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祝福の子

 瞼を開けると知らない気配があった。

 姿は見えず、地面に残された足跡にもういないのだと悟る。

 新参者を見に来たのかとすぐに忘れた。

 まだ月が出ているので、眠ったのは二時間ほどだろう。伸びをしながら起き上がる。

 リートには地面の暖かさが判らない。眠るために体を横たえてもけして触れることがないからだ。

 服の上に乗っていた虫を葉の上へ置いて作業へ戻った。

 テラリウムの中は早くも植物が芽を出し始めていた。空の魔石が魔力を吸って、その石を植物が吸い色づいている。植物は七色の箒草とニワトコと月光草が摘みごろで、アオハダの赤い実が落ちている。

 棚の図鑑を魔法で引き出し、ページを開きながら内容を確認した。妖精の道にもあった植物を思い出しては磨り潰したり煮てみる。

「なんだか色が薄い。……そういえば紙がないな」

 魔法インクはできたが緑色になった。想定では青くなるはずだが条件分岐が予想と違ったのだろう。ビーカーを揺らしながら首をかしげる。

 住居を直すので頭がいっぱいだったリートは紙を探しに足を向ける。

 そうして出ると夜風は冷たい。

 適当に歩いていると声をかけられた。

「オメーどこのもんじゃい。ボクはスライム君だよ」

 切り株の間から半透明の物体が見上げていた。思わずしゃがむ。

「おー、こっちのスライムは眼が丸いんだ……。昨日ここへ来たんだよ。よろしく」

「知ってるぞ、お前が新しく来たリートだろ。へへへ、ボクは賢いんだよ。店探してんだろ、美術商のとこに行けよ。あそこ何でもあるんだぜ」

「ああそっか、美術商なら紙があるのか」

「紙? 紙なら怪物区の端でも売ってるぞ」

 月光浴をしていたスライム君は、紙を吐くトカゲが住んでいると教えてくれた。美術商へ行くより近いので、礼を言って尋ねた。

 トカゲは丸々と太っていて、たっぷり持っていけと言うのでインクと交換した。すると瓶ごと飲み込んで体を緑に変えると同じ色の紙を吐き出し始めた。

 帰宅したリートは大きな巻物や不揃いな紙束を切って、厚紙を縫い付ける。白紙の本を作っては空の戸棚へしまった。

 背表紙には新しいインクで色を付けるのだが、これが楽しくて仕方ない。

 気づけば日も昇りきっていた。

「錬金釜あったほうがいいかな」

「その前に免許ッスよー!」

 振り返った視線の先には、腰に両手を当てたフォルターだ。

「よく来られたね」

「魔法で飛んだッス。朝からとんだ重労働ッスよ。それよりなに勝手に錬金調合やってんスか。鑑定書無しに売れば牢屋送りは免れないッスよ。ったくもー!」

「魔法インクと紙を交換して来ちゃった」

 ひとしきり吐く真似をしたフォルターは「金銭絡んで無くてほんっっっっとうによかった……。入居一日目で犯罪者にしたら管理責任を問われるところッス」と毒づく。つまり自分の身が可愛いのである。

「今朝のニュース見ました? アカウントにお知らせとか行くんスけど、さすがに端末くらいは持ってまスよね」

「あるよ」

 金と銀を混ぜた硝子板を差し出すと顔を顰める。

「その端末、どこ産か聞いても」

「父が作ったんだよ。ほら、ちゃんと画面が出るタイプ」

 ホログラムディスプレイが浮かんだ。

 異界によっては人界より進んだ技術を持っている。

「ネットは繋がらないけど電話はできるよ」

「へぇ、お仲間さんと完全に離れ離れってわけじゃないんスね。妖精って電子機器使えないやつだけかと思ってましたよ」

「いや? 同族の中で持ってるの私だけ」

「なんで」

「父が作ったって言ったでしょ」

「……何に使うんスか」

「絵を描くの」

 親が作ったというイラストソフトを見せて笑うそれは、幼児がお絵かき帳をもらって喜ぶそれだった。

「リートさんってご両親亡くなってんスよね。自分でネット使えるようにできまス? てか妖精のくせに人臭いなぁ」

「ハーフだからね。こっちの端末の構造……プログラム言語がわかれば変換して繋げるよ。他の異界でもそういう感じで相互性持たせてたから」

「つまり今はオフラインってことッスね。連絡事項を伝えるのもフォアマンの役目なんスよ。あー、めんど」

 眉間を抑える彼にタブレットを借りると構造は一緒だった。

「昨日言い忘れてたんスけど、未成年は学校へ行く決まりなんス。親が招待状を持っててもガキには無いでしょ。ここ、有用ですって示さなきゃ居られないんス。でも赤ん坊を放り出すわけにもいかないから猶予期間を与えるんスよ。もらえるのは戸籍じゃなくて住民権ッスけど」

 そうことで未成年が学校にも行かずフラフラしてると警察に職質をされるらしい。

 学校へ行けと言われるのかと思えば「IDカードを携帯してればいいんスよ。あんたは戸籍があるんだから」とのことだ。

 受け取った薄いフィルムのカードをリートは懐へ入れる。顔写真とチップ、住所と名前が書いてある。色は白金だ。

「その学校ってところに子供がたくさんいるの?」

「うちの区は子供がいなくて廃校になってんスよ。なんで登校しなくていいけど行きたいなどーぞ」

 各区に最低一校作ると定められている学校だが、手入れもされず申し訳程度の維持魔法がかけられているだけだ。当然教師もいない。

 教えるだけならフォルターでも可能だが、如何せん時間がない。

 蔵書はそのままだという話に興味を引かれたリートは、学校の鍵をあずかった。

 ついでに掃除をしてくれと調子のいいことを言うフォルターを見送って、閉鎖された学び舎へ向かった。


「私の住居と変わらない廃墟さ。でもおっきい」

 蔦と茨の這う学校は装飾が凝っている洋館だった。図鑑で見た近代的な校舎とまるで違う。

 化け物が潜んでいそうな薄暗さ。空気に混じる濃い魔力と瘴気のせいで淀んで見える。

 それらは体に触れるとはじけ、痺れに身を震わせる。肌の表面がヒリヒリと痛んだ。

 鍵を使った正式な入場者にもかかわらず拒まれているのだろうか。

 石畳を進むと床に溜まった瘴気から火花が出る。

「人の子はこんな場所で勉強してるのか……大変だな」

 大きく息を吸って吐けば、汽笛にも似た鳴き声に大気が震える。静電気のような音が校舎中に響く。すると校舎内の瘴気が吹き飛び、肌の傷みも引いていく。

 校舎内は空気が濁って埃も多い。魔法で外へ吹き飛ばし、図書室へ向かう。

 すっかり固まった扉を開けば天井近くまである本棚に大量の本が列んでいる。

 目を輝かせて一冊抜き出した。リートにとって本は滅多に手に入らない貴重品だった。

「こんなに読んでいいなんて太っ腹」

 誇りをすり落とすように背表紙をなぞった。古い紙の薫りが好きだった。テーブルから布を引き払って椅子を下ろし、ゆっくりと捲った。

 気づけば夕暮れになっていた。

 人界の時間は早く流れている気がする。それくらい目まぐるしい。

 払ったはずの瘴気が広がる気配に顔を上げ、栞を挟んで抱きしめるように持つ。窓を開けると誰かいた。

 小さな陰が枯れた梨の木の根元にうずくまっている。

 窓を開けて近づいた。音を立てないせいで、その子は気づいていなかった。

 黒い繋ぎに灰色の大きなパーカー。体をすっぽりと隠している姿に見覚えがあった。少し尖った耳に目をとめながら思い出す。

 店で揉めていた、あの子供だった。

 確か子供は学校に行くのではなかったか。

 涙の薫りに誘われるようにしゃがんで顔を覗き込む。

 陰がかかったことに気づいた少年が顔を上げた。頬から灰色の粘体が染み出して服の上を滑り落ちる。やはり呪いだった。これが溜まって瘴気に変わったらしい。

「え、あ……っ」

 こぼれ落ちんばかりに見開かれた目にリートが映っていた。

 動揺したのか息をつめ、髪色が濃くなって、仰け反るように頭を引いた。それで首の黒いチョーカーが見えた。

 体から吹き出す呪いが増えて次から次へと石畳に広がり煙を出した。それに構わず話しかける。

「前に会った子だよね。こんな場所でどうしたの」

「く、来るな。僕に近づかないで」

 はくはくと口を開けていた少年が初めて喋った。かすれて怯えているのが判る。

「何にもしないよ、大丈夫だよ」

「うわ脂ぎった人攫いみたいなこと言い出した」

「確かにお家芸ではあるけど、そうじゃなくてね」

「え」

「顔も青スライムみたいになってるし、ここは怪物区の奥のほうでしょう。迷い込んでしまったの? 具合が悪いなら家まで送ろうか」

「青スライムて、そんな青くないで――さ、触るなっ!」

 必死な姿に伸ばした手を引っ込めた。

 猫が警戒するように目を見開いて歯を剥き出しにしている。それからバツの悪そうな顔をして目を泳がせた。

「ど、怒鳴ってごめん。でも君、危機感とかないわけ。見たら危ないって判るでしょ」

「判らないよ」

「五歳児か」

 とりあえず拳一個分開けて横へ座るとあからさまな悲鳴を上げた。逃げないのが不思議なくらいのビビりようである。

「私怖い? ここの人とそんなに変わらない造形をしてると思うんだけど」

「も、もう勘弁して。人がいない、いい場所だったのに。魔法使いみたいな格好の変人に絡まれるなんてついてない。観光客じゃなさそうだし幻覚? とうとう目がおかしくなったんか死にたい」

「君は悩んでるの?」

「うるさいなあ、ほっとけ。誰にも迷惑かけてないだろ。くそ、燃料空っ穴じゃなきゃ燃やしてやるのに」

「なんだ、迷惑かけないためにいたんだ」

「だからっ」

 俯いてブツブツ言っていた少年は顔を上げ、今度こそぎょっとした。

 再び伸ばされた手が頬に触れた。暖かな指先がムニリと頬を押したとたん、呪いも瘴気も吹き飛んだ。

「遅くならないうちに帰りなよ。今日は鱈が降ってくる」

「は」

 くるりと回って姿を消したので、消えた場所を唖然とみていた少年が頬を抑えて俯いたのも知らなかった。


 数日経った。

 連日続いた鱈の大雨が止み、生臭くなった怪物区は腹を空かせた動物で溢れていた。それを追って別の動物がやってくるので辺りは死骸だらけだ。残った骨や皮が魔法植物に吸われている。

 リートは学校と住居区の往復が続けながらインクを作って結果を記し、家を直して本を読みに行く。時折スライム君と話すだけで、他の住民と接点がない。

 直す物が多すぎるのも悪かった。

「家に住むって大変なんだな」

 繋がらない電気配線、鉄なのでうっかり触れもしない錆びだらけな水道管。水は魔法で出せるので問題ないが、人に混じって暮らす場合は同じ環境で過ごすのが好ましいと族長は言っていた。

「ここの人はどうやって暮らしてるんだろ。……見学させてもらう? いくらかかるんだろ」

 オウル諸島は何かにつけて金がかかる。

 こんな生活を続けて疲れないのだろうかと溜息をついた。

 枯れ葉のベッドに転がりながら、本を胸の上に置いて太陽を眺めた。

 また日が暮れる。

 少しだけと目を瞑ったとき、耳の中で羽虫が這うような不快感に見開いた。

 草の影から黒い羽虫の集合体が襲いかかってきた。羽音は金属音に近く耳が痛い。

 羽虫はリートへ殺到し、触れる直前で弾かれた。魔法防壁の光で目が眩む。

 『ぎゃあ』と悲鳴が聞こえた。

 暗い穴が開き、羽虫が逃げていく。逃げ帰る姿は想像よりずっとおどろおどろしく恨めしさがあった。

「もう追ってきたのか、相変わらずの悪食め」

「……今のなんスか」

 背後にフォルターが立っていた。

 体を強張らせて狼藉者が消えた先を睨んでいる。

「食人妖精って私は呼んでる。大丈夫、ジョーカーの類じゃないよ」

「けど異界のものッスよね」

 侵入者を警戒する姿は毛を逆立てる猫のようだ。眼鏡の奥で瞳を鋭く尖らせている。

「他の人は襲わないけど……そうだね、近づかないほうがいい。彼らは私を食べると強く美しくなれると信じてるの。腹が膨れるだけで効果なんてないのにね」

「なんでそんなことになってるんスか。カニバリズムなんて昨今のゲームでも使い古されて見ないッスよ。ドン引きッス」

「私だって知らないよ。それで主管殿、ご用件は」

 気取った風に聞くと眉を下げて答える。

「定期調査ッス。学校はどうスか。一人でオベンキョーなんて退屈じゃないスか」

「いや、あの子を見たよ。前に道で揉めてたスピレトス家の」

「んえ? あー、異界調査にでも来てたんスかね。面倒事には関わらないほうがいいッスよ。問題ないならいいんでスけど」

 彼が泣いていたことを伝える前にフォルターは行った。興味が無いのだと態度が物語る。

 一族にいた頃は誰かが話を聞いてくれたがそれもない。

 なんとなくつまらない心地で足をブラブラ揺らして気づく。フォルターはリートと関わるのを仕事だと考えているから仲良くなるつもりがない。納得の思いつきだ。そしてリート自身、イストリア・ホールが直れば土地を去る身だ。

 彼のような態度を大人ばかりなら、スピレトス家の少年が一人で泣くのを選んでも仕方ない気がした。


「何で学校行かないわけ。見た目通りなら通う歳でしょ。不登校か」

「ここは学校でしょ」

「うわ、無垢な目をしてる……」

 二人はたまに顔を合わせる間柄になっていた。

 他に誰もいない校舎で二人きり。リートは呪いも瘴気も払えるが少年は大抵妙な様子で現れる。染み出す呪いが落ち着くまで膝を抱えて、梨の木の下で膝を抱えているのだ。

 彼はまた来たのかという顔をして、リートもまたいたという表情をする。

 お互いの名前も知らないまま、二人は奇妙な距離感を保っていた。

「……なんだよ『はじめてのさんすう』って。六歳児か」

 この口の悪い皮肉屋は、どうやら学力の心配をしているらしかった。リートを自分の幻覚ではと疑っているのに奇特な子だ。

「そっちこそ。オウル諸島は成績に厳しいんでしょう」

「教科書問題なら十年前に履修済みなんで……嘘だよ本気にするなよ。君、怪しい壺買わされそう。押し売り来てもいりませんってちゃんと言える?」

「失礼な」

 むしろ怪物区は物々交換が主流なので奪う現金がない。詐欺師のほうが願い下げだろう。

 この間はお茶の妖精と交換した花で栞を作った。実に平和な日々である。同日失踪者が三名出たとフォルターがげんなりしていたが。

「危なっかしいのが悪いんだろ。……き、君って本当に大丈夫なわけ」

 ぼそぼそと喋るのは話し慣れていないせいか。パーカーの裾を指先でいじる様子は自虐的に見える。

 リートの脳裏にあるひらめきが浮かぶ。

この少年は、本当は別の目的があるのではないか。それは言い出しにくいことで、とっさに隠す為に憎まれ口を叩いていたとしたら。考えられることは一つだ。

「もしかして私が触ったのを気にしてたの?」

 足下に広がる灰色の呪い。触れた端から霞のように消える儚いこれは人を殺せるほど強くない、が呪いは呪いだ。

 不意に少年の目尻から涙がこぼれた。あまりにも突然だったので彼自身も驚いて手で擦った。

 リートは謝る変わりに三角帽を頭に乗せてやる。

 少年は黙って帽子の唾を引き下ろしたので、声も無く涙する姿に背中を向けた。細長い梨の枝には葉が茂りもうすぐ収穫期だと教えてくれる。この梨はリートが来てから息を吹き返したように葉を付けるようになった。

「私は呪いや瘴気の類が効かないんだよ。言ってなかったよね」

 返事はない。けれど耳を傾けているようで、だから続けた。

「体調不良もないし、体が変形したり頭がおかしくなったりもしない。ごめん、気にするとは思わなかったの」

 しどろもどろな言葉にとんと衝撃が返ってきた。振り返るまでもなく少年の背中だった。くっついた部分が温かくなっていく。

「なんでそっぽ向いたか白状すれば許す」

「男の人が泣いてるところを見てはいけないって、族長が言ってたの」

 涙声で返ってきたのは「五歳児ぃ」という罵倒。

 心外だだが気まずくて読みかけの本を開き直した。

 その日から少年の遠慮が無くなり、リートが近づくと手を握って付着した諸々を弾くようになった。

 最初は恐る恐る、次の日は前より遠慮なく。

 五回を超えると「一家に一人欲しい便利道具」などと暴言を吐き、持っている本が幼児向けだと生ぬるい目を向けてくる。そして図書室まで付いてくるようになった。

「君さぁ、その読み方は何なわけ。端っこから順番にって、テストで赤点とって泣きべそかくのが趣味の人?」

 こちらはフォアマン直々に「成績とかいいんで読んでる本だけ教えてください」と雑な対応をされる身である。他学生が聞いたら憤死するような好待遇であるが、リートはそのことを知らない。テストって何だろうと考えていた。

 少年もリートが何を考えているかなど知らず、何かと口を出してくる。未だに幻覚疑惑を捨てきれていないのに甲斐甲斐しいことだ。

 幻覚だと思ってるから優しいのだろうか。

 この閃きは真実のように思えた。なにしろ口も態度も目つきも悪い子供なのだ。

 疑惑に満ちた目を向けると瞼を摘ままれた。地味に痛いので払う。

「やめてよ」

「手に職つけるならさっさと弟子入りしたほうがいいんじゃ。今何してるわけ。魔法使い以外の職業で答え……言いたくないなら別に、い、いいけど」

「今はインクを作ってるよ」

「え、なに。耳おかしくなった? 部活動の話? それとも趣味? バイト?」

「魔法インクを開発してる話。最近は文房具も作り始めたんだ。万年筆ならすぐ書けて便利でしょう」

 妖精の道にいるときではできなかった制作だ。ガラスペンはなかなか好評で実験段階でも美術商が欲しがるのだ。フォルターが勝手に卸売り申請を通していて、許可が下りたからと買い付けに来る始末。それもできあがりぴったりの時間で。

 クルスはしわしわの猫みたいな顔をする。

「アッ、幻聴じゃなかった。……食べてけるなら止めないけど、ここ学歴社会なのは知ってる? 知ってるよねさすがにそれくらい。どこのアカデミーか知らんけど卒業だけはしないと、後悔しても遅いから。ベスティアとネライダなら通いたくないのも判るけど……もしかしてそこ。転校するなら署名してあげてもいいですが」

「いらない」

「やっぱり僕の幻覚かなぁ。触った感触はあるんだけどな」

 などと視力を疑い始めたので視線を本へ戻す。頬を摘まんできた手は叩き落とした。

 次の本は『改造、ドリル君』という題名だ。部品の型から実際に作るところまでを乗せた優良図書で値段まで載っている。

「うん、まあ。僕も素材研究をやってるから、そういう本が役に立つのは判るよ。耐久性のフィードバックは参考になるし。……今地味だって思ったでしょ。いいよ、よく馬鹿にされるし。気にしてない」

「君は面倒くさい子だよ」

 勝手にすね始めたので半目になる。

 医薬品や魔法学と違い素材は注目されにくい研究分野だ。地味だしぱっとしない。一般人は恩恵にあずかっても、どれほどの積み重ねで作られたのか考えない。服を見てもデザインや色に目が行くものだし、高価な素材は天然物という印象が強い。少なくとも人界はそうだった。

「完成品に興味はあっても合成繊維に興味がある奴なんて少数派。僕の服だって呪いや瘴気に強い素材を開発して作ったけど、皆興味なさそうだった。でも丈夫で肌触りもおかしくないでしょ。え、もしかして何かおかしいのか」

「ううん、凄いよ」

 パーカーの裾を触ったが分厚いのに柔らかくて滑らかだ。

「そ、材料研究を専門にやってる、から。こういうのは得意というか。……ニヒ。ら、ラボがあるけど見たい?」

 褒められて気をよくした少年が頬を赤らめながらそんなことを言う。

「見たい!!」

「うわ声でっか」

「こっちの植物とかまだ判らなくって。私が異界から来たって言ったっけ」

「今始めて聞いたが」

「だから生活様式とか違って戸惑ってるの。植物も似たようなのを選んでるのに色が変わるから困ってて」

 肩を揺すると「や、やめて」とおどおど避けられた。

 蒸し暑い風がすっと流れていく。梨の枝がさわさわと揺れた。

「次来るとき、原材料の資料持って来る。原価わかんなくて見積もり高くされても寝覚めが悪いというか、研究のコストカットは人権」

 ニヒニヒ笑いながら機嫌よさそうに言っているが、どこか落ち着かない様子だ。

 見つめているうちに勢いをなくし、気まずそうに視線を逸らして沈黙した。手を握ると冷たい。緊張してるのだ。

「何かあったでしょ」

 拳一つ分開いた隙間をつめて、彼は膝を抱えた。

 踏み込んでいいのか判らず、リートは栞にふうと息を吹きかける。練り上げられた魔力が染みていく。

「気持ちがほぐれる魔法をかけたから」

「……ども。梨の香りがする」

 まだ子供の手で受け取ると、パーカーの内ポケットにしまう。

 ふと、この子はどういう子なのだろうと疑問が湧いた。

 口にするのはリートへの小言。染み出る灰色の呪いが何か説明はなく、家族の話はない。学校のことも、友達の話も。言うのは制度のことばかり。

 リートの衣装は民族特有のもので魔法がかけられている。それと同じくらい彼は着込んでいた。汗ばんでいるから暑いだろうに脱いだことがない。

 ずけずけしているのに突然控え目になることも、意図的に私生活の話題を避けているのも、見ない振りをして聞かなかった。

 疑問を押し込めて背中の体温をそのままに膝の上の本をめくった。

 どちらも口を開かなかったが気まずくはなかった。

 そして夕暮れになるといつものように別れた。

 異変を感じたのは月が真上に昇る頃だった。

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