表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/15

7 水原夏希は珈琲を嗜む 後編

 ──今より1時間前。

 俺が路地裏で見つけた1組の男女──その内の男の方が、血だまりに倒れた。


 不承不承ながら、俺は一市民の義務として、早急に救急車を呼んだ。

 通報直後、その場に居合わせていた少女と共に、俺達は逃げるように其処から立ち去った。

 ……否、逃げるようにではない。実際に其処から逃げ出したのだ。

 救急車が来る前に、誰かにその現場を見られる前に。


 だって──考えてみてほしい。

 車に轢かれたことによる怪我が──事故より30分も経って現れたなどと。

 一体、誰が信じてくれようか?

 何と説明したものか。

 俺には思いつかなった。




***




「ひとまず3つ。質問がある」


 俺は近くの自販機で購入した6本目となる缶コーヒーを、少女に手渡しながら言った。

 少女は律儀に会釈をしてから、缶を受け取った。

 顔には、相変わらずの無表情を浮かべている。その顔からは何の感情も窺い知れない。

 感情を表に出すのが苦手なだけか、将又、本当に何も考えていないのか。

 ほんの少しだけ、興味が湧いた。

 少女の隣に腰を下ろし、そう言えば、と尋ねる。


「なぁ。お前の名前は?」


 しかし、我ながらやはり抜けている。

 路地裏での一件より、既に1時間余りが経過しているにも関わらず、我々はお互いの素性すら知らないのだ。

 順序通りに進めるのなら、まずは自己紹介から──其れが定石だろう。

 暫くして、少女も得心がいったように頷いた。

 少女は深く腰を折り曲げて、言った。


「……水原夏希と申します。初めまして」

「あ、はい。初めまして、ご丁寧にどうも」

 

 思わず頭を下げたくなる程、完璧な辞儀だった。

 一つ一つの所作が洗練されていて、思わず見入ってしまう程だった。

 いいところのお嬢様なのか、こいつ?

 ──と、そこまで考えて、慌てて俺は頭を振った。

 そんなことを知りたいのではない。

 話を戻す様に咳ばらいしてから、俺は少女──もとい水原に尋ねた。


「……改めて、1つ目の質問だ。先般、話に出てきた君の彼氏クンについて──彼は何故倒れていた?」

「………………」


 水原は答えなかった。俯いて、俺と目を合わせようとすらしなかった。

 彼女が唾を飲む音だけが、雨音の中、聞こえたような気がした。

 彼女は両手で缶を握ったまま、缶の中に広がる暗闇を覗き込んでいた。

 その姿は、神に許しを請うため頭を下げる、敬虔な信徒のようだった。

 返事をしない水原に対して、俺はわざと煽るように、続けて言った。


「質問するように言ったのはお前だぜ。あれって、関連する質問には全て答えるって意味じゃあないのか? それとも、俺が首を捻る様子を観察して、愉悦に浸りたいってぇ、それだけなのか?」

「………………………」


 やはり答えない。

 水原は俯いた状態で、老婆の様に背を丸めているだけだ。


 俺は頭を掻き、顔をしかめる。

 これでは会話にならんではないか。

 ……仕方なし、俺が進行する他に無いのか。


「……無視か。じゃあ俺が勝手に推理してみようか」


 水原は何も言わなかった。

 無言を肯定とみなし、俺は一息で言い切った。


「まぁ、大体想像はつくけどな。大方、初デートに心躍らしていた彼氏クンが横断歩道を渡る際に信号無視して、乗用車かバスに撥ねられた──ってとこかな。寝不足だったんだろう。違うか?」


 俺が語り終えても、水原はやはり何も言わなかった。

 代わりに、小さく頷いただけだった。

 ……如何やら、夢うつつに浸っている訳では無いらしい。

 返事を待たずに、俺はまた口を開く。


「2つ目の質問。彼氏クンの頭を小突いてたっていうカラスとは、何だ」


 俺は水原に質問を投げかけながら、その実、彼女への興味を失いつつあった。

 理由は明白だった。

 会話が成り立たないのもあるが──そも初めから、彼女に期待などしていなかったからである。

 今日日、こんな事をSNSで呟こうものなら、即刻見知らぬ大勢に袋叩きに合うことは必至だが──それでも敢えて言わせてもらおう。

 女と建設的な会話など、できようものか。一生他人の顔色伺って、手前らは太鼓持ちでもやっていろ──と。


 恐らく俺は世間一般で言うところの、差別主義者なのだろう。

 昨今の流行は「男女平等な社会」らしいが、俺にはいまいちしっくりこない。

 ……後から振り返ってみれば、この時の俺は水原夏希という少女と、正面切って向き合っていなかったのだ。

 

 ──話に出てきたカラスとは何か。

 

 先般、俺が水原に投げかけた2つ目の質問。その問いに対する答えは、どうせ返ってきやしないのだ──と。

 早合点した俺はわざとらしく嘆息した。

 しかして俺は間が悪かった。


「……あ、あれは私の──!」


 其れは、1人の女の子が勇気を振り絞った瞬間だった。

 其れは、1人の少女が、己が心中を吐露する寸前の出来事だった。

 そして一念発起、何かが動き出すと予感させる瞬間でもあった。


 ──俺の溜息が、少女の声を搔き消した。


 瞬間、俺は自分の失態を悟った。

 水原とは、出会って1時間程度の浅い付き合いだが、そんな俺にも分かる事が有る。

 水原は決して、声を荒げて怒らんのだ。




 あの路地裏で俺が現場を撮影した際、彼女は鬼の形相で俺を叱咤した。

 突然押し倒され、スマホを奪い取られた。嵐の様な女だったが、今ではその理由が少し分かる。

 負傷した中年男性。恐らく彼を案じての行動だったのだろう。

 彼の「リセット」現象は唐突に終わり、大量出血を起こしていた。其れを見て、水原は大いに取り乱していた。

 先刻話していた水原の彼氏についてだが──仮にその件が真実であれば、彼女の瞳には中年を通して、別のものが映っていたのではなかろうか。

 あの時、水原は憤怒していたではなく、泣いていたのではないか。

 過去を想っていたのではないか。

 

 全く、分かりづらい奴だ。

 矢張り女は難解で、複雑で、面倒臭い──精巧な時計の様なものだ。

 だから俺は女が嫌いなんだ。


 その点、先刻俺に浴びせた極寒の瞳。

 あの眼は佳かった。

 あれ位判りやすくキレてくれた方が、気が楽だ。

 遠回しに愚痴られるよりも、直接的な感情と向き合う方が、幾分か楽なのだ。




***




 故に彼女は、静かに怒る。

 すっくと立ちあがり、ゴミ箱に飲み干した缶を入れる。

 俺に背を向けたまま、彼女は言う。


「次はないと言ったでしょう。ご馳走様でした」




 人生で初めて、俺は女の足に縋り、地に額を擦り付けた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ