9 水原夏希の決別 中編
「……まさか」
気付くなり、私はすぐさま振り向いた。
ぐるりと急旋回した首が警鐘を鳴らすのも無視して、止血用の手巾を裏返す。
手巾は白かった。
剥き出しの断面を覆い隠していたはずの布切れは。二枚共に。
冬の雪を連想させる程に、真っ白だった。
持ち上げてみれば、それらはふわりと温かい。
大量に染みこんでいたはずの血液の重さなど、知らぬと言わんばかりである。
もしその時、風が吹いたなら──二枚の手巾は微風にすら舞い上げられていただろう。
そう感じる程に軽くもあった。
***
この場から消えたものは、手巾に付着していた血痕ばかりではなかった。
今しがたまで彼の周囲を彩っていた──傷口からの出血。
さながらレッドカーペットの様に、舗装路を彩っていたおびただしい程の大量出血。
其れが文字通り、1滴残らず消えていた。
「………………」
念のため、アスファルトを指先でつうと撫でる。
ざらざらとした見た目通りの感触を、ほんの少しの痛みと共に感じる。分かっていた事だが、血液──というか液体特有の滑らかな感触ではない。
如何やら、私の目がおかしくなった訳ではないらしい。
(……今回に限っては、寧ろそうであって欲しかったのだけれど)
自嘲気味に笑い、今度こそ彼の方を見遣る。
先刻と同様に、彼は路上に横たわっていた。力無く、ボロ雑巾よろしくその身を投げ出している。
頭から流血し、片腕をあらぬ方向に曲げ、右足が足首からぶつ切りの。
──最初に発見した姿のまま、彼は其処にいた。
それを見て、私は──何故だろう。酷くがっかりした。
……否、斜に構えた物言いはよそう。
期待が絶望に変わっただけだ。
もしかしたら、と思っていた。
血液が消えたみたいに、彼が傷一つ無い姿で立ち上がり、
『やァ、水原さん。ドッキリ大成功だね!! 怖かったかい!? 怖かっただろうねぇ。ならば成功と言っていいだろう!!』
と、大声で笑い飛ばし、馬鹿面でつまらない冗句を飛ばす光景を。
その報告を聞いて、今なお私達を囲む者達に非難される光景を。
袋叩きにされ、半泣きになりつつ謝罪する彼と。
呆れつつも、どこか安心した様に彼を叱る私。
笑えない冗談だった、と吐き捨てる様な夢想だけが──水泡に帰しただけの事。
遠くで、何かの切断音が聞こえた。
鋏で糸を切った様な音だった。
人だかりに囲まれていて、私にはその正体を見極めることは叶わなかった。
代わりに、誰にも聞こえない位に小さく笑った。
──この作者の新刊、もう読みました?
──じゃあ、これで。
ふと、彼に初めて話しかけた日の事を思い出した。
本を読んでいた彼に、私が一方的に喋りかけていた。
何だこいつ、とさぞや驚いたことだろう。普段の私であれば、絶対にあり得なかった。
横たわる彼を前に、私は今更自覚する。
あれは一目惚れだったのだ。
彼を好きになったのは、あの時からだったのだ。
「……ああ、そうだったんだ」
私は唐突に理解して──しかして一つの疑問を抱いた。
成る程、私が恋に落ちたのはあの場所、あの瞬間だった。
とは言え、それはいい。
私が極度の面食いで、惚れっぽい女だった、というだけの事だ。
だが、告白は彼からなのだ。
であれば、彼は、いつから私を異性として意識していたのだろう?
私なんかの──どこを見て好いてくれたのかと、疑問に思った。
私はろくでもない女だ。
なにせ、付き合っている殿方が、自分の何を好いていたのか。そんな根本的な事にさえ、今この瞬間まで疑問にも思わなかったのだから。
私は自分で思っているよりも、他人への関心が薄いのではないか。
自己中心的で独りよがり。プライドだけは一丁前。
それが私の本質か。
「…………」
故に、このまま終わって良いはずがない。
彼はどうしようもない私に歩み寄ってくれた。
なれば、次に一歩踏み出さなければならないのは、他ならぬ私自身なのではないか。
訊きたい事がある。
2人で行きたい場所がある。
共に見たい景色がある。
不幸中の幸いか、今この場でやれる事は、星の数より多く存在した。
すっかり純白の輝きを取り戻した手巾を手に、私は再び彼の傷口を押さえて──。
「……水原、さん?」
──その時、彼が目を覚ました。