反転する死者の界4
「ト……リート氏! うわっ」
手を伸ばした。
強烈な寒気に飛び起きる。
「ここは……?」
「き、君が何かを撃ち抜いたら『反転する死者の界』が弾けたんだ。気づいたら川辺に立ってて……見て、子供の石像も住民の残骸も散らばっている。調べたら『反転する死者の界』の元になった山村の跡地だった。……何が起こったわけ」
「禁足地の主と話してた。積み上がった誰かの願いをあるべき場所へ送り出したら、最初の欠片となった子が残った――おいで」
呼び声に答えたかの如く異界の残骸が震えて寄り集まる。
核たる主はカップ形のエンブレムのようだった。真っ青な雨の色でもある。
これはスートと呼ばれる魔法結晶。心の中にある魔法に関する部分を指す。人が本来持っている魔法の形で、生まれつき人が持つ紋章のようなもの。
すわ戦闘かと構えるクルスを背後に押しやって、リートは膝をつく。スートは大きく開いた口へ飛び込んだ。
「た、べ、エッ? り、リート氏!? ちょ、なにしてっ」
消しゴムを食べるような味気なさなのに、胃に流れたら墨汁に変わるような不快感。
あまりの不味さに生理的な涙を滲ませながら喉を鳴らす。
「吐いて、君までおかしくなる」
真っ白な髪がインクを吸ったように青く染まっていく。
口から漏れそうなのを堪えて、生理的な涙を流す。リートは苦しそうに喘いだ。腹の中で色々な物が混じり合って溶けて分裂して、また溶ける。
まるで別の生き物のようにうねった三つ編みが、銀環の髪留めをはじき飛ばそうと暴れた。
やがて動きは止まり、ハタハタと涙をこぼしきると、三角帽子をひっくり返し胃の中の物を吐き始めた。
それは透明感のある青い液体だった。
「僕、この年で人を焼き殺す業を背負いし者になるの? 絶対嫌なんだが。ね、ねえリート氏、大丈夫? 生きてる? ゾンビ化しないよね」
答えない背中に、クルスはようやく吐いた量に対して帽子の中の水量がおかしいことに気づく。溢れてもよさそうなのに半分もない。
「うう……。これは、ふ、エオロロロ……心を抜いてて」
帽子の中身がぐるぐると回り、嵩が減って色とりどりの玩具を閉じ込めた石になった。ぴかぴかと光って宝石みたいだ。
「なにこれ」
「心の石」
もう一度吐くと、石が少しだけ大きくなる。
リートは周囲を見回し、その辺に散らばっていた古い人形や瓦礫を魔法で引き寄せて放り込む。それらは石へ吸い込まれ、ますます宝石のように輝き出す。
「心の石って、信じられないほど魔力を秘めた、あの? 魔石の中で特別に美しく、六百年前に市場に現れた時は天文学的な値段が付いたっていう?」
「それは知らないけど、でも魔力の源は心だから、力があるのはそう。魔法使いの力の源、スートは濾過しないと願いの形を示せない。人には雑念が多すぎるから。うえ」
「僕にも理解できるように最初から説明が欲しいんだけど」
「……『反転する死者の界』は捨てられた子供の心が集まって発生した。それが老人たちを飲み込んだ。帰る場所がなくて、どちらもどこにも行けなくて、苦しい心が溢れた。抱えきれない思いが溢れるのは当然の結果だよ。村を飲み込んだのは水じゃなくて、水のように重くて泥のような心だった」
喉元へせり上がるものを抵抗せずに吐き出した。それは血のように赤い。
「閉鎖的空間は首を締め上げるように心を束縛した。子供は親だから憎みきれない。老人は自分と同じ境遇だから子供を憎みきれない。でも誰も理解してくれないんだ。窒息しそうだ」
次に吐いたのは深い青色の液体。悲しみの色だ。
これは誰にでもなく『反転する死者の界』へ向けられた言葉だ。
「大人は完璧じゃない。完璧に見えたって、人は間違う生き物だ。君はそれを知らなかった」
緑色の液体を吐いた。そして黄色、オレンジ。木槌の茶色に、白い石の色。
「でも知った。心の扉を開ける鍵は君が持っている。スートは無限の形を持っている」
鍵の形は友達と遊ぶことかもしれないし、傘かもしれない。好きな人の笑顔や、美しいと思う絵画、雨上がりの虹色に光る夜空、逃げ出すための足や言葉かもしれない。
鍵の形はたくさんだ。
いくらでも見つけに行くことができる。
「もう一度言う。大人は完璧じゃない。親も間違う。世界は可笑しな形でできてる。理想の世界なんてどこにもない。世界はいつだって他の誰かが創った形で存在している。君が辛いのは、あまりにも早く大人にならなくてはいけなくて、でもその前に死んだから。君は生きたかった」
リートは「君は生きたかった」と繰り返す。
「小さな手足じゃどこにも行けないと思っていた。何も助けられず動けなかった。でも雪解けを迎えた山々が春の芽吹きを表すように消えた。消えたんだよ。顔を上げて見て。子供の頃よりどう? あれほど大きかった大人の姿が、小さくなってるでしょう」
心の石がオーローラのように光り始めた。
「今の君は歩きたい場所を大好きなものと一緒に、誰の手を借りなくても歩ける。歩き方も飛び方も君の心が知ってる。帰る場所を探す君はいない」
幾度も繰り返すうちに石は温かな光が熱を持ち、心臓のように脈打ち始めた。
取り出した石は犬の形をしていた。
ふさふさなのに光沢のある茶色の毛並みで、背中には玩具箱をたくさん乗せていた。首の後ろのベルが軽快な音を立て、見ているだけで楽しくなる。
「スートが形を定めた!」
地面に置いた瞬間ぐんと膨らみ、全長三メートルを超す美しい成犬がゆっくりと瞬きをする。
禁足地の主は、一声吠えると村の残骸に長いマズルをつけた。
すると老人たちが形を取り戻す。足も手も必要以上に多くない、普通の姿で。しゃんと背筋を伸ばし、老いを感じない動作で綺麗な服と靴を履き、優しく微笑んでいる。
変質した死者に新しい形を与えたのだ。
彼らは順番に犬を撫でると、残った死体や残骸を玩具箱へしまう。腐乱死体から、眠るように息を引き取った綺麗な状態へ戻っていた。
箱を乗せ終えた彼らは自らも乗り込む。乗りきれないだろうという多さなのに背中の玩具箱はすいすい飲み込んだ。
「スートは不安定になるとしばしば事故を起こす。でも方向性や願いの姿がはっきりすれば落ち着く。『反転する死者の界』は、禁足地でいるよりも現象になることを選んだ」
「現象って、なんの……」
「迷い子を導く案内犬。心を檻から取り出した彼らは自分でどこまでも行けて、なりたいものを見つけてなったから禁足地も消えた」
振り返ったリートは泥のように黒ずんだ三つ編みを揺らしながら端末に問いかける。
「魔法の真髄を見せられたかな」
『じゅうぶんすぎるほどに。残りの骨壺もこちらで対応致します』
首を振りながら「もう旅立った」去ったことを告げた。
IMTPがぐうの音も出ないほどの功績を、完全に安全であると言う確証も示された。
ならばこの財布は哀れな妻の物だ。
リートの背後で案内犬が首を巡らせる。二人の目の前でぺたりと腹を地面に付ける。
「乗ろう。送ってくれるって。店主君は私が乗せるよ」
「待ってリート氏、僕一人で帰るから、うわー!」
長いマズルがクルスの腹を掬い上げて玩具箱へ入れた。その後に気絶した店主と共にリートが乗り込む。
案内犬は体を大きく伸ばして走り出した。
背後には何もなかった。自然が広がるだけで、朽ちた村の残骸も腐った沼の薫りもなにもかも。
二人が降ろされたのはオウル諸島ベスティア区にある一軒家だった。
案内犬は去り、ベルを鳴らせば草臥れた表情の女性が顔を出す。
事情を話して財布を差し出すと、彼女は中身を見てボロボロと涙をこぼした。
「こんな端金で、どうやって子供をかかえて暮らしていけばいいのよ」
夫への文句は愛情の裏返しだった。
「貸してごらん。大丈夫だから」
財布を切って銀行のカードを取り出す。裏側に遺言が縫い付けてあった。それと家の権利書の在り所も。
暗証番号は114106――「愛してる」だろう。
「ここへ来るのに努力したのよ。でも来なきゃよかった。あの人が死ぬって判ってたら、来なかった、来なかったのよ」
「うん」
泣き濡れる背中を押して、そんなふうに言った。
そうして銀行へ行く途中で店主の店へ寄り、返金してもらって別れた。
クルスはお金を抱えながら、魔鉄鋼は本当に手に入るのかと不安になる。
それは未亡人が家の権利書を確認する場面に立ち会ったときに解決する。一緒に魔鉄鋼が預けられていたのだ。
すぐに買取り、纏まったお金が入った未亡人は少しだけ表情を柔らかくした。
「魔法を上手く使えれば、僕もあんな風に作り替えることができるのかな」
未亡人と別れた二人は海辺で座っていた。
魔鉄鋼を抱えたクルスはぼうっと海を眺めている。
子供の遊ぶ声と観光客の賑わいで世界がなんだか明るい。いつもは嫌な気持ちになるのに、隣に知り合いがいるだけで気分が違う。
不思議な気持ちに、いつもは釣り上がり気味の目尻が下がった。
「スートの柄が変わるのは、生まれ変わるに等しくて、つまり死と再生が起こる。そのとき高濃度の魔力が生まれるんだよ。私が飲んでたのはそれ。飲めるの?」
「無理。えっ、……ま、まだ髪の毛が黒いし、生物は高濃度の魔力に浸かると頭がおかしくなるでしょ」
「時間が経てば治るよ。しばらく魔法は使えないから君が禁足地で困ってても、今回みたいに飛べないのは申し訳ないけど」
「いいよそんなの。元々一人で行ってたし……あ、あのさ。やっぱり病院行かない? 成り行きでまったりしてたけど、診てもらったほうがいいでしょ。歩けないならおぶろうか。君軽いから大丈夫だし」
「行きたくない」
「う、受付なら僕が手続きするけど」
「行きたくない……」
「あ、はい。本当に行かなくていいんだよね」
恐る恐るなクルスに頷いた。
不安そうな顔付きのクルスに、悩ましく眉間に皺を寄せる。
一族の者なら説明は不要だった。けれど相手は妖精に見えるが、人属の他世界の男の子だ。
「確かに高濃度の魔力は毒だけど、魔法使いは処理能力も備わってる。それに体内の魔力を抜くことはできないんだよ、とても難しいから。だから時間で解決するしかない。スートについてどこまで知ってる?」
「三つの形があること。剣は強靱な精神、王冠は強靱な肉体、鈴は霊的な才能を表すんでしょ」
「もう一つ形があって、四つ目にカップがある。私たちはスートが形を変えるとき高濃度の魔力が発生するのと同時に、剣となるなら狂人に、王冠は怪物へ、鈴は現象、カップは異界化すると考えているの」
つまりジョーカーになるということだ。カップを見つけられないのはそのせいだという説もある。ジョーカーは昔、他の誰かだったのではないかと。
初耳だった。
けれどすぐに愚か者が試す様子が脳裏に浮かび、クルスは自分が知ったら伏せるほうを選ぶと思った。だが狂人も怪物もヤバい。
もしそうなったらと言う問いをリートは一蹴した。
「剣や王冠に変わっても必ず連続殺人犯や、世界を滅ぼす化け物になるわけじゃないよ。天才は普通の人と違うことをするでしょう? 怪物は厳しい土地で生きていける強い生き物だし」
「ああ、なる。そういう感じなわけ……。じゃあリート氏は『反転する死者の界』のスートをもう一度変化させたってことか」
「そう。以前の失敗の理由を抱えたままじゃ無理なのは判りきってた。だから飲み干して、願いの形を選り分けて二度目の再生を促した」
魔法を使って。
結果、リートの体内には高濃度の魔力が蓄積している状態だ。
「気になったんだが、高濃度の魔力は魔法を使って消費できないの」
「そう単純な話じゃないんだよ。今は脳味噌を半分眠らせて抑えてる状態で、魔法をまともに扱える気がしない。こういうときは大人しくするに限るよ」
「は? 脳味噌半分停止させてるの? 頭大丈夫?」
「止めてよその言い方。鯨は滅多に熟睡しないでしょ。鯨も私も脳味噌を半分ずつ休ませることができるんだよ。全休眠すれば回復は早いけど――どうしたの」
みるみる顔色が悪くなっていくので言葉を止めた。
「鯨の人魚は……三千世界を旅してもいないって言われてるが」
「不思議だよね。どの異界でもドラゴンと同じ分類にされるのは。どこか一つでも人魚だと言ってもおかしくないのにね。まあ、妖精の欠落があるからだけど」
半開きの口が、はくはくと動き出す。まるで囀ることを忘れた小鳥だ。事実そうで、クルスは絶句していた。聞いた言葉を飲み込めず蒼白になる。
「い、ま……君、妖精の欠落って言った」
そうだった。
リートは疲れ果てた脳味噌で思い出す。
クルスはリートが妖精だと知らない。
バレてしまっては仕方ないと立ち上がって服の裾を引けば、地面につかない足が現れる。
リートの妖精の欠落だ。
「騙すつもりはなかったけど、結果的にそうなってる……。でも妖精が全部嫌ってるわけじゃ――ないっていうのは、嘘じゃない」
リートは視線を下げた。
唇を噛んで走り去る背中を追うことなく、尻すぼみに続けた。
「ごめんね」