13 配られたカードは 後編ノ上
──二杯の丼とみそ汁。
「いっただっきまーす!」
「……いただきます」
平日の昼過ぎ、某牛丼チェーン店にて、二つの声が上がった。
その店は、最寄り駅より歩いて五分程の距離に在った。数名の客が黙々と食事を取っていて、騒ぎ立てる輩は誰も居なかった。
故にその声は店内で大きく響いた。
彼らの中には、声の主をちらちらと見る者もいたが、それもあっという間の出来事であった。
彼らはすぐに興味を無くした風に、眼前の食事に熱中し始めていた。
声の一つは十代後半──学生と思わしき齢の少年。
少年は「いただきます」と言い終える前に、口の中に熱々の牛肉と米をかきこんでいた。
頬に米粒が付くのを歯牙にもかけず、少年は箸と顎を忙しなく動かしている。
育ち盛りの彼にとって、其れは無意識で仕方のないことであったが――それを白い目で見やる者が一人だけ居た。
宝石箱を開けた幼子のように、目を輝かせている少年から視線を逸らし、もう一つの声の主──彼の同伴者である少女は、顔を落とした。
テーブルに配膳された一杯の丼と一膳の箸。
少年に連れられるがまま食券を購入し、席に付いた少女は、眼前に映る茶碗をじっと見つめていた。
一心不乱に頬張る少年と違って、少女の手は膝上から離れてすらいない。
別段、牛丼を始めて見る訳では無い。苦手という訳でもない。
ただ、唐突な展開に付いていけないだけだった。
少女の名は水原夏希。
今朝方路地裏にて、ある中年男性が怪我を負っていた場面に出くわし、その怪我を──彼女は自身の能力『巻き戻し』で対処した。
それをこの少年に目撃され──どういうわけか、食事を共にしていた。
丼の中身を半分程平らげたところで、少年は水原に訊いた。
「食欲無いのか? 要らないなら、俺に頂戴な」
「いや、食べる。食べますよ、はい」
水原は慌てて、少年が手を伸ばしかけた丼を回収した。
食い意地の張った少年から逃げるように、水原は念入りに椅子を引いて、箸を手にする。
その様子を間近で見ていた少年は、自嘲気味に笑ってみせた。
「警戒しなくても、人の飯盗ったりしないってば」
「どうでしょうね」
「……あ、そう」
少しだけ肩を落とす少年から目を逸らし、水原は早速一口目を食べようと口を開く。
ほかほかと熱を帯びた米を口元へ運び──
「──って、そうじゃなくて! 何の為にここまで来たと思ってるんですかっ!?」
――箸を置き、少年に吠えた。
周囲の客に迷惑をかけないように、最大限声量を絞った小声で。それを受けた少年──大沼太陽はちろりと舌を出して苦笑する。
口には出さなかったが、太陽は思った。
流石に誤魔化されなかったか。
***
──その『巻き戻し』能力、世の為人の為に役立てる気はないかな?
ほんの数十分前の自分の発言を忘れたように、太陽は昼食に没頭していた。
殆ど食べ終わりかけていて、丼の底がちらちらと覗いていた。
自身も小さい口で少しづつ食べながら、水原は問う。
「それで、何時になったら説明して頂けれるので?」
水原に冷ややかな視線を向けられた太陽は、目を丸くしてこてんと首を傾げた。
それから窓の外を見て、水原を見た。
ややあって、太陽は手を叩いて言った。
「? ……あぁ! そうだった、忘れてたよ。危ない危ない」
「忘れてたって……」
水原は溜息を一つ溢して言った。
「さっき、貴方が私に言った言葉の真偽――白状するまで帰しませんからね?」
「言葉……言葉ねぇ。もしかして……『巻き戻し』でなら救える命がどうこうってヤツ?」
刹那、身の毛もよだつような悪寒が、太陽の背筋に走った。
大人でも腰を抜かす程の敵意が、太陽の全身に痛いぐらいに突き刺さっていた。
心臓の弱い年寄りであれば、文字通り視線だけで射殺せるであろう代物だった。
段階的に吊り上がる水原の眉を見ながら、太陽はやや早口で抗弁する。
「まあまあ、そうお怒りなさんなって。説明するから……食べたらすぐにでも」
「今すぐ、お願いします」
「いやでも、早く食べなきゃ冷めちゃう」
「早くやれ」
「……はい」
太陽が口を開く度に、水原の眉間のシワは濃く、そして深くなっていく。
もうそろ、冗談が通じなくなってくる頃合いである事は、その表情が物語っていた。
溜息を一つ溢して、太陽は水原に手を差し出す。
「んじゃあ手短に……水原、ナイフ持ってる?」
「……ナイフ?」
水原の眉間の皺が一層黒みを帯びる。
「持っていませんけれど……一体、何に使うんです? というか、牛丼屋さんにナイフって置いているのでしょうか……一応、店員さんに聞いてみますか?」
平気な顔で頭を振って、太陽は柔和な笑みを浮かべた。
「そこまでしなくていいや。ナイフは流石に置いてないだろうしなぁ……仕方ない。じゃあ、箸でいいや。サクッといける方が痛くなさそうで良かったんだけど……」
……箸? サクッといける?
一体、何の話をしている?
水原が頭に疑問符を浮かべた時だった。
少年が箸を逆手に持ち替え、其れを己の喉元に当てがった。
それから一瞬、力んだように唸り──
「せいっ」
――其れが噴き出した。
壊れた水道管のような勢いで、其れは噴き出した。
湧き出したというよりも、爆発したと言うべきか。
ぱたたっと、水原の頬にも数滴かかった。
生暖かく、滑るような感触の其れは、水原にとって、すっかり見慣れた液体だった。
顔を上げると、その噴出口が見てとれた。
「は?」
其れは眼前の少年から放出されていた。
彼の喉元から、放射状のシャワーとして漏れだしていた。
時折、ポンプで押されたように圧力を強めていて、生き物の蛇みたいに脈打っていた。
其れは、出血であった。
太陽の喉元から、血液が迸っていた。
喉元はざっくりと開かれていて、深部からは赤黒く、てらてらと光る肉が露わになっていた。
彼の手元には、先刻まで握っていた箸が転がっていた。カラコロと音を立てて転がるその箸の先端には、べったりと血痕がこびりついていた。
太陽は時折痙攣したように体を震わせていた。
打ち上げられた魚のようにその体が跳ねた瞬間、彼の顔が、ほんの一瞬だけ水原の目に入った。
それを見て、これまで放心状態にあった水原は、愕然と目を剥いた。
太陽の表情は――どうしようもないほどに、緩みきっていた。
一切の躊躇なく、水原は彼の頬を打った。
同時に、乾いた音が鳴った。
唐突な大音量に、店員、客問わず、店内に居合わせた全員が彼らのほうを凝視した。
しかし、暫くすると、彼らは何事も無かったかのように、再び目の前の食事に熱中し始めた。
理由は簡単だった。
彼らの目には、何も映っていなかったためだった。
映っていたのは、水原が太陽の頬をひっぱたいている姿だけだった。
二人の若人の囲むテーブルが、今しがたまで血に濡れていた事など、彼らには知るよしもなかった。
注目が集まる寸前のところで、水原が「巻き戻し」を使った事も。
他人に背を向けられる席に着き、その表情を目の前の連れにしか見せていない彼女の表情も。
当事者である二人以外には、知る術は無かった。
「──ッ! あ、貴方、何をして」
水原は太陽に問うた。
その声は震えていた。怒り、悲しみ、焦り、安堵、後悔――様々な感情がごちゃ混ぜになった叫びだった。
水原自身も何が言いたいのか、よく判ってはいなかった。
ただ、何かを訴えかけようと、太陽の肩を掴み、彼の顔を正面に見据えた。
その時のことだった。
彼が笑って言った。
「うん、ありがと」
青白い顔の水原を気にする様子も無く、少年は微笑していた。
曇りのない眼で、然して彼女を煽るように。
「やっぱり、想定内の反応だったな」
何処か遠くから烏の鳴き声がしたように、水原は感じた。




