7 水原夏希は珈琲を嗜む 後編
──今より1時間前。
俺が路地裏で見つけた1組の男女──その内の男の方が、血だまりに倒れた。
不承不承ながら、俺は一市民の義務として、早急に救急車を呼んだ。
通報直後、その場に居合わせていた少女と共に、俺達は逃げるように其処から立ち去った。
……否、逃げるようにではない。実際に其処から逃げ出したのだ。
救急車が来る前に、誰かにその現場を見られる前に。
だって──考えてみてほしい。
車に轢かれたことによる怪我が──事故より30分も経って現れたなどと。
一体、誰が信じてくれようか?
何と説明したものか。
俺には思いつかなった。
***
「ひとまず3つ。質問がある」
俺は近くの自販機で購入した6本目となる缶コーヒーを、少女に手渡しながら言った。
少女は律儀に会釈をしてから、缶を受け取った。
顔には、相変わらずの無表情を浮かべている。その顔からは何の感情も窺い知れない。
感情を表に出すのが苦手なだけか、将又、本当に何も考えていないのか。
ほんの少しだけ、興味が湧いた。
少女の隣に腰を下ろし、そう言えば、と尋ねる。
「なぁ。お前の名前は?」
しかし、我ながらやはり抜けている。
路地裏での一件より、既に1時間余りが経過しているにも関わらず、我々はお互いの素性すら知らないのだ。
順序通りに進めるのなら、まずは自己紹介から──其れが定石だろう。
暫くして、少女も得心がいったように頷いた。
少女は深く腰を折り曲げて、言った。
「……水原夏希と申します。初めまして」
「あ、はい。初めまして、ご丁寧にどうも」
思わず頭を下げたくなる程、完璧な辞儀だった。
一つ一つの所作が洗練されていて、思わず見入ってしまう程だった。
いいところのお嬢様なのか、こいつ?
──と、そこまで考えて、慌てて俺は頭を振った。
そんなことを知りたいのではない。
話を戻す様に咳ばらいしてから、俺は少女──もとい水原に尋ねた。
「……改めて、1つ目の質問だ。先般、話に出てきた君の彼氏クンについて──彼は何故倒れていた?」
「………………」
水原は答えなかった。俯いて、俺と目を合わせようとすらしなかった。
彼女が唾を飲む音だけが、雨音の中、聞こえたような気がした。
彼女は両手で缶を握ったまま、缶の中に広がる暗闇を覗き込んでいた。
その姿は、神に許しを請うため頭を下げる、敬虔な信徒のようだった。
返事をしない水原に対して、俺はわざと煽るように、続けて言った。
「質問するように言ったのはお前だぜ。あれって、関連する質問には全て答えるって意味じゃあないのか? それとも、俺が首を捻る様子を観察して、愉悦に浸りたいってぇ、それだけなのか?」
「………………………」
やはり答えない。
水原は俯いた状態で、老婆の様に背を丸めているだけだ。
俺は頭を掻き、顔をしかめる。
これでは会話にならんではないか。
……仕方なし、俺が進行する他に無いのか。
「……無視か。じゃあ俺が勝手に推理してみようか」
水原は何も言わなかった。
無言を肯定とみなし、俺は一息で言い切った。
「まぁ、大体想像はつくけどな。大方、初デートに心躍らしていた彼氏クンが横断歩道を渡る際に信号無視して、乗用車かバスに撥ねられた──ってとこかな。寝不足だったんだろう。違うか?」
俺が語り終えても、水原はやはり何も言わなかった。
代わりに、小さく頷いただけだった。
……如何やら、夢うつつに浸っている訳では無いらしい。
返事を待たずに、俺はまた口を開く。
「2つ目の質問。彼氏クンの頭を小突いてたっていうカラスとは、何だ」
俺は水原に質問を投げかけながら、その実、彼女への興味を失いつつあった。
理由は明白だった。
会話が成り立たないのもあるが──そも初めから、彼女に期待などしていなかったからである。
今日日、こんな事をSNSで呟こうものなら、即刻見知らぬ大勢に袋叩きに合うことは必至だが──それでも敢えて言わせてもらおう。
女と建設的な会話など、できようものか。一生他人の顔色伺って、手前らは太鼓持ちでもやっていろ──と。
恐らく俺は世間一般で言うところの、差別主義者なのだろう。
昨今の流行は「男女平等な社会」らしいが、俺にはいまいちしっくりこない。
……後から振り返ってみれば、この時の俺は水原夏希という少女と、正面切って向き合っていなかったのだ。
──話に出てきたカラスとは何か。
先般、俺が水原に投げかけた2つ目の質問。その問いに対する答えは、どうせ返ってきやしないのだ──と。
早合点した俺はわざとらしく嘆息した。
しかして俺は間が悪かった。
「……あ、あれは私の──!」
其れは、1人の女の子が勇気を振り絞った瞬間だった。
其れは、1人の少女が、己が心中を吐露する寸前の出来事だった。
そして一念発起、何かが動き出すと予感させる瞬間でもあった。
──俺の溜息が、少女の声を搔き消した。
瞬間、俺は自分の失態を悟った。
水原とは、出会って1時間程度の浅い付き合いだが、そんな俺にも分かる事が有る。
水原は決して、声を荒げて怒らんのだ。
あの路地裏で俺が現場を撮影した際、彼女は鬼の形相で俺を叱咤した。
突然押し倒され、スマホを奪い取られた。嵐の様な女だったが、今ではその理由が少し分かる。
負傷した中年男性。恐らく彼を案じての行動だったのだろう。
彼の「リセット」現象は唐突に終わり、大量出血を起こしていた。其れを見て、水原は大いに取り乱していた。
先刻話していた水原の彼氏についてだが──仮にその件が真実であれば、彼女の瞳には中年を通して、別のものが映っていたのではなかろうか。
あの時、水原は憤怒していたではなく、泣いていたのではないか。
過去を想っていたのではないか。
全く、分かりづらい奴だ。
矢張り女は難解で、複雑で、面倒臭い──精巧な時計の様なものだ。
だから俺は女が嫌いなんだ。
その点、先刻俺に浴びせた極寒の瞳。
あの眼は佳かった。
あれ位判りやすくキレてくれた方が、気が楽だ。
遠回しに愚痴られるよりも、直接的な感情と向き合う方が、幾分か楽なのだ。
***
故に彼女は、静かに怒る。
すっくと立ちあがり、ゴミ箱に飲み干した缶を入れる。
俺に背を向けたまま、彼女は言う。
「次はないと言ったでしょう。ご馳走様でした」
人生で初めて、俺は女の足に縋り、地に額を擦り付けた。