12 配られたカードは 中編
時刻は既に、昼を跨いでいた。
往来する人々の数が増え、彼らの熱気と雨天特有の湿気が混じり合っていた。
噎せ返りそうになる程に淀んだ空気の中に、俺と水原は居た。
こんなに長丁場になると知っていたら、マスクの一つでも持参したろうに。
内心悪態をついて、俺は口元を手で覆った。
何時からそうしていたのか、水原はもう泣いていなかった。
俯き、背を丸めてもいなかった。
すっかり調子を取り戻したように、澄ました顔をしていた。
俺はこう切り出した。
「なァ、最後にもう一つだけ、教えてくれないか? ──そう、最初に述べた質問の三つ目を、今したい」
水原は視線だけ俺のほうに向けてから、其れをすぐに戻した。
一瞬で、彼女の表情が数段鋭い物に変質していた。
背筋にぞくりと悪寒が走る。
(……やはり、善い目を持っている)
関心のあまり、二、三度頷くも、それすら彼女は気にも留めず。
代わりに、石像のような無表情で応えた。
「……どうぞ」
「助かる。……助かる? うん? 何かおかしいような……まぁ、どうでもいいか。そんなことは。単刀直入に訊こう」
襟を正し、背筋を伸ばす。
一度、深く息を吸う。
しかして、俺はこの日一番良い笑みを浮かべ、訊ねた。
「その『巻き戻し』能力、世の為人の為に役立てる気はないかな?」
──刹那、水原の呼吸が止まった。
目をぱちくりと瞬かせ、きょとんと小首を傾げている。
周囲の喧騒がいやに大きく感じた。
数秒、誰も喋らなかった。
「は?」
「いや、だからな。お前の能力があれば、救える命が幾つも──」
最後まで言い切る事ができなかった。
俺の頬を、一人の手がぴしゃりと叩いていた。
頬を叩いた姿勢のまま、水原は停止していた。
やがてゆっくりと顔を上げ、彼女は人目もはばからずに叫んだ。
「──何言ってんの、アンタは!?」
水原は表情を大いに歪めていた。今にも掴みかかって来そうな気迫さえあった。
実際、何とか抑えていたのだろう。
怒りのあまり、自分の声が裏返っているのにさえ気づかない程だったのだから。
口調を取り繕う事もせず、彼女は思いの丈を吐き出していた。
「アンタ私の話聞いてた? 私がどれだけ自分の能力を嫌っているのか、伝わったと思うのだけれど! ちゃんと、説明しましたよね!?」
「勿論」
俺は頷く。
「そうだよね!? 私の声が小さすぎて、聞こえなかった訳でもないよね!?」
「勿論」
再び頷く。
「じゃあ如何して!?」
「それは──ッ」
三度頷きかけ──俺は言葉を失った。
避けられぬ火急の案件が生じていた。
突如として黙りこくった俺の異変に、水原は気付かなかった。
水原は幾分か平静を取り戻した様子で、俺に問う。
「それは、何です?」
「いやさ、その、あの」
挙動不審に言い淀む俺を前にして、水原は眉根を寄せた。
その目は、今まで見たどんなものよりも冷たい。
路地裏で初めて会った時よりも。
俺の失言が漏れ出た時よりも。
半年前の事件について、聞かせてくれた時よりも。
そして──。
「大沼太陽」
これまでに彼女が見せた、如何様な表情よりも──遥かに黒い、剥き出しの敵意を持って。
俺の瞳を覗き込んでいた。
「貴方は、何故あのような事を言えたのです」
其れは、どことなく、既視感を感じる詰め方だった。
だが、向けられているのは。
あの時よりずっと濃厚で、直接的な怒気。
人が進化の過程で捨てたはずの第六感──其れが俺の脳内で、引っ切り無しに危険信号を鳴らし続けているような気すらした。
噴火直前の火山を目の当たりにしているような、どうしようもない焦燥感。
俺は腹を押さえた。
「──ッ、いい加減に」
何時まで経っても、話そうとしない俺に業を煮やして、水原が爆発する──其の寸前の事象だった。
──俺の腹から、ぐううううと奇怪な音が鳴った。
音は水原の声どころか、半径五メートル以内の全ての音を上書きした。
それに限らず、通りすがりの視線までも一身に浴していた。
「…………」
「…………」
水原は何も言わなかった。
俺は顎を撫でて、目線を僅かに斜め下に逸らすと、小さく言った。
「……ひとまず、飯にしないか?」
……通りすがりの生温かい視線が辛かった。
心なしか、水原の表情も幾ばくか柔らかくなったような気がした。
時刻は午後一時三十六分。
雨はまだ止む気配を見せなかった。




