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8 水原夏希の決別 前編

「結論から申し上げますと、あのカラスは符丁──いえ、スイッチだったんだと思います。確信はありませんが……」


 水原が口を開いたのは、俺が平身低頭して、帰宅せしめんとする彼女を引き留めてからすぐのことだった。

 そよ風にも搔き消されそうな程に小さな声が、俺には確かに聞こえた。

 ほんの数秒経ってから、やがて水原はゆっくりと続きを話し出した。

 俺は其れを黙って聞いていた。




***




 私があのカラスを目撃してから、数秒経った頃だった。

 通報していた男が、携帯片手に言った。


「救急車、5分程で到着だとよ!」


 その言葉に、幾分か頭が冷えるのを自覚した。

 改めて、地面に倒れ伏す彼を見遣る。

 彼は全身から血を流している。多量の出血で、全身が真紅に染められていた。

 特に酷いのは、切断された右足からの出血だった。足の付け根が剥き出しになっているためだ。


 彼の周囲は血だまりになっていた。血だまりは、私の足元まで広がっていて、指で撫でると、ぬるりと嫌な感触がした。

 私はポケットから手巾を取り出し、両手で傷口を押さえる。

 数秒も経たずに、白かった手巾は紅薔薇よりもずっと紅く染まっていた。

 私は血に汚れる事も厭わずに、鞄に手を突っ込んだ。

 止血に使える道具を探している間、私の頭にはある考えが浮かんでいた。


 ──彼はもう助からないかもしれない。




***




 人一人が有する血液量は決まっていて、およそ体重の8%だと言う。

 そして、その内の3分の1を失えば、生命の危機に瀕する──以前、保健体育の授業で聞いた事がある。

 大凡1リットルの出血が、生命活動を危ぶむと──。




 私は嫌な考えを振り払うかの如く、頭を激しく左右に振った。

 次いで、手にしていたもう1枚の手巾を鞄から引き抜く。

 引き抜いた手巾を折り畳み、先刻そうした様に、傷口に押し当てた。既に押し当てていた布地の上から、重ねる様に。

 手巾を当てながら、鞄の中を覗き込む。私の鞄には、財布や車用の酔い止めといった、必要最低限の物しか入っていない。手ぶら同然だ。

 つまり、止血に用いられる道具はもう無い。

 救急車が現着するまで、私達を取り囲む人だかりから拝借する必要がある。


 彼に視線を戻す。

 彼の表情は、苦痛に歪んでいた。

 意識は無く、呼吸も浅い。多量の失血で顔面蒼白。

 今にも死相が見えそうな有様だ。


「………………」


 苦虫を嚙み潰したような思いだった。

 現代日本で、見ず知らずの他人を助けるために動いてくれる人間なんて、そうそういるものではない。

 瀕死の少年をみすみす見殺しに──とは考えないだろうが、進んで関わりたくは無いはずだ。

 それこそ、私が協力を求めようとした時点で、蜘蛛の子散らしたみたいに去ってしまっても不思議じゃあない。

 現に、彼らの内の何人かは腰が引けてしまっている。口元に手を当てて、叫びたい衝動を堪えている者もいる。


 例えるならば、それは破裂寸前の風船の様なものだ。これ以上、何かがあれば容易く爆発し、この場に居合わせた全員にパニックが伝染することだろう。

 彼らにしてみれば、巻き込まれた自分達こそが、真なる被害者なのだろう。

 そう思わずにいられなかった。

 故に──彼らに頼るという選択肢は、取りようが無かったと言える。




 時間は刻々と過ぎていった。

 そうこうしている内に、彼に押し当てていた手巾がじわりと濡れている事に気が付いた。

 なるべく周囲の人々に刺激を与えず、しかして、止血用の新たな手巾を手に入れるため、私は既知の人間を頼らんとした。

 その人間とは、先般、倒れていた彼を発見して、119番への通報を行ってくれた男性だ。

 背後を振り向き、男に声を掛けんと口を開き──私は停止した。


 ──其れは、二点の理由に起因していた。


 一つ。男が腰を抜かして、尻餅をついていたためだった。

 男は驚愕から目を見張り、顎が外れた様に、あんぐりと開口していた。

 ……尚、当時の私は見落としていたが、その驚愕は、男だけに限らなかった。彼から目を離していた私以外の全員が、揃って同様の表情をしていたという。


 もう一つの理由。彼らの表情の変化よりも、私が最初に気付いた違和感だった。

 私が触れて、直接感じ取ったもの。それが消えていた。

 ──彼の身体に密着させていた手巾ではない。手巾を用いて、身体から吸い取っていた液状の物質である。


 じわりとした感触。

 彼の身体より排出されていた血液の感触だけが──さっぱりと消えていた。

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