2 在る少年と中年と少女について 後編
瞬間的に水分が蒸発、あるいは消失している──。
違和感の正体に気づいた太陽は、一度深く息を吸った。肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込み、たっぷり10秒かけて、全てを吐き出す。
2, 3回、深呼吸を繰り返して、やがて彼は一つの結論に辿り着いた。
──これは人の手による仕業だ。
太陽はそう確信した。
水分が一瞬で消失する──それは、誰がどう見ても、人の身に余る行為である。
当然、それは太陽自身にも例外ではない。この国、いや、世界単位で見ても、そんなことできるヤツは皆無に違いない。
だが、現状はどうだ。
視線の先には、彼にとって垂涎ものの光景が広がっている。チープな表現だが、いわゆる超常現象というヤツだ。
それは、見ようと思って見れる物ではない。そして、太陽にとっては、あまりにも都合の良すぎる展開だ。
たまたま、太陽が通りがかった場所で。時間で。
偶然起こった自然現象として片付けるのは、違うのではないか。
あるいはそう在ったら良いな、という幻覚なのか。太陽にとっての理想なのではないか。
それとも、零細動画投稿者による質の悪いドッキリ企画か。
どれにせよ──人為的な現象だと考える方が、太陽にとっては気が楽だった。
なにせ、実行犯に直接お伺いを立てれば良いだけなのだから。
***
「…………」
自分の顎を指先で撫でながら、太陽は眼前の2人を見据えていた。
飽きもせず、彼らは雁首揃えたままだ。お互い、唾がかかる程の距離だと言うのに、気にする様子もない。
……もっとも、唾の1つや2つかかったところで、すぐに消えるのなら、それは不愉快のうちに入らないのだろうか。
特に、男性の方からは一層強い気迫を感じる。額には血管が何本も浮き上がっているし、握りこぶしからは、ぼたぼたと血が垂れている。苛立たしそうに、時折貧乏ゆすりをしている。
取っ組み合いに発展するのも、時間の問題なのではないか。太陽は2人の様子を観察しながら、そう思った。
男の方が、頭一つ分背が高いためか。単なる親子喧嘩の様に見えなくもない。
「本当に親子だったりするのかもしれないな……っと」
ぼやきつつ、太陽は彼らから視線を外す。先刻、投げ捨てた傘を探さなければならなかったからだ。
彼の傘は、何回か裏返っているせいで、すっかり骨が曲がっている。そろそろ買い替えなければならないが、少なくとも今日だけは大切だ。
雨は嫌いではないが、好きでもない。自分から、好んでぐしょ濡れになる趣味は無い。
周囲を見渡すと、彼の傘は、数メートル先のゴミ捨て場まで転がっていた。数歩歩いて腰を屈め、傘を拾おうと手を伸ばして。
そこで漸く、太陽は異変に勘づいた。
「…………は?」
太陽の目の前には傘があった。依然、彼の視界の中だ。
だが、あるべきところには、なかった。
傘は、彼の手中にあった。
彼が拾うより前から、彼は既に傘の柄を掴んでいた。
太陽は咄嗟に手を離した。パサリと音を立て、傘が再び地面に落ちる。
落ちた傘を気にする余裕もないまま、太陽は叫んだ。
「拾って、ねぇ……。絶対に、俺は拾ってない! …………まさか、俺が……? 俺までが……ッ!?」
──『リセット』が自分にも適用されている。
そうとしか、考えられななかった。
ふと気が付くと、やはり当然の様に、彼の手は、数秒前に手放したはずの傘の柄を握りしめていた。
(まさか……!)
手元にある傘を見て、太陽は一つの可能性に思い至った。
己の仮説を裏付けるべく、彼は半ば反射的に、2人に視線を戻した。
そして、太陽の予想通り──2人の視線は、彼の元へと伸びていた。
彼らはじっと太陽の様子を窺っていた。
値踏みする様な視線に、太陽は思わず声を荒げ、捲し立てた。
「何だ、お前らいつから……って、そんなことはどうでも良い。この現象──どっちが原因だ? …………お前らの片方、もしくは両方なんだろ? 違うか!?」
「「…………」」
盗み見していたことを少しも悪びれずに、太陽は吠えた。悪びれずに、というよりは、開き直っていた。
数分前まで、他人事だと思っていた。実際無関係だったはずだ。それがいつの間にやら当事者になっていた。
太陽は困惑していた。
少しばかりの罪悪感と戸惑いが、彼に虚勢を張らせていた。
「2人揃って、黙っているんじゃあない! 何とか言ったらどうなんだッ!?」
傘を拾おうと屈む太陽を、2人が見下ろす形になっていた。
彼らは沈黙を保ったまま、屈んだままの太陽に向かって近づいていた。先刻まで、般若の如き形相を浮かべていた2人が、今では揃って、能面の様な無表情を携えていた。
やがて、彼のすぐそばまでたどり着くと、男の方が口を開いた。
「その格好は辛いだろう。体を起こしたらどうだい?」
そう言うと、男は太陽に手を伸ばした。対照的に、女の方は誰を見るでもなく、俯いたままだった。
髪を額の中心で分けて、黒縁の丸眼鏡をかけた中年男性。道端でうずくまる太陽をみかねて、本当に心配している様に見える。
そして、やはり、濡れていない。肌に触れた水滴は、付着後に数秒間隔で消えている。太陽の見間違いではない。距離として数メートル──この近さではあり得ぬ話だった。
男から差し出された手を、太陽は払い除けた。体を起こし、男を睨む。
「余計なお世話だ。それに、先に質問したのは俺の方だぜ。誰がこの現象を引き起こしているのか──単純な質問だ。お前はそんなことにさえ答えられないのか?」
男はややたじろぎ、ぱちぱちと瞬きをした。差し伸べた手をぞんざいに扱われるとは思っていなかったのか。口をポカンと開いている。
呆けている男に対して、やがて太陽はしびれを切らして。
「おい、聞いているのか?」
男の腕を掴もうと、手を伸ばし──。
「────ッ!?」
反射的にその手を引っ込めた。
太陽は、己が目を疑った。
今にも太陽が掴まんと、手を伸ばしていた男の左腕は、肘から下が捻じれていた。時計回りにぐるりと1回転させたようで、捻じれた先から袖が破けていた。破けたスーツからは、てらてらと光る赤黒い肉が露出している。
当然、スーツの肘先からは血が垂れているが、数秒後には雨粒と共に消失した。
やはり、この男も『リセット』の影響下にあると考えて良いだろう──太陽は微かに笑った。
だが、その笑みは瞬く間に消えた。
血の滲みは消えていた。
しかし、捻じれた腕は元に戻っていなかった。
それを見て、太陽の頭から血の気が引いていく。
(今しがた、俺はこいつの手を振り払った。まさか…………その時に折っちまったのか? ……というか、何故腕は治らないんだ?)
引き攣る口端を隠す様に、太陽は両手で自分の口を塞いだ。
「……あの、私……何か付いてるのかい? というか君、顔色悪いよ。大丈夫?」
突然黙りこくった太陽に、男は不思議そうな顔をした。
恐らく痛覚はなく、自分の怪我にも気づいてはいないのだろう。やせ我慢しているにしては、血色が良すぎる。
男のちょっとした身じろぎだけで、その拍子に腕から血が噴き出す。弁の壊れた蛇口の様に鮮血がほとばしり、周辺一帯を紅く染める。
噴き出した血液は太陽にも、そして隣にいた少女にもぶちまけられた。太陽は生理的な嫌悪感に顔を歪めたが、少女の方は眉一つ動かさなかった。
少女の視線は、ここではないどこか。遠い場所に向いている様に思えた。
「…………」
どこか諦観を帯びたその瞳を見て、太陽は何を言うべきか、数秒迷った。
──彼女はきっと、何か知っている。
そう直感した。
しかし本人に会話する意思が無いのであれば、それを確認するすべはない。
太陽は少し考えて、少女から視線を外した。
再び男を見た。正確には、男の怪我に注目した。
男の怪我は、急を要する事態なのかもしれない。男の捻じれた前腕はどういう訳か、雨粒や出血の様に元に戻っていない。このまま放置しておいて、無事である保証はない。
(さて、どうしたものか)
きっと、真っ当な倫理観を持つ者ならば、一刻も早く救急車を呼び、男の怪我を治療させようとするのだろう。本来なら、太陽も早急にコールしていたはずだった。
もっとも、其れは周囲の目がある場合の話である。
今、この場に居合わせているのは太陽含む3人のみ。そして、当事者である中年男性には自覚症状が無い。
おまけに、出血は『リセット』で無かったことになっている。
放置しても、騒ぎになる可能性は低く、一刻を争う訳でもない。
ともすれば太陽にとって、通報や負傷者への対応などよりも、優先すべきことがあった。
それは当然、超常現象の観察に他ならない。
衣嚢からスマホを取り出すと、太陽は液晶画面上に指を走らせた。
片手で操作しながら、徐に顔の高さまで持ち上げ。
──カシャ。
シャッターを切る音が、周囲に木霊した。
瞬間、太陽の視界から2人が消えた。
奴らはどこに──そう言おうと口を開き。
「──がはっ」
漏れたのは、肺の中に残っていた空気の塊だけであった。
身体を動かそうにも、頭の天辺から足の指先まで、欠片も動く気配がない。
背中のシャツが湿っていく触感から、少し遅れて、自分が地に寝ていることに気がついた。
何かに押さえつけられたみたいに、身体がぴくりとも動かない。
「写真を消してください!」
舗装路に寝る太陽の頭上から、何者かが叫んでいる。
声の高さから、恐らく女性。体を動かせない太陽からは確認のしようが無いが、先程から一緒にいた少女だろう。
(押し倒したのも彼女だろうな。ってことはやはり、彼女がキーマン──いや、キーウーマンといったところかぁぁーー)
「ハハハッ!」
「何笑っているんですかっ!? そのスマホを────寄越してッ!!」
掌を強引に開かれ、スマホを奪い取られる。それとほぼ同時に、身体の自由も元に戻った。いつの間にやら、太陽を押さえつけていた力も消えていた。
叩きつけられた腕を庇いながら、太陽はゆっくりと起き上がる。視界には、鬼の形相でスマホを操作する少女の姿があった。
血走った瞳で、どこか焦りを感じさせる様子を窺わせる。先程まで無関心を貫いていたとは思えない必死さだ。とてもじゃあないが、話しかけられる雰囲気ではない。
「……………………」
少女に聞こえるように、太陽はわざとらしくぼやいた。
「……それ、俺のスマホなんだけどなァァーー」
「…………」
少女を視界に入れつつ、太陽はポリポリと頭を掻いた。受け身も取れずに打ち付けたせいか、後頭部が少しばかり腫れている。
水溜まりに落ちたせいか、ぬるりとした感触も──感触?
「おい、まさか……」
目の前に掌を持ってくると、予想通り、太陽の手にはべったりと血が付いていた。
「やはり──ッ!!」
手巾を抜き取って、後頭部を抑えた。
半ば衝動的にに彼女の方に視線を飛ばし、文句を言おうと開口した時だった。
太陽のスマホが地面に落ちた。
「きゃあああああぁぁぁあああっ!!」
此方を見て、少女が叫んでいる。怯えた様子で、雨に濡れた地面にへたり込んでいる。
少女は震える身体で、太陽の──否、その足元に指を指した。
状況が見えないまま、太陽も視線を向け──。
「は?」
其処で思考が停止した。
彼女が指し示す先に居たのは、否。
倒れていたのは、彼女と行動を共にしていた──中年の男性だった。
うつ伏せで地にキスをして、その男性は血溜まりの中に居た。
ぴくりとも動かなかった。