで、こんなことを知っているかって? 二十連勤のサービス残業が続いたとき、おれも見たのさ。異世界を。ロープレ風、ヨーロッパ風の世界を。明らかに盛ったおれのアニメ風の顔が。
間違いなく、おれは恵まれない人間だった。屈んだし、前のめりにもなった。
じゃあ、なんで生きてるかって?
電話があったんだ。弁護士事務所から。少し前に死んだ真理恵伯母さんがおれに遺産を残してくれていて、相続税支払っても現金で一千万残る。
それでおれはギリギリでやめた。一千万あれば、あのクソ会社をやめられるし、ちょっと旅行にも行ける。いっそ起業するか?
てなわけで、おれは立ち上がった。向こうに行かなかった。恵まれた人間だからな。
そうしたらさ、舌打ちしやがんの。水たまりの向こうのアニメ風に美化されたおれが。
慌ててそれを踏むと水たまりはぐちゃぐちゃに揺れて、カラスが飛び交うような影を見せた。
しばらくすると、水たまりは落ち着き、そこにはいまのおれが映っていた。
あれはろくなもんじゃない。
一千万って金に機嫌のいいおれは善行がしたくなって、あの水たまりを潰すことにした。
次の日、モンキーレンチ一本、ミリタリージャケットに隠して、博物館に行き、関係者以外立ち入り禁止って書かれた五十センチもない柵を越え、水をちょろちょろ流す小さなコンクリートの物置みたいなものに入った。
天井のそばのわずかな隙間以外、明かりがない暗がり。そこにあったのは小さな神社だった。祠だな。
祠の前に毛をむしったカラスがまるまる一羽、お供え物になっていた。そのカラスが腐臭がしない。殺されたばかりのカラスだった。誰かがマメに死んだカラスを取り換えてる。それを考えただけで気持ち悪くなって逃げたくなった。
ピタッ、と音がした。小さな祠の屋根に水滴がぶつかっていた。祠はずぶ濡れで、その原因は天井を通る、水道管だった。
レンチでボルトをきつく締めると、水は滴るのをやめた。
いずれ、祠は乾き、水たまりも乾くだろう。
と、おれも思ったんだけどな。
水たまりは、おれのことを敵として認定したらしい。
追いかけてきやがった。
ほら、おれのどんぶり。スープが残ってるだろ?
ほんの少し。
浅ければ浅いほど、はっきり見える。
見てみ。
もっと、しっかり前のめりになって。
顔をどんぶりに突っ込むくらいに。