5 飛ぶ鳥落とせ 後編
死に瀕する彼を目前にして、私はどうすることも出来なかった。
右足が千切れていただけではなかった。
頭を強く打ったらしく、後頭部からは血が垂れていた。
腕もあり得ない方向に曲がっている。
記憶の中の彼とはかけ離れた姿を見て、平静を保つことなど不可能だった。
「────────────」
遠巻きにカメラのレンズを向ける群衆に、私は声を張り上げた。
何かを口走ったはずだが、その内容は忘れてしまった。
酷く、口汚い言葉で罵っていたような気がするし、誰かに助力を願ったような気もする。
やがて、群衆の内の一人が何処かに電話を掛け始めた。
先刻叫んだ男だった。
真っ青な顔をして、男はスマホを耳に当てていた。
数秒のコールの後、男はしどろもどろになりつつも、自分の目の前で起こった惨事を報告し始めた。
恐らく救急車を呼んでくれているのだろう。
良かった。これで何とかなる。
何とかなる、はずだ。
…………。
ひとまず、応急処置をしなければならない。
傷がどれ程なのか。
緊急時の応急処置なんて、如何すればいいのか。
兎に角にも、まず止血すべきなのか?
呼吸の確認が先か?
それとも意識の確認からだったか?
……何も、分からない。
絡まり合った毛糸のように、次の行動がまるではっきりとしない。
動悸が早くなり、呼吸は浅くなる。掌が汗で滲む。
「……………………いいや」
迷っている時間など無い。
こうしている間にも、時間は刻々と進み続けている。
やるべきことをやらなくては。
横たわる彼の方へ、私は身体ごと向き直った。
私自身がすべきことを考えるべく、彼を注視して。
「…………ん?」
その彼の耳元に、一羽のカラスを見た。
黒いペンキを身体中にぶちまけたような漆黒の羽に身を包み。
陽光を反射することで、夜の星より照り輝く両の眼──其れを地に伏す彼に向けていた。
カラスの嘴が彼の頭を2, 3度小突く。
──ぞくり、と背筋が冷えた。
根拠は無かった。私は何かに背中を押されるように、咄嗟にカラスを引っ叩いていた。
私に殴られ、きりもみ状にくるくると回転したカラスは、そのまま逃げるように何処かへと飛んで行った。
飛翔したカラスが小さくなって見えなくなるまで、私は其れをずっと眺めていた。
「何やっているんだ、この非常事態に!!」
突然肩を掴まれた。
呆けていた私を現実に引き戻したのは、先刻の男だった。
既に、男はスマホを持っていなかった。
いつの間にか通報は終わっていたらしい。
電話に必死で、様子を窺っていなかったであろう男に対して、私は現状を説明し始めた。
「其処に居たカラスが彼を啄もうとしていたから、咄嗟に」
「そんな訳あるか!」
最後まで言い切るより先に、男が叫んだ。
目を白黒させていた私に、男は言った。
「オレが何も見えてねぇと思うのか、お前は!?」
あぁ、思うとも。
だから、私は──。
「お前はその男を殴った!」
「は?」
思わず首を傾げた。
何を言っているのだ、この男は。
私が殴ったのは、カラスだ。この人ではない。
「重症の男を何故殴った! 答えろ!」
「いや、だから──」
弁明しようとして、止めた。
この男は、私の背後に立っていたのだ。
一方、怪我を負う彼氏の傍で、私はしゃがんでいた。
故に、男の位置からでは私の影となり、カラスは見えなかったのだ。
私は左隣にいた別の男性に声を掛けた。
殴られたカラスは私から見て左方向に飛んで行った。貴方からは絶対に見えたはずだ、と。
私の質問に、その男はこう答えた。
──何の事だか分からない、と。
カラスを目撃したのは、私独りだけだった。