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第五章 でがらし聖女と辺境伯はゆっくりと歩み寄る



 セイラがやって来て、一週間が経った。

 この短期間で彼女は俺の心に深く根を張って、しっかりと居ついている。

 俺はセイラがますます愛おしく、手放しがたくなっていた。もう、彼女なしの人生などあり得ない。

 そうしてセイラとの暮らしは溢れるほどの喜びと、新たな発見に満ちていて──。


「旦那様ー」


 後ろからセイラに呼ばれ、足を止めて振り返る。


「どうした?」


 きっとまた、なにか好奇心を刺激される物でも見つけたのだろう。空色の瞳をキラキラと煌かせ、廊下を足早に駆けてくる。……あぁ、今日もセイラが可愛い。


「さっき納戸の前を通ったら、トウモロコシが入った袋がいくつか外に出されたままになってたんですけど、あれってなんですか?」

「ああ。うちの領では戦争等に備え、納戸に家畜の飼料としてトウモロコシを備蓄していてな。それを戦火を免れた近隣領の畜産業者らにも開放したんだが、どうやら品種の違うものが交じっていたらしい。到底飼料には向かないと突き返されてしまってな」

「飼料に向かない、ですか?」


 この一週間で知ったのだが、セイラは好奇心が旺盛だ。

 加えて、実に知識が深い。しかも彼女の持つ知識は驚くほど多岐に渡り、それらの一端を垣間見るにつけ、俺は毎回舌を巻かずにはいられない。


 聖女として王城に暮らしている時分、彼女が高名な教師に指導を受けていたのは間違いない。だが、彼女の知識は書物や人伝で見聞きしたものというより、もっと実践的というか身に馴染んだものというか。上手く言い表せないが、そんな特異性を感じてならない。


 そして英知にあふれた彼女を前にして、俺が最終的にいき着く答えはひとつだ。

 聖力の有無は問題ではない。彼女はまさしく聖女──只人の人智を超越した、神聖な存在なのではないかと。


 ……あぁ、俺の妻が眩しい。


「なんでも、皮が硬くて歯が立たんらしい。指摘された担当者が実際に茹でて食してみたそうだが、茹でてなお歯が強くないと噛むことも出来ないと言っていた」


 俺が告げた瞬間、彼女の目がキラリと光る。


「皮が硬いって、もしかしてそれ爆裂種じゃ!?」

「爆裂……?」


 彼女の口から飛び出した、少々物騒な単語に首を捻る。


「あの! そのトウモロコシ、処分するくらいなら少し分けていただけませんか?」

「もちろん構わんが」

「ありがとうございます! 旦那様、上手くするとおやつに目新しい物をお出しできるかもしれません!」

「ほう。それは楽しみだ」


 興奮気味に語るセイラが愛おしい。


「あ、ちなみにもし上手くいかなくても昨日作ったクッキーがまだ残ってますし、よかったら今日も一緒にお茶をしませんか」


 ほんの一瞬、夕方までに仕上げねばならない書類仕事が頭を過ぎったが、二日連続の彼女からの嬉しい誘いに一も二もなく頷く。


「もちろんだ。今日は天気もいい。テラスで一緒にお茶をしよう」


 昨日、初めて彼女にお茶に誘われて俺はすっかり舞い上がった。しかも、その席で出されたクッキーはなんと彼女のお手製だという。感動にうち震えながら、促されるままクッキーを口にした。サクリと口の中でほどけたクッキーは素朴ながら香ばしく、とても味わい深いものだった。

 尊い身の上でありながら料理までこなす彼女に脱帽したが、さらりと告げられた『大豆の搾りかすを使った』という言葉に目からうろこが落ちた。廃棄を待つか、肥料に利用されるのがせいぜいの調理後の副産物。それをこんなに美味しく活かそうとは。彼女の見識に感服した。

 あれをまた彼女と共に食せるとは嬉しい限り。知らず頬が綻む。


「わぁ、いいですね! では、三時にテラスで!」


 元気な返事とともに小走りで納戸に向かうセイラに笑顔で手を振る。


「ああ。また三時に」


 ……さて、なんとしても書類仕事を片付けてしまわねば!


 表情を引き締めて、足早に書斎へと向かうのだった。




 数時間後。

 俺が三時ギリギリでなんとか仕上がった書類をセバスチャンに託してテラスに向かうと、既にセイラがテーブルについていた。


「すまない。待たせてしまったかな」


 ひと声かけて彼女の向かいの椅子に掛けながら、控えていた侍女に給仕を指示する。

 ふとテーブルの上に、昨日のお茶ですっかり気に入りとなったクッキーを見つけ思わず頬が緩む。さらに、俺に向かって微笑むセイラの腕に二十セントほどのバスケットが抱えられているのに気づき、ますます笑みが深まる。


「いえいえ。私が待ちきれなくて早く来ちゃっただけで、旦那様は時間ピッタリですよ」


 侍女が紅茶のサーブを終えると同時に、セイラがうずうずとした様子でバスケットの蓋を開ける。


「旦那様、なかなか美味しく出来たと思うんです。じゃーん!」


 バスケットに中には、指で摘まめるサイズの白い菓子がぎっしりと詰まっていた。茶混じりの白い菓子からは香ばしい匂いが立ち昇り、鼻腔を擽る。


「ほぅ! それがトウモロコシを使った目新しいおやつというやつか。初めて見る形だな、焼き菓子かなにかかな?」

「ふふふっ。説明より、まずは食べてみてください!」

「どれ。ではさっそくいただこう」


 さぁっ!っと促され、少し茶の混じる白っぽい菓子をひと掴みし、豪快に口に放る。


「! これは、美味いな!」


 目を丸くしてこぼした第一声に、セイラは破顔し、白い歯を覗かせた。


「よかったぁ! 自信はあったんですが、それでもあれだけ期待を煽っておいて失敗したらって思うと、内心冷や冷やだったんです」


 ……あぁ、俺の妻は可愛いな。


 飾らない素直な言葉と屈託ない笑み。その愛らしさに胸が跳ね、鼓動が速くなる。


「こんな菓子は初めてだが、とても香ばしくて美味しい。軽い食感とほどいい塩気が後引いて、いくらでも食べられるな」

「ふふふ、そうなんです。ついつい食べ過ぎちゃうのがポップコーンの難点で。気づくと無くなってたなんてこと、私もありましたもん」

「ほぅ。これはポップコーンというのか。使いどころに困っていたあのトウモロコシからこんな菓子が作れてしまうなんて、セイラには本当に驚かされる。君はすごいな」

「いえいえ、そんな大層なものじゃありませんよ。それにポップコーンは調理行程自体はすっごく簡単ですから」


 料理の知識に乏しい俺には、どんな工程を踏んだらトウモロコシがこんな食感の菓子に生まれ変わるのか想像も及ばないが、それでもセイラが屋敷の……いや、王都の料理人だって作ったことのない菓子を作ったのは事実で。やはりそれは称賛に値すると思うのだ。


「簡単? そうなのか?」

「はい。ポップコーンはそのネーミングの通り、熱を加えて皮を弾けさせればそれでもう完成です。ただ、トウモロコシならなんでもいいってわけじゃないのがミソで。納戸にあった品種がたまたまこの調理に向いている種類だったみたいです。たまたま気づけたのは幸いでした」


 ……たまたま、か。


 セイラはあっけらかんと語るが、これに気づけたことは単なる偶然ではない。セイラの知識があってこそなのだ。


「旦那様、遠慮せずたくさん食べてくださいね。実は気合いを入れて作りすぎてしまって。厨房にもまだまだたっぷり残ってるんです」


 セイラはそう言ってバスケットをテーブルに置くと、気取らない様子で自分もポップコーンをひと摘まみしてパクッと頬張る。

 ひとつのバスケットから同じ物を食べる。マナーを重視する公式の茶会ではまずあり得ない行為だが、夫婦でひとつテーブルを囲む午後のひと時にはこれ以上なく相応しく、そして心地よく感じられる。


 俺の今までの人生の中で、こんなにも心満たされた時間があっただろうか。いいや、セイラを得なければ、絶対に得られなかった時間だ。


「セイラ」


 スッと腕を伸ばし、向かいの彼女の頬にそっと触れる。

 指先で頬を辿り、サクランボみたいに色づく唇をツッとなぞる。


「え?」

「ポップコーンのかけらがついていた」


 本当はセイラ愛しさに咄嗟に腕が伸びてしまったのだが、そんな変態じみた内容は間違っても打ち明けられず、表情を繕って指を引くと整然と告げた。


「っ! す、すみません! ありがとうございますっ」


 真っ赤な顔をして俯いてしまった初心な妻に、内心で謝罪する。


 ……だが、君が可愛すぎるのも悪いんだ。


 そんな言い訳を重ねつつ、何食わぬ顔でバスケットに手を伸ばす。


「どれ。もう少しもらおうか」

「は、はい! 少しと言わず、いっぱい食べてください! よかったら昨日のクッキーもありますから」


 セイラは赤さの残る頬で照れ隠しみたいに笑い、クッキーの皿を俺の方に寄せた。

 三時のお茶は美味いポップコーンにクッキー。そしてなにより、セイラの柔らかな眼差しと優しい微笑みを受けながら過ごす至福の時間となった。


「あぁ。幸せだな」

「わかります! 美味しいものって心を幸せで満たしてくれますよね」

「……そうだな」


 セイラに心も胃袋もすっかり掴まれてしまった俺は、きっともう永遠に彼女から離れられない──。



◇◇◇



 輿入れから一カ月。旦那様と一緒にテラスで三時のお茶を飲むのもすっかり習慣になったある日のこと。


「予定通り、俺は明日カガール王国に向けて発つ。しばらく屋敷を空けることになるが、なにかあればセバスチャンに言ってくれ」


 円形のティーテーブルを挟んで向かいに座った旦那様が、お気に入りのポップコーンを食べ終えたタイミングで切り出した。


「分かりました」


 これは前から伝えられていたこと。私は頷いて答えながら、明日からのお茶はひとりか……寂しいなと感じ、真っ先にそんなことを考えた自分自身に少し動揺した。

 どうやら自分が思っている以上に、旦那様は大切な存在になっているらしい。


 ……これって間違いなく、好きってことなんだよね。


 順番がおかしいけど、私は夫となった男性に恋をしている。改めて意識するとちょっと……いや、かなり照れる。


「ところで、彼の国とすべての戦後交渉は済んだとお聞きしています。今回はどんな目的で訪問されるのですか?」


 内心の気恥ずかしさを誤魔化すように、旦那様に気になっていた話を振る。


「戦後賠償金の支払いと捕虜の返還が確認されたことを、正式な書面にサインをもって示す。まぁ、形式的なものではあるがな」

「なるほど」


 賠償金と捕虜をたしかに受領したと示すにも、ちゃんと調印式みたいな形で行う必要があるということか。正直、面倒くさいが国同士のこととなれば、そういうものなのだろう。


「君には心細い思いをさせてしまうが、彼の国への来訪はこれが最後だ」

「え? 最後、ですか。……つかぬことを伺いますが、今回の戦後交渉が終わった後、カガール王国とはもう交流の場は持たないのでしょうか」

「戦前の状態に戻るのだから、必然的にそうなるだろう。もともと国交は持っていない」


 ……んー。それだと、また時が経ったら戦争を繰り返してしまう可能性がありそうだなぁ。


「どうかしたか?」

「いえ、もったいないなと。これを機に、今後も継続的に対話と交流をしていけたらいいのになぁと……あ。勝手なことを言ってすみません」


 おっと、部外者が余計なことを言っちゃったかな。

 目を見開いてこちらを注視する旦那様に気づき、慌てて口を噤んだが、夫婦とはいえこういう話題はデリケートだ。


「聞かせてくれ」

「え?」

「今後のために、君はどうするのが最善と考える? 君の意見を聞かせてほしい」

「えぇっと、私は政治家でもその手の専門家でもありません。それを念頭に、素人のいち意見として聞いてくださいね」


 真剣そのものの表情で問われ、少し躊躇しつつこんな前置きの後でおもむろに口を開く。


「交流を断たないことが、共存共栄への第一歩になると思うんです。互いを知り、共生の在りようを探ることで戦争とは違う、平和な解決策が見いだせるかもしれませんから」

「具体的には、どうすればいい?」

「んー。まずは、今回を『最後』にしないことでしょうか。翌年でも、戦後何年かの区切りでもいい。再び接見する機会をカガール王国から取り付けておくことが重要かと」


 旦那様は重く頷く。

 俯き加減になっていてその表情は窺えないが、気分を害している様子はない。


「今は最低限、交流を絶やさないことを目的に。そして徐々に文化や経済面でも両国の交流が密になり、商人が自由に行き来できるような関係になれば、それは戦争とは縁遠い平和な未来といえるのではないかと」

「なるほどな」

「綺麗ごとと思われるかもしれませんが、でもやってみる価値はあると思います」


 旦那様が顔を上げ、真っ直ぐに私を見つめる。その瞳に籠もる熱量に、ドキリとした。


「……聖女というのは寛容の心でこの世に平和と新たな菓子をもたらす全知の調停者なのやもしれんな。どうやら俺はとんでもない人を妻に迎えたようだ」


 旦那様が感嘆と共に漏らした台詞にギョッとする。


「ちょっ、なんですかそれは!? やめてください! やっと聖女をお役御免出来て、一般人を謳歌してるんですから!」


 私はたまたま別の世界が辿ってきた歴史を知っている。そこから導きだした合っているかどうかも分からない持論。それに対して、全知の調停者などとは、買い被るにもほどがある。

 しかも『新たな菓子をもたらす』って……マジで勘弁してほしい。それだってもちろん私の功績ではない。

 つい声を大きくした私を、旦那様は意外そうに見つめていた。


「君にとって聖力を失ったのは辛いことではないのか?」

「辛いことだとは思っていませんよ。一部で『でがらし聖女』だなんて揶揄されていますが、実はあれってなかなか言い得て妙なんです。要はすべて出し切った、やり切ったということですからね。私としては誇らしいくらいです」

「やはり君の寛大さには感服するよ」

「わわわ、ですからやめてくださいって。そんな大層なものじゃありませんよ。私はただ己のやるべきことをやり切り、聖女としての役目を全うしたというだけで。いうなれば人生の第一章を終えたようなイメージですね。そんなわけで私は今、絶賛第二の人生を満喫中です」


 旦那様は眩しいものでも見るように、フッと両目を細めた。もしかするとテラスに差し込む陽光が、目に染みたのかもしれない。


「そうか。君にとって今の暮らしが苦になっていないならよかった」

「苦だなんてとんでもない。むしろ、ここでの暮らしはかつてないくらい楽しくて。ここの環境が良いのもあるのでしょう。……でも、こんなにも心健やかに笑って過ごせているのは、きっとあなたがいてくれるからです」


 私が少しの勇気で告げたら旦那様は驚いたように目を見開いた後、それはそれは幸せそうに微笑んだ。


「俺も同じだ。俺も君を迎えてから、毎日が楽しい。日々の暮らしにかつてない充足を感じている。……だが、ふとした瞬間に切なく思うこともある」


 旦那様が思わずといった様子でこぼした台詞に首を傾げる。


「切ない、ですか?」

「俺は君とこうして一緒にいられるだけで幸せで。その気持ちに嘘はないが、同じ分だけもっと欲が出てその先が欲しくなる。浅ましくも君に口付けたいと、その温もりを感じたいと、そう望んでしまう」


 私を見つめる色欲を孕んだグリーンの瞳に、胸がざわめく。


「旦那様……」

「セイラ、君を愛している」


 ドクンと鼓動が大きく跳ねた。

 旦那様が私を望んでくれていたのは知っていた。だけど直接的な『愛している』の言葉は、別格の重みを持って私の心を震わせる。


「俺は君と本当の夫婦になりたい」


 旦那様がこんなふうに己の心情を口するのは、輿入れの日以来初めてのこと。ここまで欲めいたものの一切排除して紳士に徹してくれていた彼の心の吐露は、私を動揺させた。しかし、旦那様が私を求めてくれている、その事実が嬉しくもあり……。


 ……どうしよう。なんて答えればいいんだろう。


 一瞬、答えに躊躇した。

 その時。テーブルを挟んだ向かいからスッと腕が伸びてきて、大きな手のひらが私の頭にのる。


「すまない、どうか今の話は忘れてくれ。困らせるようなことを言って悪かった。一カ月前に『関係を急ぐつもりはないし、君の嫌がることは絶対にしない』と誓ったあの言葉を反故にはしないから安心してほしい」


 大きくて温かい大好きな旦那様の手。その手が慰めるように私の頭の上を優しく往復する。

 旦那様は優しい人だ。私の戸惑いや怯む心を敏感に察し、こんなふうに逃げ道をくれる。

 だけど、旦那様は肝心なところをちっとも分かっていない!


「忘れるなんて嫌ですよ!」

「えっ?」


 いきなり語気強く叫んだ私に、旦那様はビクンと肩を跳ねさせる。頭を撫でていた手も動きを止めた。


「だって、旦那様が初めて『愛している』と言ってくれたんですよ。忘れるなんて、できるわけないじゃないですか!」

「セ、セイラ?」

「私が答えに詰まってしまったせいで、あなたの告白に困っていると、そう捉えたんですよね? 違います……ううん。もちろん戸惑いはありますが、でも、それだけじゃないんです!」


 キッと旦那様を見据え、興奮したまま心の内をぶつける。


「あなたの告白が嬉しくて。あなたに口付けやその先まで望まれていると知って、すごく恥ずかしくなって。でも、それを期待する自分もたしかにいたから……私は、それをあなたにどう伝えたらいいんだろうって迷っただけなんです。好きな人にもらった『愛している』の言葉を、勝手になかったことにしないでください!」


 感情のまま息もつかずにまくし立てる私を、旦那様は固まったまま見つめていた。


「君が、俺を好いてくれていると?」


 しばしの逡巡の後で、旦那様が発した声は微かに震えていた。


「ええ、好きです。なんなら、大好きですよ。優しくて、私の話を笑って聞いてくれて、いつだって労りの心を持って誠実に接してくれる。こんな素敵な旦那様のこと、好きにならないわけないじゃないですか」

「セイラ……!」


 旦那様がガタンと席を立ち、テーブルを回り込む。僅か二歩で向かいに座っていた私の横にやって来ると、上から覆い被さるように腕の中にそっと私を抱きしめた。

 スーッとした清涼感のある香りがふわりと鼻腔を掠める。この一カ月で覚えた旦那様の香りだ。

 この香りに包まれると、いつも心がふわっとほどけるような安らぎを感じる。だけど旦那様にすっぽりと囲い込まれた今は、着衣越しでも伝わる胸板の厚みや肌の温もりにドキドキして落ち着かない。

 そわそわと身を捩って視線を上げたら、いつになく近い距離にあるグリーンの瞳とぶつかった。


 次の瞬間、旦那様の顔が滲むくらい近づいて──。

 唇同士がふわりと重なる。

 実際に唇が触れ合っていたのは瞬きするくらいのほんの僅かな時間。彼の唇はすぐに離れていったけれど、私より少し高い温度と柔らかな感触を記憶に刻むには十分で。


「……ぅううっ、旦那様のばかぁ」


 私はガバッと両手で口もとを押さえ、旦那様に恨みがましい目を向ける。


「お、おい? セイラ?」

「いきなりだなんてひどいですよ。私、ファーストキスだったのに。『もろもろ、ゆっくりペースでお手柔らかに』ってお願いしてあったじゃないですか」

「いや、むしろこれ以上ないほど要望通りだと思うが……うん。まぁいい。口付けの先は君のペースに合わせよう」


 旦那様は悪びれる様子もなく飄々と言ってのける。


「え? 待ってください。口付けの先はって……それってまさか、口付けはこれからもちょくちょくするってことですか!?」

「当たり前じゃないか。俺たちは互いに心通じ合っているんだからな」

「えぇえっ!?」


 しれっと口にする旦那様に、私は開いた口が塞がらない。

 紳士的で殊勝だった旦那様はどこに消えてしまったのか。


「それからセイラ、ひとつ忠告させてくれ。そんなふうに真っ赤な顔で唇を尖らせても可愛いだけだ。俺の理性の限界を試したいんじゃなければ、控えることだ」


 理性の限界ってなに!?

 ……い、いや。やっぱりこれについては触れるまい。間違いなく、墓穴を掘る。

 満足げに微笑む旦那様を余所に、私の頭はあっぷあっぷだ。


 その後、旦那様が名残惜しそうに仕事に戻っていき、お茶の時間がお開きになっても私の鼓動は速いまま。同様に頬の火照りもまだ当分、冷めそうになかった。





 翌朝。

 私は玄関先で、カガール王国に向かう旦那様の見送りに立っていた。


「旦那様、交渉が上手くいくように祈っています。そして、ご無事のお帰りを心からお待ちしています」


 スッと一歩前に進み出て、騎士の正装に旅装のマントをなびかせた旦那様に告げた。


「ああ、きっと万事うまくやってみせるさ。これでカガール王国とは遠からず、君が昨日語った『自由に行き来できるような関係』になるぞ。待っていてくれ」


 朝食の席で聞かされたのだが、実は旦那様は昨日のお茶の後、カガール王国との今後の在り様について、さっそく陛下と魔報で会談をしたそうだ。そうして、彼の国と次回の接見の約束を取り付ける方向で動くこと伝え、陛下からの了承も得たという。

 さすが、旦那様は仕事が速い。


「はいっ、楽しみに待っていますね。あ、そうだ。もし両国に国交ができて行き来に制限が無くなったら、その時はカガール王国に新婚旅行にでも……って、いくらなんでも新婚旅行は無理かな」

「新婚旅行? なんだそれは?」


 思いつきで口にして、さすがに難しいかと撤回しようとしたら、旦那様が予想以上の食いつきを見せた。


「結婚を記念して夫婦で行く旅のことです。実はカガール王国には疲労回復、美肌に老化防止にまで利くと謳われる名湯があるんです。旦那様と行けたらいいなぁと思ったんですけど、そんなに早くはさすがに無理ですよね。なんなら、結婚三十周年の真珠婚旅行でもいいかもしれません」


 王城で教師から諸外国の特色について学んでいる時にこの温泉の存在を知り、いつか行ってみたいと思っていたのだ。

 あれ? ところで、この世界に真珠婚の概念ってあるのかな?

 ……まぁ、いっか。どんな名目の旅行でも、いつか旦那様と一緒に行けたらそれでいい。


「三十年など待てるか」

「え?」

「早急に国交を樹立し、新婚旅行でカガール王国に行くぞ」

「ええっ!?」


 勢い込んで口にする旦那様に、私は素っ頓狂な声をあげた。


「信じていないな?」

「い、いえ。そんなことは……」

「一年だ。必ず、一年以内でやってみせる」


 旦那様が低く囁いて、大きな手で私の頬を包み込む。その手に僅かに力が籠もり、えっ?と思っているうちに精悍な顔がアップに迫る。

 形のいい唇が私のそれに押し当てられる。しっとりと柔らかな感触に脈が跳ね、全身が熱を持つ。


「騙されたと思って少しずつ旅支度を進めておいてくれ」


 名残惜しそうに口付けを解いた旦那様は、顔を真っ赤にして固まる私の唇を指先でなぞりながら冗談めかして告げた。

 ただしその目は、どこまでも真剣だ。


 ……無謀とも思える早期の国交樹立。だけど旦那様なら、やり遂げてしまうかもしれない。


 ゴクリと唾を飲み込んだ。

 旦那様は最後に私の頭をひと撫でし、愛馬にヒラリと乗り上がった。


「では、いってくる」

「お気をつけて! それから、旅の支度もちょっとずつ進めておきますね!」


 二度目のキスと一見無謀と思われる短期での国交樹立の宣言。二重の衝撃から冷めやらぬまま、なんとか見送りの台詞を伝えた。

 旦那様は馬上から眩い笑みを残し、隣国カガール王国に続く道を駆けて行った。



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